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1巻
1-3
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2 俺は香苗を愛してる
本日の私の格好は、襟ぐりが大きく開いた黄色のサマーニットにブラウンのパンツ。冬子に『ひまわりよね』と言われたが、気にしない。
「さて、穂高がいない間にリサーチ結果を取りまとめてっと」
たたたっとキーボードを打つ。狭い会議室には私と六人掛けの椅子と長机、山積みの資料にノートパソコン、キャスター付きモニターしかない。
コンペに出るまでの作業場所として、穂高がこの会議室を長期予約したのだ。もっとも、他のコンペに出るチームも皆同じように会議室を借りているらしいので、遠慮なく業務のない時間はここに籠ることができた。正直、自分の机じゃ紙資料が溢れてしまうので、とても助かっている。
「今回のコンセプト案……どれに決めるか……」
バサバサと、走り書きのデザイン画を見ながら考える。ノスタルジー路線で行くか、近未来的デザインにするか、ベーシックなデザインで高級感を出すか。一人ではなかなか決められない。
「これは穂高が戻ってからにしようっと」
今日、穂高は社長と共に外出だ。穂高がデザインした事務所が大好評で、クライアントから追加依頼があったらしい。
「大企業のサテライトオフィスのデザインかあ……」
穂高と二人であーでもない、こーでもないと言い合って作ったスライド資料をパソコン画面に映しながら、私はぶつぶつと独り言を呟いた。
(実績で負けてるのは悔しいけど……穂高と仕事するの、結構楽しいよね……)
ほぼ喧嘩腰で言い合うこともあれば、そうそうそうだよね! と激しく同意する場合もある。
なんというか……刺激的なのだ。あっという間に時間が経って、夕ご飯を食べ損ねたことまである。何か奢るという穂高を断り、コンビニおにぎりで済ましたこともあったっけ。
ぐぅ。食べ物について考えたら、不覚にもお腹が鳴った。壁掛け時計を見ると、もう午後二時を回っている。作業をしていたら、時間の感覚がなくなるのがだめだよね。
「コンビニに買いに行こう」
このビルの一階にあるコンビニは結構大きくて、お弁当類が充実している。よし、今日はがっつり系のお弁当にしよう。唐揚げ丼かとんかつ定食か。さっと椅子を引いて立ち上がり、お財布の入ったポーチを左手に取ったのとほぼ同時に、真正面のドアがノックされた。
「あれ、穂高もう帰ってきた、の……」
ドアがこちら側に開き、するっと会議室に入ってきたのは――穂高とは似ても似つかない男だった。
軽くウェーブがかった黒髪に、グレーのストライプのスーツを着た垂れ目がちの彼は、ざっと会議室の中を見回している。今にも崩れそうな山積み資料に、散乱した走り書きメモ用紙を見た途端、やれやれと肩を竦めた。
「三森。お前の作業場所、相変わらず汚いな」
「飯塚さん」
(げ、なんでこの人がここに来るのよ!?)
飯塚覚。十歳上の、同じ課にいる建築デザイナーだ。大学時代にフランスに留学して、あちらの建築様式を学び、かつて大仕事に抜擢されたんだかなんだかという経歴の持ち主だけど……なんというか。
(げげっ、しかも藤原さんと井上さん(取り巻きダブル)まで一緒に!)
飯塚さんの後ろに控えている二人組は、飯塚さんと同類項で括られる先輩達。いつも穂高への愚痴をまき散らしている輩だ。飯塚さんと違って、こちらの二人は目立った経歴もない人達だけど。
「お前、穂高と組むなんて無謀だな。あいつとお前じゃ、デザインの方向性が全く違うだろ」
(いちいち嫌みったらしいったら。特に――)
飯塚さんの薄い唇が、薄ら笑いを浮かべる。
「もっとも今回のコンペは俺達も合わせて三チーム参加することになっている。お前らが足を引っ張り合うのは大歓迎だ」
「そうですよね、俺達も助かります」
へこへこ言いなりになってるんじゃないわよ。ただでさえ空腹なのに、胸がムカムカしてきて気分が悪い。
「なんで足を引っ張り合うんですか。コンペに向かって共同作業中ですよ、私と穂高は」
飯塚さんの目が冷たく光る。
「はっ、穂高が他人――しかも、いつも喧嘩ばかりのお前と共同作業なんて、笑えるな。まあ、いい加減あいつも化けの皮が剥がれる頃だろ。穂高は今まで恵まれすぎてたからな」
(これだよ、これ)
何故だか知らないけれど、飯塚さんはずっと穂高を目の敵にしている。穂高はそれをわかっているのか、彼とは距離を置いて事務的な態度を取っていた。
「確かに穂高は社長の息子ですけど、ただそれだけじゃないですか」
うんざりした響きの声になってしまったのは、仕方ない。
「それだけ? それだけで済むわけないだろうが。大きなコンペには必ずと言って良いほどあいつの名前が候補に挙がる。あいつの実績も、社長と懇意にしている相手先なら、当たり前に良い評価を付けるだろうよ」
その通りとばかりに頷く取り巻き二人にも腹が立つ。
(何言ってるのよ!)
