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明日のためにその一 2
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半燭時(約1時間)後、身支度を整えた四人は、オーウェンの屋敷の中庭に集まった。ステレは、普段からドレスどころかスカートさえ履かないので、ほぼそのままの恰好だったが、キリハは女中姿で打ち合いをする訳にもいかず、離に戻ると大急ぎで剣士の恰好に着替えて来た。オーウェンとテンゲンは、貴族としての対面だったので、二人とも略礼装に近い出立ちだったから、こちらも装飾の無い丈夫な生地の服に着替えて来た。
木剣を振って感触を確かめていたステレは、二人の姿が見えると、ドルトンとオーウェンに言われて伸ばし始めた髪(式典で「圧が強くなる」と勧められた)が目に入らぬように巻いている鉢巻を締め直して気合を入れた。
中庭に面する窓は全て閉じ、家人の目は遠ざけた。護衛ですら、廊下に待機させ、庭には入れなかった。テンゲンは気にしている風も無かったが、外国の武人の技を衆目に晒す訳にはいかないというオーウェンの配慮である。
手足の筋を伸ばすと、ステレとキリハ、オーウェンとテンゲンで準備運動替わりに打込みと受けを互いに繰り返し、身体を温める
「身体強化無し、念のため防御強化でやろう」
「はい」
そう言って打ち合いを始め、ステレが次第に速度を上げて行くと、キリハも応えるように速度を上げて行く。かなりの速度で木剣を振るが、キリハはしっかりと受け打ち返して来る。ドルトンが『女の剣士では一番の有望株』と言ったのは、身内贔屓という訳でも無さそうだった。これなら男の剣士ともそこそこやり合えるだろう。只人の頃のステレより強いように思える。大した才能だった。
(打込みの速さは大丈夫か。なら…)
ステレは速度を落とすと、少しずつ打ち込みに体重を乗せて行く、キリハの表情が次第に苦し気になって来た。それでもどうにか相手を務めていたが、限界と見たステレが身を引くと、打返そうとした剣を途中止めたキリハは、そのまま木剣を落とし、肩で息をしながら震える手を見た。
「身体強化無しで、この威力が…」
ステレの剣の重さは想像以上だった。ステレは、『オーウェンとテンゲンは自分より強い』と言っていた。自分の知る男の剣士の強さを何割か増しにして、ステレをその下に想定していたが、完全に強さのラインを引き間違っていた。
「筋は悪くない。俺もステレの剣をマトモに受けるとそうなる。そのうち上手く捌けるようになる」
テンゲンとの打ち合いの手を止めたオーウェンがそう言ってフォローしてくれたが、侯爵に気を使わせてしまったようで、更に申し訳なくなってくる。
「お前が心を折りに行ってどうする」
「それもそうか」
飛ばしすぎをオーウェンにたしなめられ、ステレはちょっとだけ反省した。周りが達人ばかりなので、少し感覚がズレていたかもしれない。
「うーん…」
キリハは実力の差に呆然としているようだった。こうならないようにステレが予告しておいたのだったが、予想していた以上の力に衝撃を受けているらしい。ステレがガランドやゴージを斬った事は知られていても、その二人がどれだけの使い手だったかキリハは知らない。そもそもこの百年間、生きた鬼人の目撃例すら少ない状況では仕方無いのかもしれない。人は自分の知識の範囲でしか想像することができないのだから。とはいえ、始まってもいないうちから委縮されても困る。
「オーウェンは嘘は言わないわよ。それに鬼人は、ちょっとズルしてるのよ」
「ズル?」
キリハが怪訝な顔でステレを見る。身体強化は使わない約束だったはずだが、感知できないだけで使っていたとでもいうのだろうか。
「そうだね、どう説明するのが一番判りやすいか……キリハは体術は?」
「一通りは」
「じゃ、私が押し倒そうとするから、投げて見て」
「ここでですか?」
中庭は土がむき出しだが、稽古に使われるため踏み固められて雑草も生えない。ここに投げ落としたら例え鬼人でもかなりのダメージになるように思える。
「私も受け身はできるよ。受け身を取れない投げが打てるなら、試してみてもいいよ」
挑発するように言うステレに、キリハは少々むっとした顔をした。
キリハは確かにステレとは体格差があるが、格闘戦は獣人の傭兵上がりからも技を伝授されている。背が低くい方が有効な投げもあるのだ。
「じゃあ行くぞ、うはははははは、うりゃ」
