「格が違う」なら、どうぞお好きに。あなたも、鍵印のない範囲でお幸せに。

なかすあき

文字の大きさ
2 / 6

破棄された本人が、式の準備を進めます。

しおりを挟む
 聖具室は、祈りの音が届かない場所にある。
 廊下を隔てただけなのに、大聖堂の空気はここで一段、現実に近づく。香の甘さは薄まり、代わりに金属と蝋と乾いた紙の匂いが強くなる。壁の石は湿り気を含み、触れれば体温を奪っていく。儀式の裏側とはこういうものだ。華やかさは表に置き、重さは裏で支える。

 私は扉を閉めると、息をひとつ整えた。整える、というより、元の位置に戻す。
 胸の奥に浮かぶものはある。怒りか、悲しみか、恥か。
 けれどそれらは、今は名前を持てない。名を与えれば、私の中で大きく育ち、手元を狂わせる。狂わせるわけにはいかない。今日は、大事な日だから。

「セレナ様」

 低い声で呼ばれて振り向くと、オスヴァルト大司教が立っていた。
 白い法衣の襞は影を抱え、胸元の銀の十字は鈍い光を宿している。神に仕える者の装いは清いはずなのに、この人から漂うのは清さではなく秩序だった。祈りよりも規則を信じる種類の静けさ。

「控室から直接こちらへ?」

「はい。ごめんなさいね、急に変更してもらっちゃって」

 私は頭を下げた。アルトから婚約破棄を告げられたのが数刻前。盟約文や式次第の変更は骨が折れる作業だったと思う。

 大司教は短く首を振ってから、室内の棚を示した。棚には聖杯、聖油、封蝋、羊皮紙の束、そして細い針が並ぶ。どれも、目立たない。けれど一つひとつが、人生を変える力を持っている。刃物より静かに、確実に。

「聖杯はこちらです」と大司教が言う。

 銀の聖杯は、掌に乗せると驚くほど冷たかった。
 縁には古い文字が刻まれている。私の指はその溝をなぞり、刻印の深さを確かめる。血は溝に沿って流れ、文字に染み込む。そうして契約は、言葉だけではない形を持つ。

「はい、亀裂はありませんし、反射も歪んでいませんね」

「よろしい」

 大司教の声は、喜びの言葉ではなく、ただの判定だった。
 私はそれに救われる。感情を混ぜない評価は、時に人を落ち着かせる。

「盟約文を拝見します」

 羊皮紙の束から一枚を取り出し、私は机に広げた。
 黒いインクは乾き、文字は揺れない。祈祷文と契約文は似ている。どちらも、読む者の心より読む順序が大切だ。飛ばしてはいけない行がある。言い換えてはいけない語がある。

 私は最初の一文から、声に出さずに目で追った。
 あまりにも覚えている。けれど覚えているからこそ、変更したところを目の当たりにすると胸が詰まる。

――本盟約は、聖堂の名において締結される。
――当事者は、新郎アルト・グランヴェル、および花嫁ミレイア・ヴァンローゼ。
――信用主体は、当事者の血盟紋けつめいもんにより示される。
――鍵印けんいんの所在は、聖堂が確認する。

「……鍵印」

 その単語に触れた瞬間、舌の先がかすかに乾いた。
 私は紙から目を離さずに、指先でその行を押さえた。鍵印。そう呼ばれるものは、派手ではない。血盟紋の奥にある、さらに薄い層。見えない者には見えず、見える者には逃げようのない印。

 大司教が私の指先を見た。

「その行が気になりますか」

「いえ、規定として確認しただけです」

 私は言い、視線を戻した。嘘ではない。
 ただ、私の中で鍵印という言葉は、いつも“誰にも見せてはいけないもの”と結びついている。

 鍵印は、信用の根を示す。
 根がどこにあるか。誰の血が、この盟約に重みを与えるのか。
 それを知ってしまうと、人は「人」を見なくなる。金や家格と同じように、血を価値として扱い始める。

 だから私は、知っていても言わなかった。
 今日までは。

「当事者欄は――」

 大司教が淡々と告げる。

「本当にこちらでよろしいでしょうか」

 その瞬間、胸の奥で何かが小さく笑った。
 アルトは控室で、私に向かって言ったのだ。君はもう花嫁じゃない、と。
 だから、紙に書かれていることは間違っていない。
 そして、この紙の言葉は、アルトの気分よりずっと強い。

