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こころと殺し 後編
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そろそろ保護命令が切れそうなある日、顔なじみからの電話で、僕は一人の訃報を聞いた。
聡美さんの夫の訃報。
死因は急性アルコール中毒。
「・・・・・・は?」
一瞬呆けて、でもその瞬間にそれまでの違和感がすべて一直線につながった。
僕は大して着替えもせず顔なじみの事務所に慌てて向かった。聡美さんに会わなければと思った。
ドアを無我夢中で開けて、勢いのまま顔なじみに近寄った。顔なじみはソファで1人、うつむいて深く、深く息を吐いていた。無理矢理、自分を落ち着けようとしているのが分かった。
「なあ、これって」
「・・・・・・」
顔なじみは答えなかった。多分、答えられなかったんだろう。
その日、彼女に電話をかけようとしたが、繋がらなかった。それ以降も同じ。
数日して、僕らそれぞれのもとに彼女から手紙が届いた。
白い封筒に入った簡素な手紙。
「篠原 心愛 様
お礼も言わぬままこのような形であいさつを申し上げることをご容赦ください。先日の夫の訃報には大変驚かれたかと思います。
端的に申し上げますと、夫の死は私が意図したところによるものです。
私はこの結末を望んでいました。
篠原さんがなんとはなしに提案された、夫にアルコールを飲ませるという案を聞いた時点から、私の頭には今日、この日に至るまでの考えがぶわっと湧いてきました。
この形ならば、私は罪に問われることなく、私に危害がもう及ぶことはないのです。
これしかない、と思いました。
それからは、夫に酒を飲ませる計画を精力的に取り組みました。あの人が誘惑に弱いのは百も承知でしたし、実際にアルコール中毒になりかけたことも何度かありました。あの人にとって、今の状況はかなり過度なストレスのはずです。加えて、アルコールの誘惑があれば、抗うことはできません。
そうして、それを止め、代わりの発散相手となる私ももう隣には居ないのです。
私はあの場で一人、この計画の成功を確信していました。
夫の死の当日、私の電話には再三、夫から連絡が来ていました。しかし、私は一貫してそれを無視しました。警察の方には、再三電話がかかってきて怖くて出れなかったと伝えました。実際かかってきていましたし、電話停止命令もそろそろ出ようかという頃でした。
みんな、何一つ疑うことなく信じてくれました。夫の酒癖も離婚裁判ですでに明らかになっていたのも大きかったのでしょう。
でも私は知っていたのです。それがきっと、夫の最期の電話だったということを。果たして何を言うつもりだったのでしょうか、恨み言か、助けを呼ぶ声か、謝罪か。
恐ろしくもありますが、もう、知るすべはありません。
こうして、私は誰に咎められることなく、一人、目的を達成したのです。
夫を葬ることを、私の安全を守ることを。
頭のおかしい女と思われても、致し方ありませんが、私は今、幸せです。人を殺した罪悪感もそれにあなたがたを巻き込んでしまったことも。心を苦しめるのに違いはないのですが、それ以上に幸せなのです。
朝起きても、怒鳴り声が飛んでこない。すれ違うたびに殴られる心配をすることも。殴られるたびに痛みに泣き叫びそうになることも。心無い罵倒も。いわれのないやつあたりも。無理矢理に犯されることも。夫が酒を浴びるたび、それらが増すことも。
何より、死の危険を常に感じることも。
何も、何もないのです。
誰にもおびえることなく生きていけるのです。
毎朝起きるたび、篠原さんに教えていただいた習慣や療法を一つずつ試しています。
すると身体が充実していきます。心が充実していきます。
それを感じるたびに、自分は生きていていいのだと泣きそうになります。
