私、不運なんです!?

あかし瑞穂

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5)同期と、不運と、唇と?

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「んーっと……き残しは、ないよね?」
翌朝、副社長の机をき終わった私は、きょろきょろと辺りを見回した。テーブルと黒の革張りソファも綺麗になったし、床にゴミも落ちてない。パキラにも水をやったし……後は、ポットのお湯を確認して、モーニングコーヒーの準備かしら。
私は副社長室を出て、秘書室のカウンター奥にあるミニキッチンへと向かう。さっきセットした湯沸かしポットは、もう沸騰ふっとう済みになっていた。コーヒーとフィルターは……戸棚の中だったよね。コーヒーメーカーに水を入れ、コーヒー豆をセットする。電源を入れると、やや耳につく音と共に、豆がかれていく。
ふわんといい香りが、秘書室にただよう。うん、いい豆だよね。さすが副社長用……。こぽこぽとドリップ音が響く中、少しだけ休憩。ちょっとカウンターにもたれながら、壁掛け時計を見上げる。時刻は八時半。もうそろそろ副社長が来る頃だよね……
入り口の右横の壁にある姿見で、身だしなみを確認した。紺色の上着にタイトスカート、ボウタイ付きの白いブラウス、という絵に描いたような模範的女子社員の姿、だ。髪はくくるまでは長くないから、内巻きにくるんとしてみた。これが、私にできる精一杯のオシャレだった。
(佐々木さんみたいな、縦ロールは無理だよねえ……)
すらりとモデルみたいな体形。お嬢様っぽい巻き髪。着ているスーツは、いっつもブランド物。細いヒールのパンプスをいて颯爽さっそうと歩く姿は、秘書室のシンボルになっていた。私には、ああいう色気は到底出せない。もっとも、色気は求められてないみたいだから、安心だけど……。副社長になびかない秘書、というのが人選の最重要項目だったみたいだし。鏡の中の私と顔を見あわせて、ふう、と溜息をついた。
「指名されたんだから、仕方ないよね……」
――とりあえず、私にできる事をやろう。うん。
朝一番に出社して、副社長室の掃除をするのは結構気持ち良かった。いくら不運体質でここでの仕事に慣れてなくても、まだそれほど大きな失敗はしようがないから役に立てるし。鹿波さんには一人で大丈夫です、と言って、今日はゆっくり出勤してもらう事にした。
(社長の秘書だった時から、ずっとこの時間に出勤していたなんてすごいよね、鹿波さん……)
一人身でお気楽だから続いたの、って笑いながら言っていたけれど、強い意思がなくては、続けられないと思う。
そんな事を考えていたら、ピーッと音が鳴った。あ、コーヒーができたみたい。ちゃんとできてるか、味見してみようっと。
白いコーヒーカップを戸棚から取り出し、きたてのコーヒーがなみなみと入ったガラスのサーバーを外して、深みのある色のコーヒーをカップにそそぐ。
「うわ……いい匂い」
両手でカップを持ち、立ち上る香りをんんーっと鼻から吸い込んでから一口飲んでみる。……嫌な苦みもないし、酸味も少なめ。コクがあって、まろやかだ。甘めにして飲んだら美味しそう。今度生クリームを載せて、ウィンナコーヒーにしてみようかな……

「……おはよう」
「ぶっ!!」
私は、げほげほと咳き込んだ。こ、こぼさずに済んだ……動揺しながらもなんとかカウンターにカップを置き、涙目で振り返ると……うげ。
――本日も、ホワイトグレーのトレンチコートと、その下にびしっと高級スーツを着た副社長が立っていた。今日みたいな濃いめのブラウンっぽいスーツも似合う。顔がいいって得だなあ……というか、全然気配けはいを感じなかったんですけど!? しのびですか、あなたは!?
(あれ? でも……機嫌は良さそう? だよね……)
「お、おはよう……ございます」
少なくとも、昨日みたいな不機嫌さはなさそう。ぺこりと下げていた頭を上げると、副社長は辺りを見回していた。
「……鹿波は? 来てないのか?」
あ、そうか。鹿波さんがこの時間にいないなんて、珍しいよね。
「あ、あの……朝の準備でしたら、私一人で充分ですから……鹿波さんは定時にいらっしゃいます」
「……」
しばらくじっと私を見下ろしていた副社長は、くるりと背中を向けた。
「コートを頼む」
「は、はい」
私は背伸びして、副社長の肩からコートを脱がせる。これ、どこに掛けるんだろう……と思っていたら、副社長がぽつりと言った。
「部屋の中にクローゼットがあるから、そこに掛けてくれ。それから……」
カウンター上のカップに、彼の視線が移動した。
「俺にもコーヒーを頼む」
「は、はいっ」
大きなコートを手に持ったまま、私は副社長室に入っていく彼の背中を追いかけた。