「現時点ではありません」と私は答えた。

 大司教は納得したように頷き、封蝋ふうろうの準備に移る。
 私は盟約文を慎重に戻し、次に席次表の束を取り出した。

 席次表。
 それは紙の上の地図であり、空気の流れを決める道具でもある。誰が誰の隣に座り、誰の視線がどこに集まるか。祝福は、配置で形を変えるかもしれない。

「来賓席の最前列は、いつものとおり商会の代表と、評議会の監査役」

 私は独り言のように言いながら、名前を確認した。
 ルーカス・ヴァレン。王都商会の使者。
 監査役、補佐官、聖堂の書記官。

 アルトが望む華やかな人々ではない。だが、盟約が成立するために必要な人々だ。
 そして、この人々は噂よりも書類を信じる。

 私は紙に視線を落としながら、異様なほど落ち着いている自分に気づいた。
 恐ろしいのは、落ち着いていること自体ではない。落ち着きの理由が、もう“愛”ではないことだ。

 アルトのために整えていた席次を、私は今、別の目的で整えている。
 儀式が滞りなく進むように。
 そして、滞りなく“確認”が行われるように。

「セレナ様」

 突然、背後から控えめな声がした。
 振り向くと、商会の使者ルーカスが立っていた。黒い外套の裾に、冬の外気が絡みついている。彼は礼儀正しいが、祈りの空気には馴染まない種類の男だ。目が、すでに計算を終えている目をしている。

「お時間よろしいでしょうか。署名の順番について」

「もちろん」

 私は席次表を閉じ、彼の差し出した小さな帳面に目を落とした。
 そこには、契約書の写しと、確認事項が端的に並んでいる。余計な言葉はない。けれどその簡潔さが、容赦のなさに繋がる。

「本日の盟約は、外部取引に影響します」とルーカスが言った。

「血盟紋の確認後、聖堂印の付与が完了しない場合、商会は――」

「契約を凍結する、ということですね」

 私は先に答えた。
 ルーカスが僅かに眉を上げる。驚きか、評価か、あるいは“今日は話が早い”という類の安堵か。

「はい。凍結です。再交渉には、信用主体の再確認が必要になります」

 私は頷いた。
 凍結。再確認。再交渉。
 どれも冷たい言葉だ。けれど、冷たい言葉ほど現実を動かす。

「大司教、確認ですが」と私はオスヴァルトへ向き直った。

「祈祷の前に、聖杯への滴下は当事者が行いますね」

「そのとおり」

「順番は、盟約文の当事者欄の順で?」

「原則はそうです」

 原則。
 原則は、時に人を救い、時に人を切る。私は原則が好きだ。原則は誰かの気分で変わらない。今の私には、それが何よりありがたい。

 私は聖杯を布で拭き、棚に戻した。銀はすぐに冷えた光を取り戻す。
 その光を見つめると、控室で見たアルトの笑みが思い出された。軽い力で置かれた言葉。

 終わりにしたい。格が違う。

 そう言った彼は、きっと自分が上に立っていると思っている。
 けれど、格とは何だろう。家名か、富か、評判か。
 私は、今日それを確認することになる。

 血盟紋は嘘をつかない。
 鍵印は、もっと嘘をつかない。

「式は予定どおり進めます」と私は静かに言った。
 誰に言ったのか、自分でも分からない。大司教か、ルーカスか、それとも自分自身か。

 大司教は短く頷いた。

「予定どおりに」

 ルーカスもまた、帳面を閉じて言う。

「同じく、予定どおりに」

 その言葉が、奇妙に心地よかった。
 私はその心地よさを、喜びと呼ばない。救いとも呼ばない。
 ただ、手続きの確かさだ。

 聖具室の窓のない壁に、灯りが揺れている。蝋燭の炎が、静かに揺れている。
 私はその揺れを見つめながら、胸の奥に溜まっていたものにようやく輪郭が生まれるのを感じた。

 怒りではない。復讐でもない。
 これは、再出発だ。

 私は最後にもう一度、盟約文の「鍵印」という文字を指で押さえた。
 押さえるだけで、紙は少しだけ沈む。
 その沈みが、現実の重さに繋がっている気がした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

友人の結婚式で友人兄嫁がスピーチしてくれたのだけど修羅場だった

海林檎
恋愛
え·····こんな時代錯誤の家まだあったんだ····? 友人の家はまさに嫁は義実家の家政婦と言った風潮の生きた化石でガチで引いた上での修羅場展開になった話を書きます·····(((((´°ω°`*))))))