私はもう否定されないでいいのだと思うと、どうしても幸せになってしまうのです。
夫のことを想う心は多分、殴られているうちにどこか砕けてしまったのでしょう。
これでは狂った女だと思われても致し方ありませんね。
何卒ご容赦ください、それでも私は幸せになりたかったのです。
たとえ、どんな犠牲を払ったとしても。
ただ、その中に篠原さんと綿貫さんの心が含まれてしまったのが唯一の後悔です。
あなた方はこんな私のために、親身に心を砕いてくださいました。
何度、お礼を言っても足りません。
そんなあなた方に、人殺しの片棒を背負わせることになってしまいました。
申し訳ございません。言葉をいくら並べても、謝りきれることではありませんが、申し訳ございません。
それでも、ありがとうございました。
あなた方の犠牲のおかげで、私は今日、幸せです。
それぞれの口座に私と夫の財産の四半分ずつを振り込ませていただきました。
私が払える全財産の半分をあなた方にお渡しします。私の人生を救っていただいたお礼です。
金額で贖われることではないでしょうが、せめてもの気持ちです。どうかお受け取りください。
そして、手前勝手なお願いではありますが、どうか幸せな人生をお過ごしください。
もう、合わせる顔もございませんが、細やかながらあなたがたの幸せを祈っております。
また、この事実を公表されるか否かの判断はお二人お任せいたします。
そして、公表される場合は謹んで、その罰を甘んじて受けさせていただきます。
もしそのような結果になっても、お二人を恨むようなことはありませんのでご安心ください。
それはそれで誰もが納得する正しい結末なのでしょう。
最後に、どうかお二人が幸せでありますように、心から祈っています。
瀬田 聡美」
僕らは事務所でそれぞれに来ていた手紙を読んだ。
どちらもしばらく黙って動かなかった。
心には穴が開いたみたいに、言葉が出てこない。思考すら脳が拒絶しているみたいだった。
それでも、衝撃は少しずつ和らぐ。
思考が微細にはじまっていく。
実質的に、僕は人を殺したのだ。いくら直接的じゃなかろうが、その片棒を担いだのだ。そもそも、最初の提案は僕によって行われた。
何より、僕はその可能性があることを心のどこかで考えていたんじゃないのか。
見て見ぬふりをしただけ。
そんなわけはないと、気付かぬふりをしていただけ。
そのことを理解して。
理解して?
自分の思考の違和感に気が付いた。
頭痛を我慢しながら、言語化できない想いを無理矢理引っ張り出す。
そう、違和感には気が付いていた。前から。
彼女がその結末を望んでいるかもしれないことにはどこか気づいていた。
それで。
それで。
僕は心のどこかでそれをよしとしたんだ。
犠牲が出ても、彼女が幸せになることを。僕はよしとしたんだ。
心が凍えそうだった、冷え切ってしまいそうだった。
でも完全に止まってはくれない。ゆっくりとだけど、思考の歯車は回っている。
彼女は自分が狂っているといっているけれど。
心のどこかで、それはそれでいいと思っている自分がいる。
救われたのなら、それでいいと思っている自分がいる。
きっと、他の誰かから見れば、どう考えても間違っている感覚。
でも、それでも、沢山の犠牲は出たけれど。
この人が幸せでよかったと、そう思ってしまった。
思ってしまったんだ。
そんな事実に、自分に気がついた。
「ライターとか・・・ある?」
僕がそう問うと、顔なじみはデスクの引き出しからライターを取り出して僕に渡した。ほこりをかぶっているが新品だ、多分来客用のやつなのだろう。
僕は手紙に火をつけた。
それから、灰皿の上に落とした。
顔なじみは一瞬驚いた顔をしたけれど、しばらくすると肩を落とした。
この手紙は、彼女が殺意をもっていたという物証になるのだろう。
