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「これをチェックしてくれ。付箋を貼ってある箇所だ。データはUSBメモリに入っている。今日は送るから、自宅で修正して明日の朝一で提出してくれ」
車に乗り込んで早々、A4サイズの茶封筒を渡された綾香は、「承知いたしました」と大きめのショルダーバッグの中にそれをしまった。
司がアクセルを踏み、静かに車を発進させる。エンジン音も静かな車内に、しばらく沈黙が続いた。
「楽しかったか?」
司の声に、綾香は瞬きした。
「え、ええ、久しぶりでしたので。同期とも会えましたし」
綾香は司の横顔を見ながら言葉を継いだ。
「私……今まで妹がいたので、同期会にはほとんど参加していなくて。不義理なことをしていたんだ、と反省しました。ですから、これからはできるだけ……」
「そんな暇はないと思うがな。今日はたまたま仕事が早く終わっただけだ」
言葉を遮られた綾香はむっと唇を歪めたが、すぐに冷静さを取り戻す。
「そう、ですね。仕事には差し支えないようにします」
司の顔を見ると、彼もまた苛立たしげに舌打ちをしていた。何なのだろうか、一体。隣から感じる嫌な雰囲気に、楽しかった同期会の余韻も消えてしまった。
(私が仕事で手を抜くとでも思っているの、この人は!?)
秘書の仕事に誇りを持っている綾香にとっては、最大の侮辱だ。綾菜と海斗の結婚準備で忙しかった時だって、綾香は一度も仕事に支障をきたしたことなどない。
むかむかと込み上げる怒りを堪えていると、司が言葉を続けた。
「……お前はこのまま海斗の秘書を続ける気か?」
「……え?」
ぽかん、と口を開ける綾香を横目で見て、司がふっと笑った。その笑みはどこか皮肉っぽい。
「海斗が新婚旅行から戻ってきたら、またあいつの秘書をする気か、と聞いている」
綾香は愕然とした。
(……海斗さんが戻ってきたら……? 私……何も考えてなかった)
二人が新婚旅行に行っている間に海斗への思いを忘れようとしていた。辛くてもそうしないと、と思っていたはずだったのに。
(この人を相手するのに精一杯で、今後のことなんて……)
そこまで考えた瞬間、綾香の思考の全てが停止した。
(私……っ!?)
――ここ数日、海斗のことを考えてもいない。綾菜のことは心配しているのに。
(どうして……)
もう答えは分かっている。今、自分の隣に座っている、この男のせいだ。振り回されて、腹を立てて――そうしている間は海斗のことを思い出さなかった。
沈黙した綾香の耳に、低い声が入り込んできた。
「お前にその気があるなら、藤堂カンパニーに引き抜いてもいいが」
「え!?」
意外な言葉に、ようやく綾香の頭が動き出した。思わず横を見ると、真っ直ぐ前を見る司は、仕事で指示を出す時と同じ表情をしていた。
「引き抜き……って」
「ああ」
司は緩やかなカーブでハンドルを切った後、横目でちらりと綾香を見た。どくんと綾香の心臓が跳ねる。
「お前の実力は認める。藤堂の本社でも通用するだろう。俺の今の秘書は、今年定年で退職することが決まっている。だからお前をスカウトしたい」
「……」
初めて彼に仕事を褒められたことで、綾香は驚いて目を丸くした。今まで皮肉しか言わなかった司が、自分の仕事ぶりを正当に認めてくれていたことが、すぐには理解できなかった。やがてゆっくりと胸の底から熱いものがこみ上げてくる。
(どうしよう……すごく、嬉しい)
仕事に厳しい司に褒められることが、これほど嬉しいとは思っていなかった。傲慢で腹立たしい男だと思っていたのに。綾香は熱くなった頬を隠そうとして少し俯いた。
(でも、実際……)
続けるのか辞めるのか、どちらにせよ、自分一人で決められる問題ではない。
「あの……」
綾香は言葉を選びつつ、ゆっくりと告げる。
「そう言っていただけて、とても嬉しいです。ですが、社長と相談しなくては。私の一存では決められません」
司の瞳が一瞬光ったが、すぐにああ、と軽く頷いた。
「海斗ともよく相談して決めるといい。あいつも義理の姉を秘書として使い続けることに、何か思うところがあるかもしれないしな」
「……はい」
綾香は混乱した思いを抱えたまま、助手席に座っていることしかできなかった。