私はきっと飯塚さんを睨み付けた。
「穂高の実力は本物です。社長の七光りなんて言われますけど、それだけであの評判を取ることなんて不可能です」
すっと細められた彼の目が、まるで蛇の瞳のように見える。
「へえ、お前は穂高を嫌っていると思っていたが、違うようだな」
「好き嫌いと評価は別です」
私と穂高は喧嘩ばっかりの同期という関係。でも、だからって、穂高のやってきたことを――彼の作品を貶すなんて、許せない。
私は知っている。遅くまで残業して、一心不乱にデザインをしている穂高を。才能豊かなデザイナーではあるけど、努力なしで今までの成果を出したんじゃないことぐらい、私にだってわかる。
(あいつの作品は……いつだって凄くて、絶対負けるもんかと奮闘してきた目標なんだから! いい加減なこと言うんじゃないわよ!)
「成程。三森は穂高に懐柔されてるらしいな。まあ、お前は単純思考だからな、穂高も陥れやすいんだろうよ」
人のことを単純思考だなんて、本当に他人をディスるの好きよね、この人は。見た目はまあまあイケメンの部類に入っているかもしれないけど、人を蔑むような態度が感じ悪い。
「どうして穂高が私を陥れるんですか。おかしいでしょ」
チームを組んでいる相手を陥れて、何になる。自分も火傷するだけだ。
そう言っても、飯塚さんの邪悪な笑みはますます深くなるばかりだった。
「ははっ……三森、お前本当に何も知らないんだな。社内の噂も穂高のことも。さすがは『脳筋デザイナー』と呼ばれることはある」
「はあっ!? 脳筋!?」
頭が悪くて社内で拳を振り回してる女扱いなワケ!? 確かに今、握り締めた私の右拳はふるふる震えているけど、まだ殴ってもいないのに!? どうせそう言うなら、せめて殴ってからにしなさいよ!
怒りに震える私を尻目に、飯塚さんが喋り始めた。
「お前も建築デザイナーの端くれなら、山形有美子の名は聞いたことあるだろう」
急に変わった話題に、私は眉を顰めた。
「それは……はい」
山形有美子。HODAKA DESIGN COMPANYのライバル会社、Yamagata.DesignStudioの社長令嬢にしてデザイナー。学生の頃から活躍していた彼女は、数多くのデザイン賞を受賞した、美人建築デザイナーとして有名だ。私だって、同じ女性としてデザイン業界で活躍している彼女のことを尊敬する一人。雑誌で見た彼女は、柔らかな栗色の髪を肩になびかせ、ライトブルーのブラウスを着た、いかにも上品なお嬢様という感じだった。
にんまりと飯塚さんがまた嗤う。
「穂高が彼女と通じ合ってる……そう言っても、お前は穂高に協力するのか?」
「は、あ?」
私は目を大きく見開き、ぽかんと口を開けた。
(通じ合ってる……って)
あまりにも突拍子もない発言に、言葉が出ない。間抜けな顔、と井上さんがせせら笑うが、それどころではない。
「穂高が山形有美子にコンペの情報を流すかもしれないってことだ。必死に穂高に協力しても、その成果は山形に奪われるなんて、かわいそうな奴だな、三森も」
なあ、と後ろに同意を取る飯塚さんに、私は声を荒らげた。
「なっ、何言ってるんですか、飯塚さん! 穂高がそんなことするわけないでしょう!?」
デザインの流出。情報漏洩。デザイナーとして絶対にやってはいけないことだ。それくらい、穂高だってわかっているはず。
これだから知らない奴は、と飯塚さんが呆れた様子で溜息をつく。
「山形有美子と穂高は、かつて恋人同士だったって聞いたことないのか? それも穂高の方がかなり惚れ込んでたって話だ」
「はっ……?」
がん! と頭を殴られたような衝撃が襲ってきた。
恋人同士? 穂高が? あの山形有美子と?
(え……えええええええーっ!)
大声で叫びそうになった私は、右手で口を押さえる。え、嘘、あの山形有美子と? 穂高が? だって彼女……
(確か銀行のお偉いさんの息子と結婚していて、しかも山形哲司の一人娘じゃない!)
Yamagata.DesignStudioの社長、山形哲司とうちの社長の仲の悪さは、業界ではかなり有名だ。とはいっても、山形社長の方がうちの社長にネチネチ恨みがましい態度を取っているだけらしいけど。あの山形社長が溺愛していると噂の娘と穂高の仲なんて、絶対認めるわけがない。
山形有美子と穂高が並び立つシーンを想像してみる。御曹司の穂高と上品なお嬢様の彼女……うん、もの凄い美男美女カップルになるわ……
驚いた私を見て、飯塚さんはふふんと鼻で嗤う。
「山形有美子は大学でデザインの講師をしていたことがある。穂高は彼女に師事していて……そこで深い関係になったらしいぞ。もっとも山形社長に二人の関係がバレて、彼女は途中で大学を辞めさせられたんだ。彼女が結婚したのも、そのすぐ後だ」
家同士の確執で引き裂かれた恋人……まるでロミオとジュリエットじゃないか。
(穂高っていつも王子様笑顔を振りまいて、女性社員に当たり障りのない態度を取ってるって思ってたけど……これが原因?)
大学生時代の報われない恋。あの涼しい顔の下で、ずっと辛い思いをしていたんだろうか。何故か胸の奥がチクッとした。
「彼女は今スランプに陥ってる。数年前から夫婦仲が悪い上、全く新作を発表できなくて、引退説も流れてるぐらいだ。それが――今回のコンペに出るって発表されたんだよ」
飯塚さんの言葉が私を現実に引き戻した。
(彼女もコンペに!?)