恐らく、この世に二通だけの彼女の殺意を示すもの。
僕にはこれはいらない、必要ない。つまりこの事実はこのまま火の中に消えていく。
彼女の罪が今、目の前で形を失っていく。
「僕、おかしいのかな。酷い話だとは思うんだけれど。聡美さんが幸せになってよかったと思ってる自分がいるんだ」
「別に、おかしくねえだろ。それはそれでよかったんだよ。犠牲は大きいけどな」
火が半分ほど手紙を燃やした。
顔なじみはしばらく自分の手紙を眺めていた。
でも、少ししてため息をつくと、広げていた手紙を丁寧に畳んだ。
「人の幸せをよかったって思うのがおかしいなら」
顔なじみはそこで言葉を切った。
「多分、俺もおかしいんだよ」
二通目の手紙が火の中に入った。
一通目の手紙は燃えかけていて、その残り火が二通目を燃やしていく。
僕らはしばらくその火を眺めた。
十数秒ほどで手紙は燃え尽きた。
これで、彼女を咎めることはもう、誰にもできない。彼女の幸せを邪魔するものはどこにもいない。
しばらく火の余韻を眺めた後、僕は口を動かした。
「追伸、見た?」
「・・・・ああ」
手紙の最後には追伸が書かれていた。
「私と同じように苦しんでいる方がいます。できれば、彼女の力になってあげてください。彼女も、どうにもならない状態に苦しんでいます。おそらく私と同じように犠牲が必要なのです」
そんな言葉と、電話番号を添えて。
「掛けるのか?」
「・・・うん」
「絶対、しんどいぞ?」
「・・・・そうだね」
「・・・・・・・」
「僕はさ」
「・・・・」
「昔、自分の苦しみを人に言えなくてずっと独りだったから」
「・・・」
「独りで苦しんでいる人が救われるなら、それでいいかなって。犠牲があっても幸せになれるならそれでいいかなって」
「・・・」
「そう思うんだ」
「・・・病気だよ、びょーき。人を救いたい病だ。自分の幸せどこいった」
「・・・そういえば、昔、教授が人を救おうとする奴は大概、病気だっていってた」
「ちげえねえや・・・、連絡は俺がとるよ」
「・・・・いいの?」
「独りは嫌なんだろ。お前だけだとポカしそうだし。夢見が悪いから付き合ってやるよ」
「はは、君は相変わらず変な奴だ」
「お前に言われたくねえ」
その日、家に帰りついて眠るために電気を消した。
考える、今日のこと、聡美さんのこと、死んだ彼女の夫のこと、自分が仕込んだたくさんのこと。結果的に彼を死に追いやったこと。
考える、考える、考える。
誰かの犠牲を、誰かの幸せを。
顔なじみの声が響いた。自分の幸せどこいったって。
どこだろう、わからない。
改めて、少し恐ろしくなる。
人を殺して、些細な試みばかりとはいえ、確かに人を殺して。
僕は幸せになれるのかな。
幸せになっていいのかな?
答えは出ない。出すすべもない。
目は冴えたまま、ふらふらとベッドから抜け出る。
ベランダに出て、空を仰いだ。
僕は彼の犠牲に見合う何かになれるのだろうか。
心を折るな。と誰かが言った。教授の声だけど、教授はそんなこと言ったことがない。じゃあ、僕の声だ。
今更になって、震えが来た。涙がこぼれた。
今、僕は、独りだ。
震えた身体を抱えて、室内に戻った。床に着こうとして、恐ろしくなった。
夢を見てしまいそうだったから。
何の夢か考えるのすら怖かったから。
眠れない。
荒い息のまま、独り椅子に座った。
読書灯をつけて、そのままじっとしていた。
深く息を吸って、深く息を吐く。落ち着け、落ち着け。
ただ、どれだけやっても雑念は僕の頭の中をぐるぐると回っていた。
しばらくそうして、僕は眠ることを諦めた。
そうだ、本でも読もう。最近、忙しくて読む機会がなかった。
僕はもう一度、ゆっくりと息を吐いた。
本の文字を追っていると、少し気分がマシになった。
夢のことも、悪い想像も気にしないでいられた。
ああ、とため息を吐いた。それすら、静かな夜では耳について。
