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お花見をもう一度
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色々な事があり桜の季節は過ぎたが、庭には色とりどりの花が咲き乱れる春真っ盛り。
ミセイエルは結婚誓約書を交わした時からハナにSPを付け、時には聞きたくないような報告も受ける。
例えば、傘が返ってこない事に落胆する様子とか。
研究バカのリュウオンがその研究をセーブしてハノラナに通う時間を作って足しげくハナの様子を見に訪れているとか。
最近では、デリカの友達を呼んでハナと共にもてなす様子がまるで新婚のようだとか。
今度の日曜日にも知人を招いてホームパーティーを開くらしい。
全く誰の妻になったと思っているんだ。
未練がましく何時までも初恋の男を思い、貰った傘を後生大事にしているのが気に入らないし。
自分以外の男と新婚気分で開くファミリーパーティーなんて封じさせてもらうから。
さらに気温を操作して蕾のままにしておいたミハイル宮の桜を開花させた。
もちろん当日は人払いをしてある。
リオン叔母さんは土曜日の朝に、レストランの雇用契約の見直しをすると雇用主から呼び出しを受けデリカに飛んで行った。
午後にはリュウオンから緊急の会議が入ってそちらには行けないと予定変更の連絡を受けた。
2人がいない家に共通の知人を招くわけにもいかずパーティーは中止。
ハア~、ガックリ。
その夜は買っておいた食材を眺めては山ほどため息を吐いたハナだが、日曜の朝には気を取り直す超楽天家である。
負の感情に長々とらわれない彼女はすぐに次の楽しみを見つけ出し、些細なことで喜べる奇特な人だった。
この日も早朝から職場の友人達にお弁当を作り始め、それを楽しんでいる。
サラをピクニックに誘ってもいいし、もし彼女に予定があれば花屋の夫婦にお弁当を渡してもいい、余ったものはその辺に配ればきっと喜んでくれる。
が、ウキウキと調理を始めたハナのもとに思いもよらぬ訪問者登場であっさりと予定は変更される。
自分より20cm以上背が高く整った容姿に怜悧な顔、若いくせに他人を従わせるオーラを放つ超美形の傲慢男が訪ねてきた。
その第一声が、「傘を返すのが遅くなってすまない。今日はそのお詫びにいい所に案内するよ」だ。
いきなり現れて挨拶もなくそのセリフですか?
普通こちらの予定を尋ねませんか?
それに同行の決定権はこちらにあるものでしょう?
相手の意志を問いもせず、いつも相手が自分に合わせることに慣れた権力者のセリフ。
ムッカア~ あなたは私の雇用主でも夫でもな~い! (いやいや夫です)
「それは命令ですかぁ」
少々の嫌味と腹立ちも込めてのぞき込むような仏頂面を向け、体制を立て直しふんぞり返って聞き返す。
「そういうわけじゃないが…」
傲慢男の顰めた顔と居心地悪そうな口ぶりに、一矢報いたぞぉ~、と心の中でガッツポーズを決め、フフフと笑う。
溜飲を下げて家臣を見る女王様気分を楽しむとしょう。
「許す!」
「許す?」
言われた本人が理解できてなくてもお構いなし。
単純に負の感情を自分の中で浄化し、消化不良が解消されると嫌な事はさらっと忘れるタイプで、いたってポジティブ。 (単純でバカ正直でお人よしとも言う)
「いい所ってどこですか?」
目の中に星を飛ばし興味深々で尋ねる豹変ぶりだ。
「傘じゃなく、本物の花見をしようと思って迎えに来たんだ」
黒曜石の瞳がまん丸になり、口まで開く百面相まで披露する。
「え? 桜はとっくに散って今は葉桜になってますよ」
「僕の知っている所は随分高いところにあるから気温も低くて、今が見ごろなんだ」
自信満々に胸を張ってみせるミセイエルに、キラキラ顔を向けてあっさりと同行を承諾する。
意気揚々と手を引いて急かす彼に、待って待ってと言いながら慌てて弁当を詰め始め、お花見にはこれが必需品だ!と豪語する。
残った弁当を友人に配りたいというと、同行する者が数人いるのでそちらにといわれて、まあいいかな?
(でも、あなたのお知り合いの方達のお口に合うかしら?庶民の味ですよ?)
運転手付きの車に乗り、空港に着くとプライベートジェットに乗り変えた。
ハナはちょっとしたことに驚き、かゆいところに手が届くように世話され傅かれて恐縮し、初めての体験には表情を活き活きとさせる。 (子供か!)