***
「送っていただいて、ありがとうございました」
自宅アパート前で車を降りた綾香は、そう言ってぺこり、とお辞儀をした。司は、「また明日」と返し、車を発進させる。車が角を曲がるまで見送っていた綾香は、まだ気持ちが揺れていた。
(……どうしよう)
いろんなことが頭の中でぐちゃぐちゃになっている。自分の気持ちがよく分からない。続けたいのか、辞めたいのか。あの人の秘書として、藤堂カンパニーに行きたいのか。
(あんな傲慢な人のところなんて……でも)
海斗と綾菜が戻ってくるまでに、決めないといけない。その時までに、このわけの分からない思いにも決着をつけないといけない。
はあ、と溜息をついた綾香は、次の瞬間――体を強張らせた。
「よぉ、綾香……大きくなったな。いい女になったじゃねえか」
(この声――!!)
二度と聞きたくなかったダミ声。綾香はゆっくりと振り返った。
街灯の下から現れたのは、厭らしい笑みを浮かべた中年の男。以前より少し白髪が増えていたが、この顔を見間違えるわけはない。優男風だが、その瞳は欲にまみれて冷酷だ。薄汚れた作業着のズボンに両手を突っ込み、体を揺らしながら歩いてくるその男を、綾香はキッと睨み付けた。
(どうして、ここに!?)
ぎゅっと唇を噛んだ綾香に構わず、男がまた一歩近付いた。はっとした綾香も一歩後ずさる。それを見た男の目が細くなった。この辺りは閑静な住宅街で夜間は人気もなく、古い自宅アパートにはオートロックもない。綾香には少しの油断も許されない。
「どうやら金持ちのいい男を捕まえたようだな、お前は美人だし、いい体してるしなあ。あの男の愛人にでもなったのか?」
「あなたにそんなことを言われる筋合いはありません」
全身を舐め回すような男の視線を退けるべく、綾香はきっぱりと言った。
だが男は怯むことなく、にやりと笑う。この厭らしい笑みも覚えていた通り。どうやら〝更生〟などという言葉は、この男には縁のないものだったらしい。
「つれないねえ……あんなに可愛かったお前が。一緒に暮らした仲だろうが」
「私にとっては、地獄の日々でした。思い出したくもない」
撥ねつけるような綾香の声にも、男は全く動じていなかった。
「ま、それはさておき……俺が来た理由、薄々分かってんだろ?」
綾香は大きく息を吸い、そして吐いた。
「ええ。もしかしたら接触してくるかも、とは思っていました。ここの住所までご存知だとは思いませんでしたが」
「お前の住所じゃない……綾菜の住所を聞いたのさ、当時の施設に行って。まあ、大体の地域さえ分かりゃ、後は探偵雇えばここに辿り着くのは簡単だったさ」
綾香はぐっと拳を握りしめた。
「施設の方は、泣き落とししたら結構いけたぜ? ……なにせ、俺は」
綾香の前で、男はけらけらと笑った。
「あいつの、実の父親だからなあ」
――大谷了。綾菜の実父。そしてロクでもない男。
へらへら笑う大谷を睨み付けながら、綾香は口を開いた。
「あなたは、私達姉妹に暴力を振るったことで逮捕された前科者だし、そもそもお母さんと離婚した時点で親権も失ってるのよ。綾菜だってもう成人だわ。あなたなんかとはもう、何の関係もない」
「まあ、そう言うなって」
綾香が冷たい声で言い放とうとも、大谷の態度は変わらなかった。人を小馬鹿にしたような目つき。綾香は悪寒を覚え二の腕を擦った。
「すげえ玉の輿に乗ったんだろう、あいつ? さすがは俺の娘ってとこだな」
「あなたなんか父親でもなんでもないわっ! ロクに働きもせず、借金ばかりして……母さんがどれだけ苦労したと思っているの!?」
ゆらり、とまた大谷が足を踏み出す。綾香はざっ、と後ずさりした。
「相変わらず気の強え女だよな。最後に会ったのはお前が高校生の時だったか。つんと澄ましやがって、いけすかないガキだと思ったが」
強張ったままの綾香の顔を見て、大谷はなおもニタニタと笑う。
「親権があろうとなかろうと、綾菜の父親はこの俺だぜ? ダンナや親族に言ったら驚くだろうなあ……可愛い嫁の父親が前科者だって知ったら」
「……それで、黙っていてほしければ金をよこせってわけね」
綾香は吐き捨てるように言った。どこまでも性根の腐った男だ。
(こんな男に綾菜の幸せを台無しにされてたまるもんですか!)