これは、きっと、そうだね。
眠れない。眠らない。何より、眠りたくない。
軽く笑った、こんなので幸せになれるのだろうか。
夜はまだまだ長いというのに。
これが僕の最初の殺しの話だ。
聡美さんの夫の訃報。
死因は急性アルコール中毒。
「・・・・・・は?」
一瞬呆けて、でもその瞬間にそれまでの違和感がすべて一直線につながった。
僕は大して着替えもせず顔なじみの事務所に慌てて向かった。聡美さんに会わなければと思った。
ドアを無我夢中で開けて、勢いのまま顔なじみに近寄った。顔なじみはソファで1人、うつむいて深く、深く息を吐いていた。無理矢理、自分を落ち着けようとしているのが分かった。
「なあ、これって」
「・・・・・・」
顔なじみは答えなかった。多分、答えられなかったんだろう。
その日、彼女に電話をかけようとしたが、繋がらなかった。それ以降も同じ。
数日して、僕らそれぞれのもとに彼女から手紙が届いた。
白い封筒に入った簡素な手紙。
「篠原 心愛 様
お礼も言わぬままこのような形であいさつを申し上げることをご容赦ください。先日の夫の訃報には大変驚かれたかと思います。
端的に申し上げますと、夫の死は私が意図したところによるものです。
私はこの結末を望んでいました。
篠原さんがなんとはなしに提案された、夫にアルコールを飲ませるという案を聞いた時点から、私の頭には今日、この日に至るまでの考えがぶわっと湧いてきました。
この形ならば、私は罪に問われることなく、私に危害がもう及ぶことはないのです。
これしかない、と思いました。
それからは、夫に酒を飲ませる計画を精力的に取り組みました。あの人が誘惑に弱いのは百も承知でしたし、実際にアルコール中毒になりかけたことも何度かありました。あの人にとって、今の状況はかなり過度なストレスのはずです。加えて、アルコールの誘惑があれば、抗うことはできません。
そうして、それを止め、代わりの発散相手となる私ももう隣には居ないのです。
私はあの場で一人、この計画の成功を確信していました。
夫の死の当日、私の電話には再三、夫から連絡が来ていました。しかし、私は一貫してそれを無視しました。警察の方には、再三電話がかかってきて怖くて出れなかったと伝えました。実際かかってきていましたし、電話停止命令もそろそろ出ようかという頃でした。
みんな、何一つ疑うことなく信じてくれました。夫の酒癖も離婚裁判ですでに明らかになっていたのも大きかったのでしょう。
でも私は知っていたのです。それがきっと、夫の最期の電話だったということを。果たして何を言うつもりだったのでしょうか、恨み言か、助けを呼ぶ声か、謝罪か。
恐ろしくもありますが、もう、知るすべはありません。
こうして、私は誰に咎められることなく、一人、目的を達成したのです。
夫を葬ることを、私の安全を守ることを。
頭のおかしい女と思われても、致し方ありませんが、私は今、幸せです。人を殺した罪悪感もそれにあなたがたを巻き込んでしまったことも。心を苦しめるのに違いはないのですが、それ以上に幸せなのです。
朝起きても、怒鳴り声が飛んでこない。すれ違うたびに殴られる心配をすることも。殴られるたびに痛みに泣き叫びそうになることも。心無い罵倒も。いわれのないやつあたりも。無理矢理に犯されることも。夫が酒を浴びるたび、それらが増すことも。
何より、死の危険を常に感じることも。
何も、何もないのです。
誰にもおびえることなく生きていけるのです。
毎朝起きるたび、篠原さんに教えていただいた習慣や療法を一つずつ試しています。
すると身体が充実していきます。心が充実していきます。
それを感じるたびに、自分は生きていていいのだと泣きそうになります。
私はもう否定されないでいいのだと思うと、どうしても幸せになってしまうのです。