変質者よろしく、変な笑い声を上げながらステレはキリハに抱き着こうとした。だがキリハは素早く体を入れると、両腕でステレの右手を引くと同時に、ステレの身体を腰に載せて一本背負いで投げようとする。やや本気に、自分の足元に叩き付ける投げのつもりだった。
「うっ……」
その瞬間、キリハはステレの太刀筋の威力の意味が判った。
ステレは、投げられる前に地を蹴っていた。その勢いで空中で体を反転させると、足から着地して立ち上がる。
「うん、お見事。で、判った?」
「……はい」
「まぁ、なんというか、ズルなんだわ。ごめんね」
ステレは、男二人に視線を移す。オーウェンは知っているから(ベッドの上で格闘戦済みなので…)、テンゲンにも明かしておいた方がいいだろう。怪訝な顔をしているテンゲンにも、ステレは組討ちを申し出た。
「手合わせの前に、鬼人の手の内を一つ明かそうかと思います。素手で組討ちの相手をお願いできませんか?お国では、角力と言うとか?」
「今のようにでござるか?」
「えぇ」
「では角力とはすこし違いますな、角力は上半身裸なので男だけでござる」
「ありゃ、それは失礼しました」
ドヤ顔で知ったかぶりしてしまったのを恥じて、横を向いて何かぶつぶつ言っているステレをスルーして、テンゲンはちらりとオーウェンを見た。オーウェンとステレが特別な関係らしいことは、なんとはなしに判る。手合わせとはいえ、ステレと組み合って良いものだろうか。
「この場ではステレは剣士です。ご遠慮無用」
視線の意味に気づいたオーウェンはあっさりと言った。
なぜだか、テンゲンはちょっとだけ、残念なものを見る目になったが、気を取り直すと「では」とステレと相対した。
「身体強化無し、防御強化で」
「顔面と急所も無しにし申そう」
「…承知」
(一応、女扱いしてくれるんだ…)と思いながら、ステレは腰を落としながら前進する。テンゲンも腰を落とし、正面から互いの襟と袖口を取ると、肩口に頭を付ける形での押し合いになった。
(こ、これは…)
組み合ってすぐ、テンゲンにもキリハという護衛が困惑した事が理解できた。
重い。
ただ、重心が低いというだけでなく、物理的に重いのだ。
ステレは男に近い体格だが、巨漢という訳ではない。すらりと引き締まったいわゆる細マッチョである。なのに、全身を甲冑で固めた武者と押し合いをしているかの如く重い。しかも、甲冑を着ている相手と違い、不安定さがまるでない。
ステレは、テンゲンを振り回したり、足を刈ろうとはしなかった。テンゲンの服を掴み、そのまま真っすぐに押し込んで来る。その方が判りやすいだろうと考えたのだ。テンゲンは、力任せに押し込んで来るステレを正面から支えていたが、ステレが再度力を込めた瞬間、押し込む力を斜めに逸らし、足を跳ね上げた。ステレはバランスを崩して前につんのめったが、自ら飛んで、右手を地ついて一回転したが、その瞬間にテンゲンはステレの左手首を捉えていた。そのまま手首を極めて抉ろうとするが、ステレはもう一度回転しながら、併せて蹴りを繰り出して逃れようとした。今度はテンゲンが蹴り脚を躱しながらステレの腕に飛びつき、手首と肘を十字固めにしようとする。その瞬間、ステレは右手でテンゲンの足を叩いて降参の合図を送った。
テンゲンはくるりと体を回して着地するとステレの腕を離した。
「さすがはテンゲン様、剣はともかく素手の組討ちならいい線行けると思ったんですが…」
「いや、これだけ冷や汗をかかされたのは、それこそ何年振りかですぞ」
それは誇張ではない。
鬼人の身体の秘密は、その重さにある。そう知った今は猶更だ。もちろん、力が強い、体重が重い、それだけで勝てるほど甘くは無い。だが、さっきの飛びつき腕十字固めも、本来ならステレを転がして寝技に持ち込むつもりだった。男の剣士が片腕にぶら下がるのだから、相当の対格差がなければ腕力だけでは支えきれずに崩れるはずだった。体格差の無いステレを転がすことはできなかったのは、腕力だけでなくステレその物が重いからだ。それに、体重の重さは打撃の重さにも直結する。
確かに、動きにはまだまだ隙が多い。だが、実戦だったら…身体強化込みだったら、最後の十字固めも腕を挫こうとした瞬間に、絞め落とされるか地面に叩きつけられる。それに、ステレは押し合いで攻めるばかりだったが、身のこなしを見る限りは、投げもできるはずだ。鬼人との組討ちは命が幾つあっても足りない…テンゲンはそう実感した。
「手の内を明かしてよろしいのでござるか?」