綾香は毅然とした態度を崩さなかった。ぐっと腹に力を込める。
「言えばいいわ」
「あ?」
綾香の言葉に、大谷が初めて眉をひそめた。
「綾菜のご主人は全部知っているもの。あなたのことも含めてね」
「何だと!?」
大谷は、信じられないといった風に顔を歪めた。綾香はふふっと笑ってみせる。
「『弱みは隠すな。隠すから弱みになる。自ら公表すれば、弱みは強みになる』……母さんの教えよ」
綾香は視線を逸らさず、真っ直ぐに大谷を見た。綾香が高校生の時に亡くなった母親は、そんな風にとても肝の据わった人だった。綾香もその気性を受け継いでいる。
「あなたが脅しに行けば間違いなく恐喝で逮捕されるわ。綾菜のご主人はね、それはそれは綾菜を大切にしているの。そんな大切な妻を脅す男を、放置するわけないわ」
大谷の顔が強張った。少しの間、綾香の真意を確かめるように見据えていたが、やがて再びニヤリと口元を歪めた。
「ダンナはそうでも、マスコミに騒がれたりしたら、綾菜の立場も悪くなるだろ?」
「あなたの言うことなんか、信じてもらえるものですか。大体、綾菜が嫁いだのは……」
次の瞬間、大谷が大きく足を踏み出した。咄嗟のことに不意を突かれた綾香は、気付けばごつごつした手に右腕を掴まれていた。振りほどこうと体を捻るとショルダーバッグが肩から滑り落ち、足元に中身が散らばった。
「離しなさいっ……!」
へっと小馬鹿にしたような笑いが、大谷の口から漏れた。その目がぎらりと厭らしく光る。右手を捩じり上げられ、綾香の顔が歪んだ。顎を掴まれ、大谷の顔が間近に迫ってくる。ヤニに染まった歯がやたらと目についた。思わず顔を逸らそうとしたが、節くれだった指がそれを阻んだ。
「綾菜が無理なら、お前でもいいんだぜ? ネットでお前の裸画像をまき散らすってのも、いいよなあ?」
綾香の心の枷が音を立てて外れた。
「何、言ってるの、よっ……!」
かつて習い覚えた空手の技を繰り出そうと、綾香が右膝を折った瞬間――ふっと、体に自由が戻った。
「……ぐがっ!!」
「え!?」
綾香は目を見張った。さっきまで綾香の腕を掴んでいた大谷の手は、彼の背中側に捩じり上げられていた。さらには後ろから回された腕に首を締め付けられ、大谷の口からは苦しげな呻き声が漏れる。
「俺の〝婚約者〟に何する気だ?」
助けられた綾香の背筋さえ寒くなる、低い低い声。
あの夜を上回る怒りのオーラを纏った司が、大谷を背後から拘束していた。
「ぐはっ……!」
司が首に回した腕に力を入れると、大谷の顎が苦しげに上がっていく。見る見るうちに、大谷の顔色が悪くなる。
「ちょ、ちょっと待って! 殺したりしないで!」