夫のことを想う心は多分、殴られているうちにどこか砕けてしまったのでしょう。
これでは狂った女だと思われても致し方ありませんね。
何卒ご容赦ください、それでも私は幸せになりたかったのです。
たとえ、どんな犠牲を払ったとしても。
ただ、その中に篠原さんと綿貫さんの心が含まれてしまったのが唯一の後悔です。
あなた方はこんな私のために、親身に心を砕いてくださいました。
何度、お礼を言っても足りません。
そんなあなた方に、人殺しの片棒を背負わせることになってしまいました。
申し訳ございません。言葉をいくら並べても、謝りきれることではありませんが、申し訳ございません。
それでも、ありがとうございました。
あなた方の犠牲のおかげで、私は今日、幸せです。
それぞれの口座に私と夫の財産の四半分ずつを振り込ませていただきました。
私が払える全財産の半分をあなた方にお渡しします。私の人生を救っていただいたお礼です。
金額で贖われることではないでしょうが、せめてもの気持ちです。どうかお受け取りください。
そして、手前勝手なお願いではありますが、どうか幸せな人生をお過ごしください。
もう、合わせる顔もございませんが、細やかながらあなたがたの幸せを祈っております。
また、この事実を公表されるか否かの判断はお二人お任せいたします。
そして、公表される場合は謹んで、その罰を甘んじて受けさせていただきます。
もしそのような結果になっても、お二人を恨むようなことはありませんのでご安心ください。
それはそれで誰もが納得する正しい結末なのでしょう。
最後に、どうかお二人が幸せでありますように、心から祈っています。
瀬田 聡美」
僕らは事務所でそれぞれに来ていた手紙を読んだ。
どちらもしばらく黙って動かなかった。
心には穴が開いたみたいに、言葉が出てこない。思考すら脳が拒絶しているみたいだった。
それでも、衝撃は少しずつ和らぐ。
思考が微細にはじまっていく。
実質的に、僕は人を殺したのだ。いくら直接的じゃなかろうが、その片棒を担いだのだ。そもそも、最初の提案は僕によって行われた。
何より、僕はその可能性があることを心のどこかで考えていたんじゃないのか。
見て見ぬふりをしただけ。
そんなわけはないと、気付かぬふりをしていただけ。
そのことを理解して。
理解して?
自分の思考の違和感に気が付いた。
頭痛を我慢しながら、言語化できない想いを無理矢理引っ張り出す。
そう、違和感には気が付いていた。前から。
彼女がその結末を望んでいるかもしれないことにはどこか気づいていた。
それで。
それで。
僕は心のどこかでそれをよしとしたんだ。
犠牲が出ても、彼女が幸せになることを。僕はよしとしたんだ。
心が凍えそうだった、冷え切ってしまいそうだった。
でも完全に止まってはくれない。ゆっくりとだけど、思考の歯車は回っている。
彼女は自分が狂っているといっているけれど。
心のどこかで、それはそれでいいと思っている自分がいる。
救われたのなら、それでいいと思っている自分がいる。
きっと、他の誰かから見れば、どう考えても間違っている感覚。
でも、それでも、沢山の犠牲は出たけれど。
この人が幸せでよかったと、そう思ってしまった。
思ってしまったんだ。
そんな事実に、自分に気がついた。
「ライターとか・・・ある?」
僕がそう問うと、顔なじみはデスクの引き出しからライターを取り出して僕に渡した。ほこりをかぶっているが新品だ、多分来客用のやつなのだろう。
僕は手紙に火をつけた。
それから、灰皿の上に落とした。
顔なじみは一瞬驚いた顔をしたけれど、しばらくすると肩を落とした。
この手紙は、彼女が殺意をもっていたという物証になるのだろう。
恐らく、この世に二通だけの彼女の殺意を示すもの。
僕にはこれはいらない、必要ない。つまりこの事実はこのまま火の中に消えていく。
彼女の罪が今、目の前で形を失っていく。