(うわ……高そう)
副社長室に備え付けられているクローゼットの中には、礼服を始め何着かスーツが掛かっていた。ネクタイも……有名ブランド物ばかり。ほこりを落としたコートをハンガーに掛け、クローゼットに仕舞う。
「……」
う……背中に突き刺さる視線が痛いっ……! 私を射殺す気ですかっ……! クローゼットをぱたんと閉めて振り返ると、なにを考えてるのか読めない瞳にぶつかった。
副社長は、応接用のソファーにすっと座り、茶色の紙袋をテーブルの上に置く。その紙袋に印刷されている王冠のロゴを見て、私はあっと声を上げた。
「……Tarteタルト duデュ bonheurボヌール!?」
副社長が右眉を上げた。
「知ってるのか」
「当たり前ですっ! 売り切れ必至の人気店ですよ!? ここのパイやタルト、絶品で……!」
以前、お客さんからの頂き物を、仲良しな同期の小田原おだわらくんがおすそ分けしてくれたんだよね。一度しか食べた事ないけれど……本当に美味しかった! 心の中でよだれを垂らしながら、紙袋に釘付けな私を見て、副社長が苦笑した。
「……ほら」
え。私は目を丸くした。副社長は紙袋を私の方に差し出している。
「コーヒー飲みかけだっただろう。これも一緒に食べろ」
「えっ!? よ、よろしいんですかっ!?」
びっくりして叫ぶと、副社長の目が優しくなった。うっ……思わず頬が熱くなる。み、見慣れないものを見た……
「ここのケーキを土産にもらった時、喜んでばくばく食べたんだろ、お前。小田原からそう聞いた」
小田原くん、なに言って……と思った私に、副社長が言葉をいだ。
「初日だからな。これで少し息を抜け」
……気を遣ってくれてたんだ。鹿波さんが言ってた通りだった。ちょっとの間、ぼーっとしてしまったけれど、なんだかくすぐったくて……そして嬉しい。
思わず笑顔になる。
「は、はい! ありがとうございます! このご恩は必ず!」
紙袋を受け取った私は、口元をほころばせたままお礼を言った。副社長が、わずかに目を見張る。
「コーヒー、入れてきますね」
ぺこりとお辞儀じぎをし、軽い足取りで副社長室を出て行く私には……背後の副社長の様子は判らなかった。

  * * *

「えーっと……後は営業部と、企画部に確認に行けばいいわよね」
――寿さん。午後からの会議の資料を提出していない部署があるの。もう時間がないから催促さいそくしに行ってくれる?
始業して間もなく鹿波さんの依頼を受けて、私はいくつか部署を回っていた。もうできあがっていた部署から預かった資料は、封筒に入れて小脇に抱えている。
営業部の部屋をのぞくと……私を見て、にやりと笑った男性がいた。