綾香は焦って叫んだ。すると、ちらと綾香を見た司が、大谷の体を突き飛ばすようにして解放した。一、二歩よろめいた大谷はげほっげほっと咳き込む。
司は綾香の肩をぐっと抱き寄せ、大谷に凍り付くような視線を投げた。
「……で? こいつの裸がどうとか言っていたか?」
威圧感のある声に、綾香まで身動きできなかった。大谷の瞳に恐怖が宿るのが見える。
「い、いや、そんなこと言ってねえ」
「もし、そんなことを実行してみろ。婚約者である俺が黙っていないぞ。どこに隠れようと、必ず報復してやる。生きていることを後悔するくらいにな」
怖い。恐ろしく怖い。大谷の脅しにも屈しなかった綾香だが、その言葉には恐怖を覚えた。
(本当にやる気だ。この人は)
大谷も司が本気であると感じたのか、真っ青な顔でじりじりと後ずさる。
「そ、そんなことはしなっ、わ、悪かった、綾香……っ」
「こいつの名を、馴れ馴れしく呼ぶな」
ひいっと大谷が悲鳴を上げる。司がちらりと綾香に視線を向ける。荒々しい感情がむき出しになった瞳に、びくっと綾香の肩が震えた。
「今日のところは、こいつの顔を立てて勘弁してやる。二度と姿を見せるな……分かったな?」
「わ、分かったっ」
大谷はそれだけ言って驚くような速さで走り去っていった。綾香は呆然とその後ろ姿を見送った。
「……大丈夫か?」
司の声に我に返る。見上げると、すぐ傍にあるのは心配そうな瞳だった。どくん、と心臓が大きく跳ねた。
「だいじょう、ぶ……です」
電信柱の向こうに、司の車が停まっているのが見える。いつの間に戻ってきてくれたのだろうか。大谷の相手をするのに必死で、全然気が付かなかった。
司は綾香から手を離し、長身を屈めて散らばったバッグの中身を拾い集めた。
「ほら」
「あ、りがとう……ございます」
ショルダーバッグを手渡され、綾香は礼を言った。
「あの……どう、して」
社長代理ががここにいるんですか?
言葉にならなかった問いに、司が答える。
「さっきお前に渡した封筒に入れ忘れた書類があった。それで引き返してきたら……」
――大谷と綾香が揉み合っていた、ということか。
綾香はじっと司を見た。
(ものすごく機敏な動き、だったわよね……)
空手をかじったことのある綾香だが、司の切れのある動きには心底驚いた。普段から相当鍛えているのだろう。
はあ、と司が疲れたような溜息をついた。
「着替えを取ってこい」
「は?」
綾香は目を丸くした。すると司が呆れたように言葉を継ぐ。
「しばらく余所に泊まるための荷物を持ってこい、と言っている。お前、あの男に住所を知られたんだぞ? そんな状況で家に帰せると思うのか」
「え」
綾香が目をぱちくりさせると、再び司の口から溜息が漏れた。
「それとも、俺がここに泊まる方がいいのか?」
(……泊まる!?)