ああでも、ライバル会社であるYamagata.DesignStudioがこのコンペに参加したって、なんの不思議もない。そして、あそこの筆頭デザイナーである山形さんが参加するのは、当たり前だろう。
――つまり、飯塚さんは。
「……穂高がスランプに陥ってる山形さんを助けるために、情報を流すと言いたいんですね?」
私の言葉に、飯塚さんが満足げな顔になる。
「その通り。かつての恋人が頼ってきたら……しかも未練タラタラな相手に言い寄られたら、穂高だって焼けぼっくいに火がつくんじゃないか? しかも山形有美子は美人だしな」
ちらと私を見下す視線が鬱陶しい。どうせ私はちんくしゃですよ。表情筋が引き攣ってピクピクしてきた。
「穂高はそんなことしません。彼を貶めるのはやめてください」
飯塚さんを見据えてきっぱり言い切った私に、馬鹿トリオ(でいいよね、もう)は驚いたみたいだ。飯塚さんは、はっと馬鹿にしたように言う。
「三森、まさか穂高に惚れてるのか? 無駄だぞ。三森と彼女じゃ比べものにならないからな。デザイナーとしても女としても」
拳を握る手に、一層力が入る。
(あっそう)
あの山形有美子と私とじゃ、月とすっぽんだってぐらい、あなたに言われなくてもわかるわよ。だけど。
「そんなこと言わ――」
「そんなことを言っている余裕があるんですか、飯塚さん」
低い声が私の声に重なった。飯塚さんがぱっと振り返る。馬鹿トリオを押し退け、会議室に入ってきたのは、黒のビジネスバッグを左手に持ち、カーキ色のトレンチコートを着た穂高だった。いつもの王子様スマイルはどこへやら、北極帰りみたいな冷え冷えとした雰囲気を漂わせている。すれ違いざまに飯塚さんを一瞥した穂高が、私の左隣で立ち止まった。バッグを乱雑に机の上に置いた彼が、にこりと笑う。
「遅くなってすまない、香苗」
「……へ?」
私は再びぽかんと口を開けた。今、なんて言った?
穂高を見上げたけれど、彼の瞳からは何も読み取ることができなかった。飯塚さん達も、突然の穂高の出現に言葉を失っているようだ。
「飯塚さん」
穂高が飯塚さん達に向き直る。その表情は、冷たいままだ。
「コンペの準備もせず、香苗に根も葉もない噂話を聞かせるとは、余裕なんですね。さぞかし素晴らしい作品を準備しておられるようだ」
「っ!」
飯塚さんの頬にさっと赤みが差す。穂高がここまで嫌みを言うなんて、珍しい。いつもはスルーして終わりなのに。
「根も葉もないわけじゃないだろ? 鈍い三森が知らなかっただけで、社内でも有名な話じゃないか」
穂高が目を細め、険のある眼差しを馬鹿トリオに向けた。
「それで? その噂を根拠に俺がYamagata.DesignStudioに情報漏洩すると?」
「ああ、そうだ。彼女の言いなりのお坊ちゃんであるお前は、山形有美子の頼みを断れないだろう。まあ、その気持ちはわかるが。そこの三森とは違って、いい女だしな」
(何言ってるの、こいつ! 穂高を馬鹿にするのもいい加減にして!)
私に向けられた飯塚さんの蔑みの視線を、真っ向から受け止めて睨み返す。怒りにふるふる震える私の隣で、穂高は表情一つ変えなかった。
「……有美子さんと俺はそんな関係ではありませんよ」
――有美子さん。
淡々とした声に、ぎゅっと心臓を掴まれた気がする。穂高の声のどこかに、彼女を気遣う色が感じられたから。
俯いた私の右肩に、大きな手がぽんと載せられた。へ? と思って顔を上げた私は、そのまま硬直してしまう。
「それにもう、俺には恋人がいます――なあ、香苗?」
「は?」
肩にがしっと食い込む穂高の指の圧力。結構力が入っていたけれど、その痛みを感じないくらい私は混乱していた。だって、穂高が。今まで人を小馬鹿にした態度しか取ってこなかった穂高が……私の肩を抱き寄せ、甘く蕩けるような笑顔を見せていた。眦は下がり、唇は緩やかに弧を描き、何より目が! なんなの、その愛の告白をしているって雰囲気の目はっ!?
(私に向けてるの!?)
そんな穂高の顔をどアップで見せられている私の心臓は、不覚にも鼓動が速くなっていた。
「はああ!? 恋人ってお前……三森がか!?」
飯塚さんの信じられないと言わんばかりの声に、私も思わず同意しそうになる。
(ちょ、ちょっと待って。今、何が)
混乱の呪文をかけられてしまったのか、ぽかんと開いたままの口から言葉が出ない。そんな私を置き去りにして、穂高はさっさと話を進めていく。
「俺と香苗が付き合って、何か不都合でも?」
飯塚さんが目の色を変えて穂高に迫った。
「お前、何言ってるんだ!? あれだけ三森とやり合ってばかりで、どう見ても仲が悪いとしか思えないだろうが!」
穂高が余裕綽々な笑顔を飯塚さんに見せた。
「……それは、香苗が俺の気持ちに気付かないのが悔しかったからですが?」
「ひっ!」
完全に私の息が止まる。
(なっなっ……何言ってるの、穂高ーっ! 私を殺す気!?)
溺れた人みたいに、息が苦しい。おまけに、ぶわっと頬に熱が集まってきた。
「え、穂高が? 三森と?」
「本当か?」
「マジかよ」
ワナワナと小刻みに身体を震わせる飯塚さんの後ろで、藤原さんと井上さんが小声で言い合っていた。私もマジかよって気分ですよ!