「不意打ちはしたくないですし、手合わせの礼です。同胞がいつかどこかでテンゲン様と勝負する時に不利になるかも知れませんが、何しろ他の鬼人に会った事が無いので気にしようがありません」
正確に言えば、祖父グランが唯一会った自分以外の鬼人であるが、隠居の引き籠りだからふらりと勝負に出かける事も無いだろう。
「胸の内に秘めるようにいたそう」
「ありがとうございます」
ステレは素直に頭を下げた。オーウェンが「誰だこいつ?」みたいな顔で見ているが、後で覚えてろよ。諸侯国の武士は、とにかくギスギスしているとドルトンは言っていたが、こうまで律儀で丁寧な剣士は、王国にだってそうそう居ない。こういった人物相手に猫を被って礼を尽くすくらいは、ステレにもどうにかできる。
「で、ズルしてる鬼人の私でも勝てないテンゲン様は、只人な訳よ」
くるりと振り返ってそう言うと、キリハは「あっ」という顔になった。
普段、のほほんと暮らしているステレを見慣れていたせいで忘れていたが、そもそも鬼人の身体能力は女でも只人の男を上回るはずだ。だが、そのステレが勝てないという二人は自分と同じ只人なのだ。もちろん、女の身体の自分では、どうやっても男の二人と同じという訳にはいかないだろう。だが、自分にはまだまだ強くなれる余地があるのは確かだ。
「キリハどう?剣は振れる?」
「は、はいっ」
「滅多に無い機会なんだから、とにかく胸を借りようよ。反省会は後でたっぷりやったらいいわ」
「はいっ!」
闘志を取り戻したキリハを見て、ステレは満足げに頷いた。
身体の造りが違う以上、どうやっても女の剣士は壁に突き当たる。越えても越えても延々続く壁だし、いつか乗り越えることのできない巨大な壁に突き当たる。自分もそうだった。それでも、積み重ねた努力と経験は裏切らない。手練れの剣士と手合わせできるのは、剣士に取って何物にも代えがたい経験になる。
ステレは、王都中の剣士に手合わせを断られた後、グリフの招きでオーウェンを始めとする彼の食客と手合わせを続けた日々を思い出していた。それは、敗北を重ね続ける辛い日々でもあった。
強くなりたくて手合わせを求め、負けて落ち込み、工夫をして剣を振り、絶望して泣いた、そんな日々だった。それでも、あの日々がステレの生涯で最も充実した日々だった。あの日々があったから闘い続けることができた。
<夜明けの雲>に勝つために、もう一度あの日々が必要だ。今日がその第一歩だ。
木剣を振って感触を確かめていたステレは、二人の姿が見えると、ドルトンとオーウェンに言われて伸ばし始めた髪(式典で「圧が強くなる」と勧められた)が目に入らぬように巻いている鉢巻を締め直して気合を入れた。
中庭に面する窓は全て閉じ、家人の目は遠ざけた。護衛ですら、廊下に待機させ、庭には入れなかった。テンゲンは気にしている風も無かったが、外国の武人の技を衆目に晒す訳にはいかないというオーウェンの配慮である。
手足の筋を伸ばすと、ステレとキリハ、オーウェンとテンゲンで準備運動替わりに打込みと受けを互いに繰り返し、身体を温める
「身体強化無し、念のため防御強化でやろう」
「はい」
そう言って打ち合いを始め、ステレが次第に速度を上げて行くと、キリハも応えるように速度を上げて行く。かなりの速度で木剣を振るが、キリハはしっかりと受け打ち返して来る。ドルトンが『女の剣士では一番の有望株』と言ったのは、身内贔屓という訳でも無さそうだった。これなら男の剣士ともそこそこやり合えるだろう。只人の頃のステレより強いように思える。大した才能だった。
(打込みの速さは大丈夫か。なら…)
ステレは速度を落とすと、少しずつ打ち込みに体重を乗せて行く、キリハの表情が次第に苦し気になって来た。それでもどうにか相手を務めていたが、限界と見たステレが身を引くと、打返そうとした剣を途中止めたキリハは、そのまま木剣を落とし、肩で息をしながら震える手を見た。
「身体強化無しで、この威力が…」
ステレの剣の重さは想像以上だった。ステレは、『オーウェンとテンゲンは自分より強い』と言っていた。自分の知る男の剣士の強さを何割か増しにして、ステレをその下に想定していたが、完全に強さのラインを引き間違っていた。
「筋は悪くない。俺もステレの剣をマトモに受けるとそうなる。そのうち上手く捌けるようになる」
テンゲンとの打ち合いの手を止めたオーウェンがそう言ってフォローしてくれたが、侯爵に気を使わせてしまったようで、更に申し訳なくなってくる。
「お前が心を折りに行ってどうする」
「それもそうか」