綾香を見て司が口の端をにやりと上げた。
「俺は別にかまわないが。妹のベッドが空いているんだろ?」
そこまで言われて、ようやく綾香は司の言葉の意味を理解した。ぱっと頬が熱くなる。
「い、いえっ! と、取ってきますっ!」
慌ててアパートの玄関に駆け込んだ綾香の後ろ姿を、司は無表情のままじっと見守っていた。
車に乗り込んで早々、A4サイズの茶封筒を渡された綾香は、「承知いたしました」と大きめのショルダーバッグの中にそれをしまった。
司がアクセルを踏み、静かに車を発進させる。エンジン音も静かな車内に、しばらく沈黙が続いた。
「楽しかったか?」
司の声に、綾香は瞬きした。
「え、ええ、久しぶりでしたので。同期とも会えましたし」
綾香は司の横顔を見ながら言葉を継いだ。
「私……今まで妹がいたので、同期会にはほとんど参加していなくて。不義理なことをしていたんだ、と反省しました。ですから、これからはできるだけ……」
「そんな暇はないと思うがな。今日はたまたま仕事が早く終わっただけだ」
言葉を遮られた綾香はむっと唇を歪めたが、すぐに冷静さを取り戻す。
「そう、ですね。仕事には差し支えないようにします」
司の顔を見ると、彼もまた苛立たしげに舌打ちをしていた。何なのだろうか、一体。隣から感じる嫌な雰囲気に、楽しかった同期会の余韻も消えてしまった。
(私が仕事で手を抜くとでも思っているの、この人は!?)
秘書の仕事に誇りを持っている綾香にとっては、最大の侮辱だ。綾菜と海斗の結婚準備で忙しかった時だって、綾香は一度も仕事に支障をきたしたことなどない。
むかむかと込み上げる怒りを堪えていると、司が言葉を続けた。
「……お前はこのまま海斗の秘書を続ける気か?」
「……え?」
ぽかん、と口を開ける綾香を横目で見て、司がふっと笑った。その笑みはどこか皮肉っぽい。
「海斗が新婚旅行から戻ってきたら、またあいつの秘書をする気か、と聞いている」
綾香は愕然とした。
(……海斗さんが戻ってきたら……? 私……何も考えてなかった)
二人が新婚旅行に行っている間に海斗への思いを忘れようとしていた。辛くてもそうしないと、と思っていたはずだったのに。
(この人を相手するのに精一杯で、今後のことなんて……)
そこまで考えた瞬間、綾香の思考の全てが停止した。
(私……っ!?)
――ここ数日、海斗のことを考えてもいない。綾菜のことは心配しているのに。
(どうして……)
もう答えは分かっている。今、自分の隣に座っている、この男のせいだ。振り回されて、腹を立てて――そうしている間は海斗のことを思い出さなかった。
沈黙した綾香の耳に、低い声が入り込んできた。
「お前にその気があるなら、藤堂カンパニーに引き抜いてもいいが」
「え!?」
意外な言葉に、ようやく綾香の頭が動き出した。思わず横を見ると、真っ直ぐ前を見る司は、仕事で指示を出す時と同じ表情をしていた。
「引き抜き……って」
「ああ」
司は緩やかなカーブでハンドルを切った後、横目でちらりと綾香を見た。どくんと綾香の心臓が跳ねる。
「お前の実力は認める。藤堂の本社でも通用するだろう。俺の今の秘書は、今年定年で退職することが決まっている。だからお前をスカウトしたい」
「……」
初めて彼に仕事を褒められたことで、綾香は驚いて目を丸くした。今まで皮肉しか言わなかった司が、自分の仕事ぶりを正当に認めてくれていたことが、すぐには理解できなかった。やがてゆっくりと胸の底から熱いものがこみ上げてくる。
(どうしよう……すごく、嬉しい)
仕事に厳しい司に褒められることが、これほど嬉しいとは思っていなかった。傲慢で腹立たしい男だと思っていたのに。綾香は熱くなった頬を隠そうとして少し俯いた。
(でも、実際……)
続けるのか辞めるのか、どちらにせよ、自分一人で決められる問題ではない。
「あの……」
綾香は言葉を選びつつ、ゆっくりと告げる。
「そう言っていただけて、とても嬉しいです。ですが、社長と相談しなくては。私の一存では決められません」
司の瞳が一瞬光ったが、すぐにああ、と軽く頷いた。
「海斗ともよく相談して決めるといい。あいつも義理の姉を秘書として使い続けることに、何か思うところがあるかもしれないしな」
「……はい」
綾香は混乱した思いを抱えたまま、助手席に座っていることしかできなかった。
***
「送っていただいて、ありがとうございました」
自宅アパート前で車を降りた綾香は、そう言ってぺこり、とお辞儀をした。司は、「また明日」と返し、車を発進させる。車が角を曲がるまで見送っていた綾香は、まだ気持ちが揺れていた。
(……どうしよう)
いろんなことが頭の中でぐちゃぐちゃになっている。自分の気持ちがよく分からない。続けたいのか、辞めたいのか。あの人の秘書として、藤堂カンパニーに行きたいのか。
(あんな傲慢な人のところなんて……でも)
海斗と綾菜が戻ってくるまでに、決めないといけない。その時までに、このわけの分からない思いにも決着をつけないといけない。
はあ、と溜息をついた綾香は、次の瞬間――体を強張らせた。
「よぉ、綾香……大きくなったな。いい女になったじゃねえか」
(この声――!!)