「よっ、これはこれは副社長専属秘書に抜擢ばってきされた、寿サンじゃあないですか?」
「もう……言わないでよね」
ふざけた調子で話しかけてきたのは、さっき副社長の話に出た小田原じん。同期だけど四大卒だから、年は二歳年上になる。グレーのスーツ姿の彼も、黙っていればそれなりな男で、同期の出世頭しゅっせがしらだ。
「午後からの月次会議の資料、営業部の分が出ていませんよ? ほら、新規プロジェクトの企画説明するんでしょ? 桐野きりの部長は?」
口調を改めてそう言うと、小田原くんは「参ったなあ……」と言いながら、ぽりぽりと人差し指で頬を掻いた。
――古くなった駅前ロータリー付近の再開発。その総合デザインを担う会社を決めるコンペが近く開催されるのだ。久々の大型案件で、社内の皆が期待を寄せている。小田原くんは課長に昇進してすぐ、この案件の担当になった。この仕事をGETできれば、さらなる出世間違いなし! だよね。
「部長は今日急な出張でさ。俺も昨日まで出張行ってて……まだ資料の最終チェックができてないんだよ。十時半までには用意するからさ、もう少し待ってくれよ?」
もう、と私は小田原くんをにらんだ。デジタル化の進んでいる昨今でも資料は紙! っていう役員さんが多い。コピーしなくちゃならないし大変なんだけど。
「じゃあ、まとまり次第、一部印書して副社長室に届けて下さいね? それからデータは私宛にメールで送ってね」
「了解」
では、とお辞儀じぎをして立ち去ろうとした私の右腕を、小田原くんの左手がつかんだ。
「ちょっと、こっち来いよ」
ぐいぐいと部屋の端の方に引っ張られる。コピー機や文具入れの棚があるコーナーまでたどり着くと、小田原くんは手を離した。
「なあ、お前……なんで副社長付きになったんだ?」
小田原くんが真面目まじめな声で言った。私は小田原くんの顔をじっと見つめる。
「え……っと……私にも、よく判らないんだけど……」
首を傾げる私を見て、小田原くんが頭を抱え、うめいた。
「くぁーっ、相変わらず超ニブい奴……」
「なによ、超ニブい奴って!! ていうか、その言い方、小田原くんはなにか事情を知ってるの!?」
今度は、はああああ、と深い溜息をついた小田原くんの私を見下ろす目が、なんか……
「小田原くん、なんでそんなあわれむような目で私を見てるの……?」
「俺が気の毒に思ってるのは、副社長の方だっ」
「なんでよ。いっつも人の事、にらみつけてくるのよ、あの人っ! 私がドジする場面にことごとく居合わせるしっ!」
……と、そこまで言った私は、先程の恩を思い出した。
「まあ、さっきは洋なしのパイくれて美味しかったけど……」
――白いお皿の上できらきらと輝いていた、洋なしのタルトパイ。黄金色の洋なしの薄切りがパイの上に薔薇ばらかたどったように並べられていた。それらを透明なゼリーがおおっているさまは、とても美しくて芸術品のよう。香ばしいパイ生地は分厚くて、しゃくしゃくで、ほっぺたが落ちるかと思った……
餌付えづけ、かよ。まあ、お前には有効かもな」とうめいて、小田原くんが天をあおいだ。
「……なあ、寿。これは運命の出会いってヤツだぜ、きっと。こんな鈍いお前の相手できるの、副社長ぐらいなもんだわ」
私は目を丸くした。
「なにそれ。副社長が『社内一強運の男』で、私が『社内一不運な女』だからって事?」
運のプラス量、マイナス量じゃ、差し引きゼロになるかもしれないけど……でもねえ……
「副社長みたいなハイスペックの人と私なんて、全然釣り合わないって」
きっぱり言い切った私を、生ぬるい目で小田原くんが見た。
「いや、そうかも知れないけど、相手はそう思ってないっていうか……」
小田原くんは手を伸ばして、私の頭をくしゃくしゃした。
「ちょっと、なにするのよっ!」
「まあ……頑張れ」
そう言い残して小田原くんは、席に戻っていった。
「もう……」
私は髪を整えて、営業部を後にした。