「だから、余計なことを香苗に吹き込まないでもらえますか? 口説き落とすのに六年もかかったんですから」
(え?)
穂高の横顔を見上げる。口元に笑みを浮かべながらも、笑っていない瞳で飯塚さんを見据えていた。こんな表情でも、呆れるぐらいに綺麗な顔だ。……いや、それどころじゃない。
「ちょっと、穂……」
言いかけた私の言葉が、彼の左人差し指に遮られる。
「優だろ、香苗。もう隠さなくてもいい」
(いや、隠してなんかいないけど!?)
私の下唇をゆっくり撫でる穂高の指は、妙に色気があって、背筋がぞくぞく寒い。
「はっ、そんな話、信じられるか。大方、山形有美子を庇って、三森をカモフラージュに使うつもりなんだろうが」
飯塚さんが持ち直したのか、また嫌みったらしい声でグチグチ言う。
「お前なら、単細胞の三森を言いくるめるのは簡単だろ? 三森はデザイン以外、なんの能もない奴だからな」
資料の山が崩れそうな机を、ちら見する飯塚さん。下卑た笑みを浮かべる彼に、穂高がそれはそれは綺麗な笑顔を見せた。
「……そんなに信じられませんか? 俺が香苗を愛していると」
ぐわぁあん!
頭の上にお寺の鐘が落ちてくる音が聞こえた気がした。
(あああああ、ああ、愛、愛しているって!)
飯塚さん達も完全にフリーズしてしまったけれど、私も機能停止してしまった。何!? 一体なんなのこれは!?
狭い会議室で穂高に肩を抱かれた私、対峙する飯塚さん、その後ろに藤原さんと井上さん。昼ドラの一場面を見てるの、私っ!?
「……香苗」
固まった私の身体に穂高の腕が回されて、私の顔が彼のトレンチコートに埋まる。
(穂高に抱き締められてる!?)
彼氏いない歴=年齢の私には刺激が強すぎる! それになんか、爽やかな良い匂いするし。え、穂高の匂い? コロンでも付けてるの?
(……細身に見えるのに、意外とがっちりした胸……って、そうじゃないっ!)
「すまない。俺のせいで嫌な思いをさせて」
「え、い、いや?」
穂高の声までいつもと違ってない? 得体の知れない熱が込められている気がする。
「俺と恋人同士になったことで、社内で良からぬ噂を立てられたくない、自分の実力で上に行きたい――そう思う香苗の気持ちを大切にしたかったんだが。こんな風に悪意を持った第三者に絡まれるなら、話は別だ」
穂高の右手が左頬に当てられる。手の平が大きくて、無駄にどきどきしてしまう。
そっと顔を上向きにされた。すぐ間近に穂高の顔がある。前髪が少し乱れていて、とろりとした熱が伝わってくる瞳に、緩く弧を描く唇。薄ら微笑むその顔が、あまりに……あまりに切なくて。まるで縋られているみたい。
(うぐっ……!)
見慣れているはずなのに、見慣れていない顔。こんな穂高は知らない。こんなのって、ない。
ゆっくりと穂高が身を屈めてくる。その時私の世界から、穂高以外のものが消えた。
目を閉じた穂高のまつ毛が長いことも、自分の唇に柔らかなモノが押し当てられていることも、近くでどよめきが上がったことも、何も認識できない。ただ、身体全体に彼の温かさが伝わってきて、思わずトレンチコートの袖を強く掴んだ。
え、この柔らかい感触は、一体ナニ……?
「――っ、!!!!!」
ぬるりと下唇を舐められた感触に、びくっと身体が震える。その時、ようやく私の頭が動き始めた。
(なっ……何してるのーっ……!)
「んんんんんんーっ!」
力一杯両手で穂高の胸板を突っ張り、ぶんぶんと首を横に振ろうとしたけれど、がっちり押さえ込まれていて動けない。
(くっ、苦し……っ!)
息を吸おうと口を開けた瞬間、肉厚な舌が口の中に侵入してきた。あっという間に、舌と舌とが絡み合う。初めて感じる、柔らかい粘膜同士が擦れる感覚。びりびりと肌に電気が走り、身体が硬直してしまう。
「んんんんーっ!」
唇を貪られて、何がなんだかわからない。酸欠で意識が飛びそう――!