「ハァ~。これがお金持ちの生活なんですねぇ。なんだか肩凝りました」
脱力と共に吐いた極めつけの一言に思わずミセイエルは吹いてしまう。
空の旅を適当に楽しんでミセイエルが準備にかかる。
「ピクニック準備で朝から大変だったろ。飛行機の中で少し眠るといい」
言葉で思念を送って睡眠術を施すが彼女の瞼は下がらなかった。
「目を閉じて、ハナ」
仕方なく直接ハナの瞼に人差指を置いて目を閉じさせると彼女はようやく夢の中の住人となった。
眠りに着いたハナを眺めながらミセイエルは大きな息を一つ呼いた。
思念を送った地上人がゼウスの意に添わないことなどあり得ないのだが。
地上人に意識があっては天界には連れて行けない。
眠らせて代謝を下げようとしたのだが彼女はなかなか眠らなかった。
まるで高貴な天界人にゼウスの力を使った時のような疲労感だ。
いったい何者?
同意を得た地上人の空間移動に自分がここまで苦労するなんて考えられない。
彼女の正体に疑問符が芽生えたが、今はミハイル宮の桜の下で彼女がどんな顔を見せるのかに心を奪われている。
もしあのハナだと確信が持てたなら、自分はこのまま彼女をハノラナに置いたままに出来るだろうか。
空間移動でミハイル宮の桜並木の下に降り立ったミセイエルは腕の中で眠る少女に語り掛けた。
「ハナ、起て。着いたよ」
ミセイエルに揺すられて目覚めた場所は、アサオと別れた11歳のあの日以来の桜並木の下だった。
あの日以来どんなに勧められても、満開の桜を高台や東屋から眺めるだけで、決して桜のトンネルの中へは入らなかった。
意識が一気に7年前の別れの日に帰る。
稲荷寿司と甘い卵焼きが好きで、食べさせてくれとねだり、梅干し入りのおむすびが当たるとわざと渋い顔を作る。
何でも出来て、一切の不満を言わないアサオが年に一度だけ見せるささやかな甘え。
アサオ、大好きな私の王子様!だ~ぁい好きだよ!
今はもう失ってしまった甘く優しい時間を思って涙がこぼれた。
「目が覚めたかい?でも楽しそうじゃない。どうして?傘の模様にするほど花見が好きなんだろ?」
低く響く甘いバリトンの声のした方には探るような視線があって、それを避けるように目を閉じると、噛んだ唇の隙間から細い息を吐いた。
「ここは悲しい出来事と楽しい思い出が一杯詰まった場所にとてもよく似ていたから・・・」
「悲しい出来事?」
「初恋の人と別れた場所にそっくりです」
「そうか。喜ばせるつもりだったんだけど。もっとハナのことリサーチしなければいけなかったね」
次の質問でもしかすると確証を得ることが出来る。
ミセイエルは震えそうになる声を抑えて目の前のハナに問う。
「初恋の彼の名前を聞いても?」
「・・・アサオ」
ハナが切なそうに、愛しそうにその名を呟く。
今でも忘れられない大事な人ですと。
10年前に繋がった!
確信を得た喜びと、彼女の心に自分ではない男がいる事が胸を突き刺す!
体中の細胞がねじ切れそうだ。
体の奥の一番内にある柔らかな部分を鷲掴みにされて顔が顰む。
「・・・」
「・・・でも楽しい思い出も沢山あるんですよ」
泣きそうな顔を上げたハナが気を取り直してピクニックシートを広げてランチボックスを並べ始める。
中身はあの時と同じ祖母直伝の純和食。
稲荷ずし、海苔巻き、甘い卵焼きに、みそ味のから揚げに、もちろん梅干し入りのおむすびは必須アイテムだ。
ミセイエルは自分の中で燃える嫉妬をねじ伏せて怜悧な顔に笑みを張り付けた。
「全部君の手つくり?おいしそうな料理を見せられたら腹ペコなのを思い出したらエネルギーが切れた!」
いうなりピクニックシートに倒れ込んで大の字になる。
「もう、早く言ってください!はい、口を開けて」
卵焼きを箸でつまんで口に持っていくと、彼はそれを一口食べて顔を顰めた。
「うわ、甘い」
「甘いものは苦手ですか?」
通常の3倍は甘い卵焼きに対する反応が少し心配になる。
「ああ、甘いものは一切口にしない。でもこれは美味しいからもう一つ入れて」
口を開けたミセイエルにハナがダメよと言い左手を差し出す。
「お行儀が悪いですよ。起きてからにしてください」
「そんなことを言われたのは初めてだ」
まあ、ゼウス候補になった時から品行方正が必修だから無作法な事をした覚えもないが。
微笑みながら出された左手を掴んで驚いたようにハナの顔を見る。
弁護士のピートからは何とか結婚指輪だけは選んでもらいましたが、渋っていたので日頃は外しているでしょう、と報告を受けていた。
「結婚指輪、してるんだ」
ハナはミセイエルを引っ張り起こして指輪をしている左手を彼の前にかざして見せた。
「そう、だから私を誘惑しないでくださいね」
そんなセリフにミセイエルもすかさず左手を出した。
「しないさ。僕もしてるから。指輪」
サクラはその仕草がおかしくてクスクスと笑い、名前を呼ぼうとしてまだそれを聞いてない事にようやく気がついた。
どこまでも天然である。
「ところでお客様のお名前は?」
「・・・」
え?僕の正体を知らないのか? 名前も知らない男についてきたのか?!