「ただ今、戻りました」
副社長室に戻ると、鹿波さんはいなかった。受け取ってきた資料を、会議室に持っていく資料のたばの上に置く。
「後は、会議室の各席にこの資料を置いて……」
と、午後の段取りを確認していた私の耳に、甲高かんだかい叫び声が飛び込んできた。
「……いい加減にしなさい、貴史さん! いつまでもミカさんを……っ!」
聞いた事のない女の人の声だ。副社長室から? 私は思わず立ち尽くす。
誰だろう、一体。なんだか、修羅場しゅらばっぽいんだけど……
「……から、……」
副社長の声は、低くてよく聞き取れない。
「……裕貴さんは、……から許しましたけれど、あなたは……なのよ!? それなのに……!!」
「そうよ、貴史さん……」
「……り下さい。業務の邪魔です」
「貴史さん……っ……!」
呆然ぼうぜんと突っ立っている私の目の前で、バタン! という派手な音と共に副社長室の扉が開いた。中から出てきたのは……セレブっぽい女性二人組。白地に金や紅色の花が描かれた、高級そうな和服を着た年配の女性と、これまた高そうな黒のワンピースを着た、栗色の髪のモデルみたいな女性だった。髪をアップにまとめ、赤いかんざしを挿した年配の女性の表情は、鬼のようにけわしい。
あれ、この年配の女性は……どこかで会った事、ある……?
じろり、とこちらに目を向けられ、私は戸惑いながらも深々とお辞儀じぎをした。ワンピースの女性は、私を見て、ちょっと小馬鹿にしたような顔をする。
年配の女性が口を開く。
「あの秘書はいないのね。ついでだから、文句の一つも言ってやろうと思ってたのに」
「えっ」
私は息を呑んだ。あの秘書って……鹿波さんの事? でも、鹿波さんは文句を言われるような人じゃ……
「母さん」
副社長の冷たい声に、年配の女性の眉が上がる。二人の後ろから出てきた副社長の瞳は……北極の氷みたいな冷たい色をしていた。
(母さん……って……じゃあ、この人……社長夫人!?)
そうか、美恵子と専務の結婚式で見たんだ。
あの時は上品そうな御両親だなあって思ったんだけど……い、印象が全然違うっ! こんな鬼のような形相ぎょうそうをする人とは思わなかった。
「雅子さんの事を悪く言うのは、たとえ貴女でも許さない。……俺達を放置していた貴女よりもずっと、俺と裕貴にとって大切な存在ですから」
社長夫人は軽蔑けいべつしたように、鼻で笑った。
「どうだか。貴方達にいい顔をして、鳳家の財産を一部でももらい受けようって魂胆こんたんでしょうよ」
「あ、あの!」
思わず声を上げた私に、二組のするどい視線が突き刺さる。眉をひそめる社長夫人に、私は言葉を続けた。
「鹿波さんは、優秀な秘書ですっ! それはこの会社の社員なら、誰だって知ってます。副社長のサポートだって完璧で……それに」
一拍を置いて、私は言った。
「とても気が付く、優しい方です。副社長の事だって、本当に心から案じて……」
昨日一日引きぎの話を聞いただけでも判った。鹿波さんがどれだけ、副社長の事を考えているか。心配しているか。だから……こんな風に悪く言われるのを聞くのは嫌だ。
「ですから、どうか誤解しな……」
「貴女、お名前は?」
社長夫人のするどい言葉が、私の言葉を切り裂いた。私は目をしばたたしばたた、ぺこりと頭を下げる。
「わ、私は……昨日づけで副社長専属秘書になりました、寿幸子と申しま……」
「寿!? 寿ですって!?」
悲鳴ひめいのような声が部屋中に響いた。私を見る目が、みるみるうちに冷たくなっていく。
「まさか、寿堂の……」
うちの事、ご存知なんだ……私は戸惑いながらも答えた。
「……はい。祖父が経営しております」
「……っ!」
社長夫人の瞳の色がにくしみをびたものに変わっていく。口元と刺繍ししゅうほどこされたガマ口ポーチを持つ手がわなわなと震えていた。
「なにを考えてるの、貴史さん! 貴方、ミカさんを断ったくせに……よりによって、不幸を呼ぶ女をそばに置くなんて!」
「えっ」
私はまた息を呑んだ。この人、私の『不運』属性を知ってるの……? その後も私の耳に、次々と言葉の矢が突き刺さる。
「ミカさんなら、紺野こんの商事の社長令嬢れいじょうで、申し分ないのに……」
社長夫人の視線が、ワンピースの女性に移った。ワンピースの女性はうっすらと微笑んで、うなずく。多分、この人がミカさんなんだろう。ミカさんは、すがるような目で副社長を見上げた。副社長の視線は、冷たいままだ。
「そうよ、貴史さん……私、貴方の事ずっと好きだったのよ? だからもう一度……ね?」
昼ドラ! 昼ドラだっ! 目の前で突然始まった恋愛ドラマに、私は固まってしまった。たくましい腕に絡まるミカさんの手を、なにも言わず払いのける副社長。ミカさんの瞳が一瞬凍りつく。その様子を見ていた社長夫人が私をきっとにらんで指差した。
「とにかく、この女の事は認めません! とっととクビに……」
黒い影が、私と二人の間に立ったかと思うと……私は肩をぐいっとつかまれ、引っぱられた。副社長に……抱き寄せられてる!?
「貴史さん!?」
「貴史さんっ!?」
「副社長!?」
同時に私達は叫び声を上げた。副社長は、冷ややかな目で母親とミカさんを見下ろし……そして静かすぎる声で社長夫人に告げた。
「貴女の指示はあおがない。こいつは手放しません」
「へっ?」
私は目がまん丸になった。な、なんか、話がおかしくなってないですか……?
ミカさんがひゅっと息を呑み、口に手を当てた。社長夫人は顔色がみるみる悪くなり、目はつり上がり、口元はゆがんでいった。和服美人が台無し……
「もうたぶらかされてしまったの、貴史さん!? この女だって、金目当てに決まってるでしょうが!!」
「べ、別に私、副社長のお金になんて興味ありませんっ!」
思わず反論した私に、社長夫人とミカさんのするどい視線がぐさぐさと突き刺さった。私の肩に回った副社長の手に、ぐっと力が入る。社長夫人が甲高かんだかい声で叫んだ。
「あなたののろわれた血など、鳳家には決して近付けさせません! 大体、貴史さんにはミカさんのように、もっと家柄の良い……っ!?」