「んん、むうんんんっ……げほっ!」
ようやく穂高の唇から解放された私は、必死に酸素を求めてむせた。
「なっ……なにす、むがっ!?」
大きな手に頭の後ろを押さえられる。完全に私の顔は穂高の胸板に埋まってしまう。
「……ここまで見せつけても、納得してもらえませんか?」
感情の見えないセリフ。冷たい刃を首筋に当てられているみたい。
「ちっ……!」
吐き捨てるような声。飯塚さん達の顔は見えないけれど、絶対悔しそうな表情をしていると声だけでわかる。
「で? いつまでここで油売ってるんですか。俺は香苗とコンペに向けて打ち合わせをしたいのですがね」
穂高の声は冷ややかを通り越して、ブリザードだ。
「っ、どうせ、三森とお前じゃたいしたものなど、できないだろうがな! 行くぞ」
「飯塚さん」
捨てゼリフの後で大きな足音。そしてバァン! とドアが勢い良く叩き付けられた音がした。
「ったく、年々酷くなってくるな、あいつらは」
はあと溜息が聞こえたタイミングで、穂高の腕の力が緩む。私は思い切り穂高の胸を押し、ようやく離れることができた。
「……って、何してるのよ、ばかーっ!」
本日の私の格好は、襟ぐりが大きく開いた黄色のサマーニットにブラウンのパンツ。冬子に『ひまわりよね』と言われたが、気にしない。
「さて、穂高がいない間にリサーチ結果を取りまとめてっと」
たたたっとキーボードを打つ。狭い会議室には私と六人掛けの椅子と長机、山積みの資料にノートパソコン、キャスター付きモニターしかない。
コンペに出るまでの作業場所として、穂高がこの会議室を長期予約したのだ。もっとも、他のコンペに出るチームも皆同じように会議室を借りているらしいので、遠慮なく業務のない時間はここに籠ることができた。正直、自分の机じゃ紙資料が溢れてしまうので、とても助かっている。
「今回のコンセプト案……どれに決めるか……」
バサバサと、走り書きのデザイン画を見ながら考える。ノスタルジー路線で行くか、近未来的デザインにするか、ベーシックなデザインで高級感を出すか。一人ではなかなか決められない。
「これは穂高が戻ってからにしようっと」
今日、穂高は社長と共に外出だ。穂高がデザインした事務所が大好評で、クライアントから追加依頼があったらしい。
「大企業のサテライトオフィスのデザインかあ……」
穂高と二人であーでもない、こーでもないと言い合って作ったスライド資料をパソコン画面に映しながら、私はぶつぶつと独り言を呟いた。
(実績で負けてるのは悔しいけど……穂高と仕事するの、結構楽しいよね……)
ほぼ喧嘩腰で言い合うこともあれば、そうそうそうだよね! と激しく同意する場合もある。
なんというか……刺激的なのだ。あっという間に時間が経って、夕ご飯を食べ損ねたことまである。何か奢るという穂高を断り、コンビニおにぎりで済ましたこともあったっけ。
ぐぅ。食べ物について考えたら、不覚にもお腹が鳴った。壁掛け時計を見ると、もう午後二時を回っている。作業をしていたら、時間の感覚がなくなるのがだめだよね。
「コンビニに買いに行こう」
このビルの一階にあるコンビニは結構大きくて、お弁当類が充実している。よし、今日はがっつり系のお弁当にしよう。唐揚げ丼かとんかつ定食か。さっと椅子を引いて立ち上がり、お財布の入ったポーチを左手に取ったのとほぼ同時に、真正面のドアがノックされた。
「あれ、穂高もう帰ってきた、の……」
ドアがこちら側に開き、するっと会議室に入ってきたのは――穂高とは似ても似つかない男だった。
軽くウェーブがかった黒髪に、グレーのストライプのスーツを着た垂れ目がちの彼は、ざっと会議室の中を見回している。今にも崩れそうな山積み資料に、散乱した走り書きメモ用紙を見た途端、やれやれと肩を竦めた。
「三森。お前の作業場所、相変わらず汚いな」
「飯塚さん」
(げ、なんでこの人がここに来るのよ!?)
飯塚覚。十歳上の、同じ課にいる建築デザイナーだ。大学時代にフランスに留学して、あちらの建築様式を学び、かつて大仕事に抜擢されたんだかなんだかという経歴の持ち主だけど……なんというか。
(げげっ、しかも藤原さんと井上さん(取り巻きダブル)まで一緒に!)
飯塚さんの後ろに控えている二人組は、飯塚さんと同類項で括られる先輩達。いつも穂高への愚痴をまき散らしている輩だ。飯塚さんと違って、こちらの二人は目立った経歴もない人達だけど。
「お前、穂高と組むなんて無謀だな。あいつとお前じゃ、デザインの方向性が全く違うだろ」
(いちいち嫌みったらしいったら。特に――)
飯塚さんの薄い唇が、薄ら笑いを浮かべる。
「もっとも今回のコンペは俺達も合わせて三チーム参加することになっている。お前らが足を引っ張り合うのは大歓迎だ」
「そうですよね、俺達も助かります」
へこへこ言いなりになってるんじゃないわよ。ただでさえ空腹なのに、胸がムカムカしてきて気分が悪い。
「なんで足を引っ張り合うんですか。コンペに向かって共同作業中ですよ、私と穂高は」
飯塚さんの目が冷たく光る。
「はっ、穂高が他人――しかも、いつも喧嘩ばかりのお前と共同作業なんて、笑えるな。まあ、いい加減あいつも化けの皮が剥がれる頃だろ。穂高は今まで恵まれすぎてたからな」
(これだよ、これ)
何故だか知らないけれど、飯塚さんはずっと穂高を目の敵にしている。穂高はそれをわかっているのか、彼とは距離を置いて事務的な態度を取っていた。
「確かに穂高は社長の息子ですけど、ただそれだけじゃないですか」
うんざりした響きの声になってしまったのは、仕方ない。
「それだけ? それだけで済むわけないだろうが。大きなコンペには必ずと言って良いほどあいつの名前が候補に挙がる。あいつの実績も、社長と懇意にしている相手先なら、当たり前に良い評価を付けるだろうよ」
その通りとばかりに頷く取り巻き二人にも腹が立つ。
(何言ってるのよ!)