二度と聞きたくなかったダミ声。綾香はゆっくりと振り返った。
街灯の下から現れたのは、厭らしい笑みを浮かべた中年の男。以前より少し白髪が増えていたが、この顔を見間違えるわけはない。優男風だが、その瞳は欲にまみれて冷酷だ。薄汚れた作業着のズボンに両手を突っ込み、体を揺らしながら歩いてくるその男を、綾香はキッと睨み付けた。
(どうして、ここに!?)
ぎゅっと唇を噛んだ綾香に構わず、男がまた一歩近付いた。はっとした綾香も一歩後ずさる。それを見た男の目が細くなった。この辺りは閑静な住宅街で夜間は人気もなく、古い自宅アパートにはオートロックもない。綾香には少しの油断も許されない。
「どうやら金持ちのいい男を捕まえたようだな、お前は美人だし、いい体してるしなあ。あの男の愛人にでもなったのか?」
「あなたにそんなことを言われる筋合いはありません」
全身を舐め回すような男の視線を退けるべく、綾香はきっぱりと言った。
だが男は怯むことなく、にやりと笑う。この厭らしい笑みも覚えていた通り。どうやら〝更生〟などという言葉は、この男には縁のないものだったらしい。
「つれないねえ……あんなに可愛かったお前が。一緒に暮らした仲だろうが」
「私にとっては、地獄の日々でした。思い出したくもない」
撥ねつけるような綾香の声にも、男は全く動じていなかった。
「ま、それはさておき……俺が来た理由、薄々分かってんだろ?」
綾香は大きく息を吸い、そして吐いた。
「ええ。もしかしたら接触してくるかも、とは思っていました。ここの住所までご存知だとは思いませんでしたが」
「お前の住所じゃない……綾菜の住所を聞いたのさ、当時の施設に行って。まあ、大体の地域さえ分かりゃ、後は探偵雇えばここに辿り着くのは簡単だったさ」
綾香はぐっと拳を握りしめた。
「施設の方は、泣き落とししたら結構いけたぜ? ……なにせ、俺は」
綾香の前で、男はけらけらと笑った。
「あいつの、実の父親だからなあ」
――大谷了。綾菜の実父。そしてロクでもない男。
へらへら笑う大谷を睨み付けながら、綾香は口を開いた。
「あなたは、私達姉妹に暴力を振るったことで逮捕された前科者だし、そもそもお母さんと離婚した時点で親権も失ってるのよ。綾菜だってもう成人だわ。あなたなんかとはもう、何の関係もない」
「まあ、そう言うなって」
綾香が冷たい声で言い放とうとも、大谷の態度は変わらなかった。人を小馬鹿にしたような目つき。綾香は悪寒を覚え二の腕を擦った。
「すげえ玉の輿に乗ったんだろう、あいつ? さすがは俺の娘ってとこだな」
「あなたなんか父親でもなんでもないわっ! ロクに働きもせず、借金ばかりして……母さんがどれだけ苦労したと思っているの!?」
ゆらり、とまた大谷が足を踏み出す。綾香はざっ、と後ずさりした。
「相変わらず気の強え女だよな。最後に会ったのはお前が高校生の時だったか。つんと澄ましやがって、いけすかないガキだと思ったが」
強張ったままの綾香の顔を見て、大谷はなおもニタニタと笑う。
「親権があろうとなかろうと、綾菜の父親はこの俺だぜ? ダンナや親族に言ったら驚くだろうなあ……可愛い嫁の父親が前科者だって知ったら」
「……それで、黙っていてほしければ金をよこせってわけね」
綾香は吐き捨てるように言った。どこまでも性根の腐った男だ。
(こんな男に綾菜の幸せを台無しにされてたまるもんですか!)