――え……っ。
一瞬、なにが起こったのか理解できなかった。
目の前が急に暗くなったかと思ったら……副社長の息がかかって。
(……っ!?)
――私はたくましい腕に強く抱き締められたまま……何故なぜか唇を奪われていた。
――今……一体……どうなってるの?

呆然ぼうぜんとしていた私の呪縛じゅばく解いたのは……ほとんど悲鳴ひめいのような、社長夫人の金切り声だった。
「たっ、貴史さんっ……!!」
ゆっくりと副社長のぬくもりが離れていく。間近に迫る副社長と視線がかちあった瞬間、心臓がどくんと音を立てた。ただただ、目を見開いたまま動けない私の顔を、副社長は広い胸にぎゅっと押し付ける。
「俺の相手は俺が決めます」
「な、なんですって!? まさか、その女とっ!? ゆ、許しませんよっ、よりによって、のろわれた女に鳳家の後ぎを産ませるなんてっ!?」
社長夫人の声は、完全に裏返ってしまっていた。「貴史さん、どうしてしまったのっ!?」と叫ぶ、ミカさんの声も聞こえる。
「……俺がこいつと結婚するのにも、子供を産ませるのにも、貴女の許可は必要ない」
……へ?
顔を胸板に押さえつけられたまま、私は目をしばたたいた。
今……なんか……信じられない言葉を、聞いたような?
「貴史さんっ、なんて事を!」
「目を覚まして、貴史さんっ! こんな女、あなたに相応ふさわしくないわっ!」
「え、あ……むぐっ!?」
誤解をこうとしたけれど、大きな手で顔を押さえ付けられて言葉にならなかった。
「お帰り下さい。これ以上、雅子さんやこいつに暴言ぼうげんを吐くようであれば、容赦ようしゃなく叩き出します。ミカ……お前も二度とここへは来るな」
「……っ!」
ミカさんが息を呑む音が聞こえた。それから「お母様っ!」と彼女が悲鳴ひめいを上げる。部屋中に、冷たい怒りの気配けはいが充満した。
「……っ、このままで済むと思わない事ね! 行きましょう、ミカさんっ」
「は、はい」
せわしない足音が聞こえたかと思うと、バタン!! と激しくドアを叩き付けるような音が響く。
しばらくして……ふう、と頭の上に溜息が落ちた。私も自分を拘束こうそくする力が緩んだ隙に「ぷは」と大きく息を吐く。
「……寿?」
私の頭の中は、真っ白なままだった。
「お前……」
えーと……今、なにが起きたんだろう……
「おい」
社長夫人とミカさんが来て……『のろわれた女』と言われて……
「おい、聞いてるのか?」
……それで。
……そこまで思考が追いついた私は……
「うっきゃあああああああああああああああっ!!」
悲鳴ひめいを上げ、思い切り副社長を突き飛ばして、後ずさりしたのだった。