夫の妹に財産を勝手に使われているらしいので、第三王子に全財産を寄付してみた

今川幸乃
恋愛
ローザン公爵家の跡継ぎオリバーの元に嫁いだレイラは若くして父が死んだため、実家の財産をすでにある程度相続していた。 レイラとオリバーは穏やかな新婚生活を送っていたが、なぜかオリバーは妹のエミリーが欲しがるものを何でも買ってあげている。 不審に思ったレイラが調べてみると、何とオリバーはレイラの財産を勝手に売り払ってそのお金でエミリーの欲しいものを買っていた。 レイラは実家を継いだ兄に相談し、自分に敵対する者には容赦しない”冷血王子”と恐れられるクルス第三王子に全財産を寄付することにする。 それでもオリバーはレイラの財産でエミリーに物を買い与え続けたが、自分に寄付された財産を勝手に売り払われたクルスは激怒し…… ※短め

婚約者が選んだのは私から魔力を盗んだ妹でした

今川幸乃
恋愛
バートン伯爵家のミアの婚約者、パーシーはいつも「魔法が使える人がいい」とばかり言っていた。 実はミアは幼いころに水の精霊と親しくなり、魔法も得意だった。 妹のリリーが怪我した時に母親に「リリーが可哀想だから魔法ぐらい譲ってあげなさい」と言われ、精霊を譲っていたのだった。 リリーはとっくに怪我が治っているというのにずっと仮病を使っていて一向に精霊を返すつもりはない。 それでもミアはずっと我慢していたが、ある日パーシーとリリーが仲良くしているのを見かける。 パーシーによると「怪我しているのに頑張っていてすごい」ということらしく、リリーも満更ではなさそうだった。 そのためミアはついに彼女から精霊を取り戻すことを決意する。

「君は完璧だから、放っておいても大丈夫」と笑った夫。~王宮から私が去ったあと「愛していた」と泣きついても、もう手遅れです~

水上
恋愛
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫だ」 夫である王太子はそう笑い、泣き真似が得意な見習い令嬢ばかりを優先した。 王太子妃セシリアは、怒り狂うこともなく、静かに心を閉ざす。 「左様でございますか」 彼女は夫への期待というノイズを遮断し、離縁の準備を始めた。

【完結】英雄様、婚約破棄なさるなら我々もこれにて失礼いたします。

ファンタジー
「婚約者であるニーナと誓いの破棄を望みます。あの女は何もせずのうのうと暮らしていた役立たずだ」 実力主義者のホリックは魔王討伐戦を終結させた褒美として国王に直談判する。どうやら戦争中も優雅に暮らしていたニーナを嫌っており、しかも戦地で出会った聖女との結婚を望んでいた。英雄となった自分に酔いしれる彼の元に、それまで苦楽を共にした仲間たちが寄ってきて…… 「「「ならば我々も失礼させてもらいましょう」」」 信頼していた部下たちは唐突にホリックの元を去っていった。 微ざまぁあり。

【完結】婚約者は自称サバサバ系の幼馴染に随分とご執心らしい

冬月光輝
恋愛
「ジーナとはそんな関係じゃないから、昔から男友達と同じ感覚で付き合ってるんだ」 婚約者で侯爵家の嫡男であるニッグには幼馴染のジーナがいる。 ジーナとニッグは私の前でも仲睦まじく、肩を組んだり、お互いにボディタッチをしたり、していたので私はそれに苦言を呈していた。 しかし、ニッグは彼女とは仲は良いがあくまでも友人で同性の友人と同じ感覚だと譲らない。 「あはは、私とニッグ? ないない、それはないわよ。私もこんな性格だから女として見られてなくて」 ジーナもジーナでニッグとの関係を否定しており、全ては私の邪推だと笑われてしまった。 しかし、ある日のこと見てしまう。 二人がキスをしているところを。 そのとき、私の中で何かが壊れた……。

父が再婚しました

Ruhuna
ファンタジー
母が亡くなって1ヶ月後に 父が再婚しました

両親に溺愛されて育った妹の顛末

葉柚
恋愛
皇太子妃になるためにと厳しく育てられた私、エミリアとは違い、本来私に与えられるはずだった両親からの愛までも注ぎ込まれて溺愛され育てられた妹のオフィーリア。 オフィーリアは両親からの過剰な愛を受けて愛らしく育ったが、過剰な愛を受けて育ったために次第に世界は自分のためにあると勘違いするようになってしまい……。 「お姉さまはずるいわ。皇太子妃になっていずれはこの国の妃になるのでしょう?」 「私も、この国の頂点に立つ女性になりたいわ。」 「ねえ、お姉さま。私の方が皇太子妃に相応しいと思うの。代わってくださらない?」 妹の要求は徐々にエスカレートしていき、最後には……。

処理中です...