綾香は毅然とした態度を崩さなかった。ぐっと腹に力を込める。
「言えばいいわ」
「あ?」
綾香の言葉に、大谷が初めて眉をひそめた。
「綾菜のご主人は全部知っているもの。あなたのことも含めてね」
「何だと!?」
大谷は、信じられないといった風に顔を歪めた。綾香はふふっと笑ってみせる。
「『弱みは隠すな。隠すから弱みになる。自ら公表すれば、弱みは強みになる』……母さんの教えよ」
綾香は視線を逸らさず、真っ直ぐに大谷を見た。綾香が高校生の時に亡くなった母親は、そんな風にとても肝の据わった人だった。綾香もその気性を受け継いでいる。
「あなたが脅しに行けば間違いなく恐喝で逮捕されるわ。綾菜のご主人はね、それはそれは綾菜を大切にしているの。そんな大切な妻を脅す男を、放置するわけないわ」
大谷の顔が強張った。少しの間、綾香の真意を確かめるように見据えていたが、やがて再びニヤリと口元を歪めた。
「ダンナはそうでも、マスコミに騒がれたりしたら、綾菜の立場も悪くなるだろ?」
「あなたの言うことなんか、信じてもらえるものですか。大体、綾菜が嫁いだのは……」
次の瞬間、大谷が大きく足を踏み出した。咄嗟のことに不意を突かれた綾香は、気付けばごつごつした手に右腕を掴まれていた。振りほどこうと体を捻るとショルダーバッグが肩から滑り落ち、足元に中身が散らばった。
「離しなさいっ……!」
へっと小馬鹿にしたような笑いが、大谷の口から漏れた。その目がぎらりと厭らしく光る。右手を捩じり上げられ、綾香の顔が歪んだ。顎を掴まれ、大谷の顔が間近に迫ってくる。ヤニに染まった歯がやたらと目についた。思わず顔を逸らそうとしたが、節くれだった指がそれを阻んだ。
「綾菜が無理なら、お前でもいいんだぜ? ネットでお前の裸画像をまき散らすってのも、いいよなあ?」
綾香の心の枷が音を立てて外れた。
「何、言ってるの、よっ……!」
かつて習い覚えた空手の技を繰り出そうと、綾香が右膝を折った瞬間――ふっと、体に自由が戻った。
「……ぐがっ!!」
「え!?」
綾香は目を見張った。さっきまで綾香の腕を掴んでいた大谷の手は、彼の背中側に捩じり上げられていた。さらには後ろから回された腕に首を締め付けられ、大谷の口からは苦しげな呻き声が漏れる。
「俺の〝婚約者〟に何する気だ?」
助けられた綾香の背筋さえ寒くなる、低い低い声。
あの夜を上回る怒りのオーラを纏った司が、大谷を背後から拘束していた。
「ぐはっ……!」
司が首に回した腕に力を入れると、大谷の顎が苦しげに上がっていく。見る見るうちに、大谷の顔色が悪くなる。
「ちょ、ちょっと待って! 殺したりしないで!」
綾香は焦って叫んだ。すると、ちらと綾香を見た司が、大谷の体を突き飛ばすようにして解放した。一、二歩よろめいた大谷はげほっげほっと咳き込む。
司は綾香の肩をぐっと抱き寄せ、大谷に凍り付くような視線を投げた。
「……で? こいつの裸がどうとか言っていたか?」
威圧感のある声に、綾香まで身動きできなかった。大谷の瞳に恐怖が宿るのが見える。
「い、いや、そんなこと言ってねえ」
「もし、そんなことを実行してみろ。婚約者である俺が黙っていないぞ。どこに隠れようと、必ず報復してやる。生きていることを後悔するくらいにな」
怖い。恐ろしく怖い。大谷の脅しにも屈しなかった綾香だが、その言葉には恐怖を覚えた。
(本当にやる気だ。この人は)
大谷も司が本気であると感じたのか、真っ青な顔でじりじりと後ずさる。
「そ、そんなことはしなっ、わ、悪かった、綾香……っ」
「こいつの名を、馴れ馴れしく呼ぶな」