「僕、おかしいのかな。酷い話だとは思うんだけれど。聡美さんが幸せになってよかったと思ってる自分がいるんだ」
「別に、おかしくねえだろ。それはそれでよかったんだよ。犠牲は大きいけどな」
火が半分ほど手紙を燃やした。
顔なじみはしばらく自分の手紙を眺めていた。
でも、少ししてため息をつくと、広げていた手紙を丁寧に畳んだ。
「人の幸せをよかったって思うのがおかしいなら」
顔なじみはそこで言葉を切った。
「多分、俺もおかしいんだよ」
二通目の手紙が火の中に入った。
一通目の手紙は燃えかけていて、その残り火が二通目を燃やしていく。
僕らはしばらくその火を眺めた。
十数秒ほどで手紙は燃え尽きた。
これで、彼女を咎めることはもう、誰にもできない。彼女の幸せを邪魔するものはどこにもいない。
しばらく火の余韻を眺めた後、僕は口を動かした。
「追伸、見た?」
「・・・・ああ」
手紙の最後には追伸が書かれていた。
「私と同じように苦しんでいる方がいます。できれば、彼女の力になってあげてください。彼女も、どうにもならない状態に苦しんでいます。おそらく私と同じように犠牲が必要なのです」
そんな言葉と、電話番号を添えて。
「掛けるのか?」
「・・・うん」
「絶対、しんどいぞ?」
「・・・・そうだね」
「・・・・・・・」
「僕はさ」
「・・・・」
「昔、自分の苦しみを人に言えなくてずっと独りだったから」
「・・・」
「独りで苦しんでいる人が救われるなら、それでいいかなって。犠牲があっても幸せになれるならそれでいいかなって」
「・・・」
「そう思うんだ」
「・・・病気だよ、びょーき。人を救いたい病だ。自分の幸せどこいった」
「・・・そういえば、昔、教授が人を救おうとする奴は大概、病気だっていってた」
「ちげえねえや・・・、連絡は俺がとるよ」
「・・・・いいの?」
「独りは嫌なんだろ。お前だけだとポカしそうだし。夢見が悪いから付き合ってやるよ」
「はは、君は相変わらず変な奴だ」
「お前に言われたくねえ」
その日、家に帰りついて眠るために電気を消した。
考える、今日のこと、聡美さんのこと、死んだ彼女の夫のこと、自分が仕込んだたくさんのこと。結果的に彼を死に追いやったこと。
考える、考える、考える。
誰かの犠牲を、誰かの幸せを。
顔なじみの声が響いた。自分の幸せどこいったって。
どこだろう、わからない。
改めて、少し恐ろしくなる。
人を殺して、些細な試みばかりとはいえ、確かに人を殺して。
僕は幸せになれるのかな。
幸せになっていいのかな?
答えは出ない。出すすべもない。
目は冴えたまま、ふらふらとベッドから抜け出る。
ベランダに出て、空を仰いだ。
僕は彼の犠牲に見合う何かになれるのだろうか。
心を折るな。と誰かが言った。教授の声だけど、教授はそんなこと言ったことがない。じゃあ、僕の声だ。
今更になって、震えが来た。涙がこぼれた。
今、僕は、独りだ。
震えた身体を抱えて、室内に戻った。床に着こうとして、恐ろしくなった。
夢を見てしまいそうだったから。
何の夢か考えるのすら怖かったから。
眠れない。
荒い息のまま、独り椅子に座った。
読書灯をつけて、そのままじっとしていた。
深く息を吸って、深く息を吐く。落ち着け、落ち着け。
ただ、どれだけやっても雑念は僕の頭の中をぐるぐると回っていた。
しばらくそうして、僕は眠ることを諦めた。
そうだ、本でも読もう。最近、忙しくて読む機会がなかった。
僕はもう一度、ゆっくりと息を吐いた。
本の文字を追っていると、少し気分がマシになった。
夢のことも、悪い想像も気にしないでいられた。
ああ、とため息を吐いた。それすら、静かな夜では耳について。
これは、きっと、そうだね。
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