私はきっと飯塚さんを睨み付けた。
「穂高の実力は本物です。社長の七光りなんて言われますけど、それだけであの評判を取ることなんて不可能です」
すっと細められた彼の目が、まるで蛇の瞳のように見える。
「へえ、お前は穂高を嫌っていると思っていたが、違うようだな」
「好き嫌いと評価は別です」
私と穂高は喧嘩ばっかりの同期という関係。でも、だからって、穂高のやってきたことを――彼の作品を貶すなんて、許せない。
私は知っている。遅くまで残業して、一心不乱にデザインをしている穂高を。才能豊かなデザイナーではあるけど、努力なしで今までの成果を出したんじゃないことぐらい、私にだってわかる。
(あいつの作品は……いつだって凄くて、絶対負けるもんかと奮闘してきた目標なんだから! いい加減なこと言うんじゃないわよ!)
「成程。三森は穂高に懐柔されてるらしいな。まあ、お前は単純思考だからな、穂高も陥れやすいんだろうよ」
人のことを単純思考だなんて、本当に他人をディスるの好きよね、この人は。見た目はまあまあイケメンの部類に入っているかもしれないけど、人を蔑むような態度が感じ悪い。
「どうして穂高が私を陥れるんですか。おかしいでしょ」
チームを組んでいる相手を陥れて、何になる。自分も火傷するだけだ。
そう言っても、飯塚さんの邪悪な笑みはますます深くなるばかりだった。
「ははっ……三森、お前本当に何も知らないんだな。社内の噂も穂高のことも。さすがは『脳筋デザイナー』と呼ばれることはある」
「はあっ!? 脳筋!?」
頭が悪くて社内で拳を振り回してる女扱いなワケ!? 確かに今、握り締めた私の右拳はふるふる震えているけど、まだ殴ってもいないのに!? どうせそう言うなら、せめて殴ってからにしなさいよ!
怒りに震える私を尻目に、飯塚さんが喋り始めた。
「お前も建築デザイナーの端くれなら、山形有美子の名は聞いたことあるだろう」
急に変わった話題に、私は眉を顰めた。
「それは……はい」
山形有美子。HODAKA DESIGN COMPANYのライバル会社、Yamagata.DesignStudioの社長令嬢にしてデザイナー。学生の頃から活躍していた彼女は、数多くのデザイン賞を受賞した、美人建築デザイナーとして有名だ。私だって、同じ女性としてデザイン業界で活躍している彼女のことを尊敬する一人。雑誌で見た彼女は、柔らかな栗色の髪を肩になびかせ、ライトブルーのブラウスを着た、いかにも上品なお嬢様という感じだった。
にんまりと飯塚さんがまた嗤う。
「穂高が彼女と通じ合ってる……そう言っても、お前は穂高に協力するのか?」
「は、あ?」
私は目を大きく見開き、ぽかんと口を開けた。
(通じ合ってる……って)
あまりにも突拍子もない発言に、言葉が出ない。間抜けな顔、と井上さんがせせら笑うが、それどころではない。
「穂高が山形有美子にコンペの情報を流すかもしれないってことだ。必死に穂高に協力しても、その成果は山形に奪われるなんて、かわいそうな奴だな、三森も」
なあ、と後ろに同意を取る飯塚さんに、私は声を荒らげた。
「なっ、何言ってるんですか、飯塚さん! 穂高がそんなことするわけないでしょう!?」
デザインの流出。情報漏洩。デザイナーとして絶対にやってはいけないことだ。それくらい、穂高だってわかっているはず。
これだから知らない奴は、と飯塚さんが呆れた様子で溜息をつく。
「山形有美子と穂高は、かつて恋人同士だったって聞いたことないのか? それも穂高の方がかなり惚れ込んでたって話だ」
「はっ……?」
がん! と頭を殴られたような衝撃が襲ってきた。
恋人同士? 穂高が? あの山形有美子と?
(え……えええええええーっ!)
大声で叫びそうになった私は、右手で口を押さえる。え、嘘、あの山形有美子と? 穂高が? だって彼女……
(確か銀行のお偉いさんの息子と結婚していて、しかも山形哲司の一人娘じゃない!)
Yamagata.DesignStudioの社長、山形哲司とうちの社長の仲の悪さは、業界ではかなり有名だ。とはいっても、山形社長の方がうちの社長にネチネチ恨みがましい態度を取っているだけらしいけど。あの山形社長が溺愛していると噂の娘と穂高の仲なんて、絶対認めるわけがない。
山形有美子と穂高が並び立つシーンを想像してみる。御曹司の穂高と上品なお嬢様の彼女……うん、もの凄い美男美女カップルになるわ……
驚いた私を見て、飯塚さんはふふんと鼻で嗤う。
「山形有美子は大学でデザインの講師をしていたことがある。穂高は彼女に師事していて……そこで深い関係になったらしいぞ。もっとも山形社長に二人の関係がバレて、彼女は途中で大学を辞めさせられたんだ。彼女が結婚したのも、そのすぐ後だ」
家同士の確執で引き裂かれた恋人……まるでロミオとジュリエットじゃないか。
(穂高っていつも王子様笑顔を振りまいて、女性社員に当たり障りのない態度を取ってるって思ってたけど……これが原因?)
大学生時代の報われない恋。あの涼しい顔の下で、ずっと辛い思いをしていたんだろうか。何故か胸の奥がチクッとした。
「彼女は今スランプに陥ってる。数年前から夫婦仲が悪い上、全く新作を発表できなくて、引退説も流れてるぐらいだ。それが――今回のコンペに出るって発表されたんだよ」
飯塚さんの言葉が私を現実に引き戻した。
(彼女もコンペに!?)