飛ばしすぎをオーウェンにたしなめられ、ステレはちょっとだけ反省した。周りが達人ばかりなので、少し感覚がズレていたかもしれない。
「うーん…」
キリハは実力の差に呆然としているようだった。こうならないようにステレが予告しておいたのだったが、予想していた以上の力に衝撃を受けているらしい。ステレがガランドやゴージを斬った事は知られていても、その二人がどれだけの使い手だったかキリハは知らない。そもそもこの百年間、生きた鬼人の目撃例すら少ない状況では仕方無いのかもしれない。人は自分の知識の範囲でしか想像することができないのだから。とはいえ、始まってもいないうちから委縮されても困る。
「オーウェンは嘘は言わないわよ。それに鬼人は、ちょっとズルしてるのよ」
「ズル?」
キリハが怪訝な顔でステレを見る。身体強化は使わない約束だったはずだが、感知できないだけで使っていたとでもいうのだろうか。
「そうだね、どう説明するのが一番判りやすいか……キリハは体術は?」
「一通りは」
「じゃ、私が押し倒そうとするから、投げて見て」
「ここでですか?」
中庭は土がむき出しだが、稽古に使われるため踏み固められて雑草も生えない。ここに投げ落としたら例え鬼人でもかなりのダメージになるように思える。
「私も受け身はできるよ。受け身を取れない投げが打てるなら、試してみてもいいよ」
挑発するように言うステレに、キリハは少々むっとした顔をした。
キリハは確かにステレとは体格差があるが、格闘戦は獣人の傭兵上がりからも技を伝授されている。背が低くい方が有効な投げもあるのだ。
「じゃあ行くぞ、うはははははは、うりゃ」
変質者よろしく、変な笑い声を上げながらステレはキリハに抱き着こうとした。だがキリハは素早く体を入れると、両腕でステレの右手を引くと同時に、ステレの身体を腰に載せて一本背負いで投げようとする。やや本気に、自分の足元に叩き付ける投げのつもりだった。
「うっ……」
その瞬間、キリハはステレの太刀筋の威力の意味が判った。
ステレは、投げられる前に地を蹴っていた。その勢いで空中で体を反転させると、足から着地して立ち上がる。
「うん、お見事。で、判った?」
「……はい」
「まぁ、なんというか、ズルなんだわ。ごめんね」
ステレは、男二人に視線を移す。オーウェンは知っているから(ベッドの上で格闘戦済みなので…)、テンゲンにも明かしておいた方がいいだろう。怪訝な顔をしているテンゲンにも、ステレは組討ちを申し出た。
「手合わせの前に、鬼人の手の内を一つ明かそうかと思います。素手で組討ちの相手をお願いできませんか?お国では、角力と言うとか?」
「今のようにでござるか?」
「えぇ」
「では角力とはすこし違いますな、角力は上半身裸なので男だけでござる」
「ありゃ、それは失礼しました」
ドヤ顔で知ったかぶりしてしまったのを恥じて、横を向いて何かぶつぶつ言っているステレをスルーして、テンゲンはちらりとオーウェンを見た。オーウェンとステレが特別な関係らしいことは、なんとはなしに判る。手合わせとはいえ、ステレと組み合って良いものだろうか。
「この場ではステレは剣士です。ご遠慮無用」
視線の意味に気づいたオーウェンはあっさりと言った。
なぜだか、テンゲンはちょっとだけ、残念なものを見る目になったが、気を取り直すと「では」とステレと相対した。
「身体強化無し、防御強化で」
「顔面と急所も無しにし申そう」
「…承知」
(一応、女扱いしてくれるんだ…)と思いながら、ステレは腰を落としながら前進する。テンゲンも腰を落とし、正面から互いの襟と袖口を取ると、肩口に頭を付ける形での押し合いになった。
(こ、これは…)
組み合ってすぐ、テンゲンにもキリハという護衛が困惑した事が理解できた。
重い。
ただ、重心が低いというだけでなく、物理的に重いのだ。
ステレは男に近い体格だが、巨漢という訳ではない。すらりと引き締まったいわゆる細マッチョである。なのに、全身を甲冑で固めた武者と押し合いをしているかの如く重い。しかも、甲冑を着ている相手と違い、不安定さがまるでない。
ステレは、テンゲンを振り回したり、足を刈ろうとはしなかった。テンゲンの服を掴み、そのまま真っすぐに押し込んで来る。その方が判りやすいだろうと考えたのだ。テンゲンは、力任せに押し込んで来るステレを正面から支えていたが、ステレが再度力を込めた瞬間、押し込む力を斜めに逸らし、足を跳ね上げた。ステレはバランスを崩して前につんのめったが、自ら飛んで、右手を地ついて一回転したが、その瞬間にテンゲンはステレの左手首を捉えていた。そのまま手首を極めて抉ろうとするが、ステレはもう一度回転しながら、併せて蹴りを繰り出して逃れようとした。今度はテンゲンが蹴り脚を躱しながらステレの腕に飛びつき、手首と肘を十字固めにしようとする。その瞬間、ステレは右手でテンゲンの足を叩いて降参の合図を送った。