ひいっと大谷が悲鳴を上げる。司がちらりと綾香に視線を向ける。荒々しい感情がむき出しになった瞳に、びくっと綾香の肩が震えた。
「今日のところは、こいつの顔を立てて勘弁してやる。二度と姿を見せるな……分かったな?」
「わ、分かったっ」
大谷はそれだけ言って驚くような速さで走り去っていった。綾香は呆然とその後ろ姿を見送った。
「……大丈夫か?」
司の声に我に返る。見上げると、すぐ傍にあるのは心配そうな瞳だった。どくん、と心臓が大きく跳ねた。
「だいじょう、ぶ……です」
電信柱の向こうに、司の車が停まっているのが見える。いつの間に戻ってきてくれたのだろうか。大谷の相手をするのに必死で、全然気が付かなかった。
司は綾香から手を離し、長身を屈めて散らばったバッグの中身を拾い集めた。
「ほら」
「あ、りがとう……ございます」
ショルダーバッグを手渡され、綾香は礼を言った。
「あの……どう、して」
社長代理ががここにいるんですか?
言葉にならなかった問いに、司が答える。
「さっきお前に渡した封筒に入れ忘れた書類があった。それで引き返してきたら……」
――大谷と綾香が揉み合っていた、ということか。
綾香はじっと司を見た。
(ものすごく機敏な動き、だったわよね……)
空手をかじったことのある綾香だが、司の切れのある動きには心底驚いた。普段から相当鍛えているのだろう。
はあ、と司が疲れたような溜息をついた。
「着替えを取ってこい」
「は?」
綾香は目を丸くした。すると司が呆れたように言葉を継ぐ。
「しばらく余所に泊まるための荷物を持ってこい、と言っている。お前、あの男に住所を知られたんだぞ? そんな状況で家に帰せると思うのか」
「え」
綾香が目をぱちくりさせると、再び司の口から溜息が漏れた。
「それとも、俺がここに泊まる方がいいのか?」
(……泊まる!?)
綾香を見て司が口の端をにやりと上げた。
「俺は別にかまわないが。妹のベッドが空いているんだろ?」
そこまで言われて、ようやく綾香は司の言葉の意味を理解した。ぱっと頬が熱くなる。
「い、いえっ! と、取ってきますっ!」
慌ててアパートの玄関に駆け込んだ綾香の後ろ姿を、司は無表情のままじっと見守っていた。
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淋しい、をちゃんと言えずにきた人。
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八雲仁
30歳
大手菓子メーカー『おろち製菓』専務
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ただし、いつも無表情。
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小さい頃に母親が他界し、それ以来、ひとりで淋しさを抱えてきた人。
ふたりはちゃんと義兄妹になれるのか、それとも……!?
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千里専務のその後→『絶対零度の、ハーフ御曹司の愛ブルーの瞳をゲーヲタの私に溶かせとか言っています?……』
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表紙画像 湯弐様 pixiv ID3989101
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