ああでも、ライバル会社であるYamagata.DesignStudioがこのコンペに参加したって、なんの不思議もない。そして、あそこの筆頭デザイナーである山形さんが参加するのは、当たり前だろう。
――つまり、飯塚さんは。
「……穂高がスランプに陥ってる山形さんを助けるために、情報を流すと言いたいんですね?」
私の言葉に、飯塚さんが満足げな顔になる。
「その通り。かつての恋人が頼ってきたら……しかも未練タラタラな相手に言い寄られたら、穂高だって焼けぼっくいに火がつくんじゃないか? しかも山形有美子は美人だしな」
ちらと私を見下す視線が鬱陶しい。どうせ私はちんくしゃですよ。表情筋が引き攣ってピクピクしてきた。
「穂高はそんなことしません。彼を貶めるのはやめてください」
飯塚さんを見据えてきっぱり言い切った私に、馬鹿トリオ(でいいよね、もう)は驚いたみたいだ。飯塚さんは、はっと馬鹿にしたように言う。
「三森、まさか穂高に惚れてるのか? 無駄だぞ。三森と彼女じゃ比べものにならないからな。デザイナーとしても女としても」
拳を握る手に、一層力が入る。
(あっそう)
あの山形有美子と私とじゃ、月とすっぽんだってぐらい、あなたに言われなくてもわかるわよ。だけど。
「そんなこと言わ――」
「そんなことを言っている余裕があるんですか、飯塚さん」
低い声が私の声に重なった。飯塚さんがぱっと振り返る。馬鹿トリオを押し退け、会議室に入ってきたのは、黒のビジネスバッグを左手に持ち、カーキ色のトレンチコートを着た穂高だった。いつもの王子様スマイルはどこへやら、北極帰りみたいな冷え冷えとした雰囲気を漂わせている。すれ違いざまに飯塚さんを一瞥した穂高が、私の左隣で立ち止まった。バッグを乱雑に机の上に置いた彼が、にこりと笑う。
「遅くなってすまない、香苗」
「……へ?」
私は再びぽかんと口を開けた。今、なんて言った?
穂高を見上げたけれど、彼の瞳からは何も読み取ることができなかった。飯塚さん達も、突然の穂高の出現に言葉を失っているようだ。
「飯塚さん」
穂高が飯塚さん達に向き直る。その表情は、冷たいままだ。
「コンペの準備もせず、香苗に根も葉もない噂話を聞かせるとは、余裕なんですね。さぞかし素晴らしい作品を準備しておられるようだ」
「っ!」
飯塚さんの頬にさっと赤みが差す。穂高がここまで嫌みを言うなんて、珍しい。いつもはスルーして終わりなのに。
「根も葉もないわけじゃないだろ? 鈍い三森が知らなかっただけで、社内でも有名な話じゃないか」
穂高が目を細め、険のある眼差しを馬鹿トリオに向けた。
「それで? その噂を根拠に俺がYamagata.DesignStudioに情報漏洩すると?」
「ああ、そうだ。彼女の言いなりのお坊ちゃんであるお前は、山形有美子の頼みを断れないだろう。まあ、その気持ちはわかるが。そこの三森とは違って、いい女だしな」
(何言ってるの、こいつ! 穂高を馬鹿にするのもいい加減にして!)
私に向けられた飯塚さんの蔑みの視線を、真っ向から受け止めて睨み返す。怒りにふるふる震える私の隣で、穂高は表情一つ変えなかった。
「……有美子さんと俺はそんな関係ではありませんよ」
――有美子さん。
淡々とした声に、ぎゅっと心臓を掴まれた気がする。穂高の声のどこかに、彼女を気遣う色が感じられたから。
俯いた私の右肩に、大きな手がぽんと載せられた。へ? と思って顔を上げた私は、そのまま硬直してしまう。
「それにもう、俺には恋人がいます――なあ、香苗?」
「は?」
肩にがしっと食い込む穂高の指の圧力。結構力が入っていたけれど、その痛みを感じないくらい私は混乱していた。だって、穂高が。今まで人を小馬鹿にした態度しか取ってこなかった穂高が……私の肩を抱き寄せ、甘く蕩けるような笑顔を見せていた。眦は下がり、唇は緩やかに弧を描き、何より目が! なんなの、その愛の告白をしているって雰囲気の目はっ!?
(私に向けてるの!?)
そんな穂高の顔をどアップで見せられている私の心臓は、不覚にも鼓動が速くなっていた。
「はああ!? 恋人ってお前……三森がか!?」
飯塚さんの信じられないと言わんばかりの声に、私も思わず同意しそうになる。
(ちょ、ちょっと待って。今、何が)
混乱の呪文をかけられてしまったのか、ぽかんと開いたままの口から言葉が出ない。そんな私を置き去りにして、穂高はさっさと話を進めていく。
「俺と香苗が付き合って、何か不都合でも?」
飯塚さんが目の色を変えて穂高に迫った。
「お前、何言ってるんだ!? あれだけ三森とやり合ってばかりで、どう見ても仲が悪いとしか思えないだろうが!」
穂高が余裕綽々な笑顔を飯塚さんに見せた。
「……それは、香苗が俺の気持ちに気付かないのが悔しかったからですが?」
「ひっ!」
完全に私の息が止まる。
(なっなっ……何言ってるの、穂高ーっ! 私を殺す気!?)
溺れた人みたいに、息が苦しい。おまけに、ぶわっと頬に熱が集まってきた。
「え、穂高が? 三森と?」
「本当か?」
「マジかよ」
ワナワナと小刻みに身体を震わせる飯塚さんの後ろで、藤原さんと井上さんが小声で言い合っていた。私もマジかよって気分ですよ!