「な、な、な……」
かあああっと頬に血が上るのが判る。わわわ、私……っ!
(ふ、副社長と、キ……キキキ、キス……っ!?)
軽く触れた程度ではあるけど。でも、したよね!? 
百面相する私の顔を見て、副社長がすっと眉をひそめた。また心臓が不自然に鳴る。
「……寿」
副社長の唇が動くのを見ただけで……もう、耐えられなくなった。私はくるりときびすを返し、ドアへと一直線に突進する。
「おい、待て」
「ししし、失礼しまっ……!」
走りながら手を伸ばしてドアノブをつかもうとした瞬間――ドアが向こう側に開いた。
「失礼します。会議の資料を……って、おわっ!?」
「きゃああああっ!」
どかっ、と派手な音と共に、私は頭からなにかに突っ込み……そのまま廊下に倒れ込んでしまった。

「……うっ」
「……っ、一体……って、寿!?」
へ? と頭を上げると――前髪が乱れた小田原くんの顔が目の前にあった。
「小田原……くん? ……っ!!」
「あ!!」
小田原くんの顔が、真っ赤に染まる。私が小田原くんに圧しかかるような格好になっていて……咄嗟とっさに私を受け止めようとしてくれてた(?)手が……私の左胸をおおってる!?
「きゃああああああっ!」
「うわああああああっ!」
同時に悲鳴ひめいを上げた私達は、ぱっと身体を離した。両手をついて身体を起こした私は、尻餅しりもちをついてる小田原くんと向かい合わせになっていて……
「おおお、小田原くんじゃねえだろ! 早く足っ!」
あ。立てひざになった拍子ひょうしにスカートがめくれ上がってるっ! 慌ててひざを床についてスカートの裾を引っ張ろうとして……はた、と気が付いた。私、右手でなにかを握ってる……?
「お、お前っ……!」
……ぐしゃぐしゃになった、印刷された紙が右手の中にあった。
「こ、これっ……プロジェクトの提案資料!?」
小田原くんが床に落とした資料。なんページかを、無意識のうちに、ぎゅっと握ってしまっていたらしい。表紙を含む数ページは、使いものになりそうにない。ダブルクリップで留めた部分も、破れかけてる。
「ごごご、ごめんなさいっ! 直すの、手伝うからっ!」
立ち上がって、深々と頭を下げた私に、小田原くんが苦笑した。
「いいって、もう。また印刷するだけだし、こっちこそ、その……悪かった」
小田原くんも立ち上がり、残りの資料を拾い集めた。
「見せてみろ」
ひょい、と横から大きな手が伸びて、私が持っていたくしゃくしゃの資料を奪い取る。
「え? あ、副社長っ!?」
数ページに副社長が目を通し始め……ある箇所でぴたり、と視線を止めた。
「……小田原。ここの数字修正しろ」
副社長が、小田原くんに資料の一ヶ所を指差して見せた。
「えっ」
小田原くんが資料を副社長から受け取り、内容を確認する。
「このプロジェクトは、規模が大きい分、リスクも高くなる。リスクを計算して、原価に上乗せしろ、と事前に言ったはずだろう。原価と提示価格が直ってない」
「あ!」
小田原くんの表情が変わり、副社長に深々とお辞儀じぎをする。
「申し訳ありませんっ! 急いでいて、修正し忘れていましたっ!」
「いいから、早く直せ。社長用の資料だろう……直したら、秘書こいつの机の上に置いてくれ」
「は、はい! すぐに直してお持ちします! あ、助かったよ、寿! さすがは『幸運のマスコット』! じゃあ、後で!」
「小田原くん」
小田原くんは、資料を抱えて一目散いちもくさんに廊下を走り去っていった。
目を丸くして突っ立っていた私の両肩に……がしっと後ろから、大きな手が載った。
「逃げるな、寿。話を聞け」
「うっ……」
こ、この体勢からじゃ……逃げられない……よね? 逃げたら承知しないぞ、という無言のオーラが、私に襲いかかってくる。
「……はい」
観念した私は……がくっと頭を垂れたのだった。
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