テンゲンはくるりと体を回して着地するとステレの腕を離した。
「さすがはテンゲン様、剣はともかく素手の組討ちならいい線行けると思ったんですが…」
「いや、これだけ冷や汗をかかされたのは、それこそ何年振りかですぞ」
それは誇張ではない。
鬼人の身体の秘密は、その重さにある。そう知った今は猶更だ。もちろん、力が強い、体重が重い、それだけで勝てるほど甘くは無い。だが、さっきの飛びつき腕十字固めも、本来ならステレを転がして寝技に持ち込むつもりだった。男の剣士が片腕にぶら下がるのだから、相当の対格差がなければ腕力だけでは支えきれずに崩れるはずだった。体格差の無いステレを転がすことはできなかったのは、腕力だけでなくステレその物が重いからだ。それに、体重の重さは打撃の重さにも直結する。
確かに、動きにはまだまだ隙が多い。だが、実戦だったら…身体強化込みだったら、最後の十字固めも腕を挫こうとした瞬間に、絞め落とされるか地面に叩きつけられる。それに、ステレは押し合いで攻めるばかりだったが、身のこなしを見る限りは、投げもできるはずだ。鬼人との組討ちは命が幾つあっても足りない…テンゲンはそう実感した。
「手の内を明かしてよろしいのでござるか?」
「不意打ちはしたくないですし、手合わせの礼です。同胞がいつかどこかでテンゲン様と勝負する時に不利になるかも知れませんが、何しろ他の鬼人に会った事が無いので気にしようがありません」
正確に言えば、祖父グランが唯一会った自分以外の鬼人であるが、隠居の引き籠りだからふらりと勝負に出かける事も無いだろう。
「胸の内に秘めるようにいたそう」
「ありがとうございます」
ステレは素直に頭を下げた。オーウェンが「誰だこいつ?」みたいな顔で見ているが、後で覚えてろよ。諸侯国の武士は、とにかくギスギスしているとドルトンは言っていたが、こうまで律儀で丁寧な剣士は、王国にだってそうそう居ない。こういった人物相手に猫を被って礼を尽くすくらいは、ステレにもどうにかできる。
「で、ズルしてる鬼人の私でも勝てないテンゲン様は、只人な訳よ」
くるりと振り返ってそう言うと、キリハは「あっ」という顔になった。
普段、のほほんと暮らしているステレを見慣れていたせいで忘れていたが、そもそも鬼人の身体能力は女でも只人の男を上回るはずだ。だが、そのステレが勝てないという二人は自分と同じ只人なのだ。もちろん、女の身体の自分では、どうやっても男の二人と同じという訳にはいかないだろう。だが、自分にはまだまだ強くなれる余地があるのは確かだ。
「キリハどう?剣は振れる?」
「は、はいっ」
「滅多に無い機会なんだから、とにかく胸を借りようよ。反省会は後でたっぷりやったらいいわ」
「はいっ!」
闘志を取り戻したキリハを見て、ステレは満足げに頷いた。
身体の造りが違う以上、どうやっても女の剣士は壁に突き当たる。越えても越えても延々続く壁だし、いつか乗り越えることのできない巨大な壁に突き当たる。自分もそうだった。それでも、積み重ねた努力と経験は裏切らない。手練れの剣士と手合わせできるのは、剣士に取って何物にも代えがたい経験になる。
ステレは、王都中の剣士に手合わせを断られた後、グリフの招きでオーウェンを始めとする彼の食客と手合わせを続けた日々を思い出していた。それは、敗北を重ね続ける辛い日々でもあった。
強くなりたくて手合わせを求め、負けて落ち込み、工夫をして剣を振り、絶望して泣いた、そんな日々だった。それでも、あの日々がステレの生涯で最も充実した日々だった。あの日々があったから闘い続けることができた。
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この度ついに完結しました。
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途中迷走してました……。
今までありがとうございました!
---
追記:2025/09/20
再編、あるいは続編を書くか迷ってます。
もし気になる方は、
コメント頂けるとするかもしれないです。
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