「だから、余計なことを香苗に吹き込まないでもらえますか? 口説き落とすのに六年もかかったんですから」
(え?)
穂高の横顔を見上げる。口元に笑みを浮かべながらも、笑っていない瞳で飯塚さんを見据えていた。こんな表情でも、呆れるぐらいに綺麗な顔だ。……いや、それどころじゃない。
「ちょっと、穂……」
言いかけた私の言葉が、彼の左人差し指に遮られる。
「優だろ、香苗。もう隠さなくてもいい」
(いや、隠してなんかいないけど!?)
私の下唇をゆっくり撫でる穂高の指は、妙に色気があって、背筋がぞくぞく寒い。
「はっ、そんな話、信じられるか。大方、山形有美子を庇って、三森をカモフラージュに使うつもりなんだろうが」
飯塚さんが持ち直したのか、また嫌みったらしい声でグチグチ言う。
「お前なら、単細胞の三森を言いくるめるのは簡単だろ? 三森はデザイン以外、なんの能もない奴だからな」
資料の山が崩れそうな机を、ちら見する飯塚さん。下卑た笑みを浮かべる彼に、穂高がそれはそれは綺麗な笑顔を見せた。
「……そんなに信じられませんか? 俺が香苗を愛していると」
ぐわぁあん!
頭の上にお寺の鐘が落ちてくる音が聞こえた気がした。
(あああああ、ああ、愛、愛しているって!)
飯塚さん達も完全にフリーズしてしまったけれど、私も機能停止してしまった。何!? 一体なんなのこれは!?
狭い会議室で穂高に肩を抱かれた私、対峙する飯塚さん、その後ろに藤原さんと井上さん。昼ドラの一場面を見てるの、私っ!?
「……香苗」
固まった私の身体に穂高の腕が回されて、私の顔が彼のトレンチコートに埋まる。
(穂高に抱き締められてる!?)
彼氏いない歴=年齢の私には刺激が強すぎる! それになんか、爽やかな良い匂いするし。え、穂高の匂い? コロンでも付けてるの?
(……細身に見えるのに、意外とがっちりした胸……って、そうじゃないっ!)
「すまない。俺のせいで嫌な思いをさせて」
「え、い、いや?」
穂高の声までいつもと違ってない? 得体の知れない熱が込められている気がする。
「俺と恋人同士になったことで、社内で良からぬ噂を立てられたくない、自分の実力で上に行きたい――そう思う香苗の気持ちを大切にしたかったんだが。こんな風に悪意を持った第三者に絡まれるなら、話は別だ」
穂高の右手が左頬に当てられる。手の平が大きくて、無駄にどきどきしてしまう。
そっと顔を上向きにされた。すぐ間近に穂高の顔がある。前髪が少し乱れていて、とろりとした熱が伝わってくる瞳に、緩く弧を描く唇。薄ら微笑むその顔が、あまりに……あまりに切なくて。まるで縋られているみたい。
(うぐっ……!)
見慣れているはずなのに、見慣れていない顔。こんな穂高は知らない。こんなのって、ない。
ゆっくりと穂高が身を屈めてくる。その時私の世界から、穂高以外のものが消えた。
目を閉じた穂高のまつ毛が長いことも、自分の唇に柔らかなモノが押し当てられていることも、近くでどよめきが上がったことも、何も認識できない。ただ、身体全体に彼の温かさが伝わってきて、思わずトレンチコートの袖を強く掴んだ。
え、この柔らかい感触は、一体ナニ……?
「――っ、!!!!!」
ぬるりと下唇を舐められた感触に、びくっと身体が震える。その時、ようやく私の頭が動き始めた。
(なっ……何してるのーっ……!)
「んんんんんんーっ!」
力一杯両手で穂高の胸板を突っ張り、ぶんぶんと首を横に振ろうとしたけれど、がっちり押さえ込まれていて動けない。
(くっ、苦し……っ!)
息を吸おうと口を開けた瞬間、肉厚な舌が口の中に侵入してきた。あっという間に、舌と舌とが絡み合う。初めて感じる、柔らかい粘膜同士が擦れる感覚。びりびりと肌に電気が走り、身体が硬直してしまう。
「んんんんーっ!」
唇を貪られて、何がなんだかわからない。酸欠で意識が飛びそう――!
「んん、むうんんんっ……げほっ!」
ようやく穂高の唇から解放された私は、必死に酸素を求めてむせた。
「なっ……なにす、むがっ!?」
大きな手に頭の後ろを押さえられる。完全に私の顔は穂高の胸板に埋まってしまう。
「……ここまで見せつけても、納得してもらえませんか?」
感情の見えないセリフ。冷たい刃を首筋に当てられているみたい。
「ちっ……!」
吐き捨てるような声。飯塚さん達の顔は見えないけれど、絶対悔しそうな表情をしていると声だけでわかる。
「で? いつまでここで油売ってるんですか。俺は香苗とコンペに向けて打ち合わせをしたいのですがね」
穂高の声は冷ややかを通り越して、ブリザードだ。
「っ、どうせ、三森とお前じゃたいしたものなど、できないだろうがな! 行くぞ」
「飯塚さん」
捨てゼリフの後で大きな足音。そしてバァン! とドアが勢い良く叩き付けられた音がした。
「ったく、年々酷くなってくるな、あいつらは」
はあと溜息が聞こえたタイミングで、穂高の腕の力が緩む。私は思い切り穂高の胸を押し、ようやく離れることができた。
「……って、何してるのよ、ばかーっ!」
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