あまりに天然なハナは、二の句が継げない彼のさらに斜め上を行く。
「あら、名乗れないのですか?私と同じですね」
言いながら左手の指輪を眺める。
「名乗れないの?」
「気軽に彼の奥さんだと名乗ると、身の破滅だと弁護士さんが言うんです」
その答えに思わず舌打ちが出て、ハナの目が丸くなる。
「お行儀が悪いって言われたこと、本当にありませんか?」
聞かれてミセイエルが声を出して笑い、つられてハナも笑う。
そんな彼女を見て、自分が君の夫だと名乗ったらどんなに驚いた顔をするのか試してみたくなった。
「ハナさん、僕はミセイエル・イーツと言う」
彼女が笑うのをやめて、不思議そうな顔をする。
「こちらにはミセイエル・イーツと言う人が多いんですね。私の夫も同じ名前だし、少し前に新聞や雑誌を賑わせたお金持ちの人も同じ名前でした。そういえばあなた雑誌に載っていた人に少し似ていますね」
結婚相手はミセイエル・イーツだと伝えられて、新聞雑誌にも目をとおし、あなたお金持ちなんですね、と言ったのはつい先ほどではないか。
なのにこの3人が同一人物だと気づかない彼女の天然度に呆れながらも、可愛いと思える。
そんな思いがここ一番の彼の笑顔を作る。
「だめよ。ミセイエルさん。誘惑しないでって言ったでしょ」
「さあ、どうしょうかな。よく考えると妻に寂しい思いをさせているから他の男に誘惑されるんだし。そうなると悪いのは夫の方だからね」
「あら、最初に私のナンパを拒んだのはミセイエルさんじゃなかったですか」
「そう、でも気が変わった。じゃないと空腹が満たされないからね」
満開の桜の下2人は笑いながらお弁当をほおばった。
梅干し入りのおむすびが当たって、ヴッと喉を詰まらせたミセイエルを見つめるハナの大きな目が涙をこぼす。
彼は慌てる。
「すまない。食べなれない味だったから。謝るよ」
「違うの。アサオと同じだったから。彼もこの味が苦手で当たるといつも顔を顰めていた。今でもその人が恋しいから泣けちゃって。バカみたいでしょ」
そう言って俯いたハナをそっと抱きしめる。
「ご主人以外を思って泣く君が腹立たしいよ。ご主人以外を愛しているなんて君の夫が気の毒だ」
切ない声で呟いたミセイエルにハナが泣き笑いを見せる。
「本当にそうね。ごめんなさい。あなた」
言いながら左手の指輪にキスする仕草がたまらなく愛おしい。
「いいよ。その仕草が気に入ったから許す」
「まあ、あなたは私の旦那様じゃないでしょう」
「でも、同じ名前だから今日はピンチヒッターを務める」
そう言って綺麗な顔でハナを誘い、2人でピクニックシートに寝転んで満開の桜の間を流れる雲を見つめた。
優しい時間が流れていく。
寝息が聞こえて横を向くと、柔らかな笑みを浮かべて眠るハナがいた。
それは長年追い続けた恋人が振り向いた瞬間だった。
ミセイエルは横で微睡むハナを抱き込んだ。
今、手に入れたこの温もりを、この優しい時間をどんなことがあっても2度と手放さない。
家の前について目を覚ましたハナはギョッとする。
「ごめんなさい。ミセイエルさんをこんな時間まで拘束してしまって、奥様に申し訳ないわ。怒っていらっしゃらないかしら?」
青ざめた顔で慌てるハナの勘違いがおかしくてまた笑ってしまう。
「大丈夫だ。妻は僕と違って寛容な女性だから。そのうち紹介する」
綺麗な笑みでハナを見下ろし、ポカンと口を開けた彼女をギュッと抱きしめた。
(ちょっと、ミセイエルさん。紹介するって、誰に誰を紹介するんですか?)
(それにハナさん、よく考えてみて。既婚者がその相手意外と2人きりで花見なんて不毛の始まりですよ!)
ミセイエルは結婚誓約書を交わした時からハナにSPを付け、時には聞きたくないような報告も受ける。
例えば、傘が返ってこない事に落胆する様子とか。
研究バカのリュウオンがその研究をセーブしてハノラナに通う時間を作って足しげくハナの様子を見に訪れているとか。
最近では、デリカの友達を呼んでハナと共にもてなす様子がまるで新婚のようだとか。
今度の日曜日にも知人を招いてホームパーティーを開くらしい。
全く誰の妻になったと思っているんだ。
未練がましく何時までも初恋の男を思い、貰った傘を後生大事にしているのが気に入らないし。
自分以外の男と新婚気分で開くファミリーパーティーなんて封じさせてもらうから。
さらに気温を操作して蕾のままにしておいたミハイル宮の桜を開花させた。
もちろん当日は人払いをしてある。
リオン叔母さんは土曜日の朝に、レストランの雇用契約の見直しをすると雇用主から呼び出しを受けデリカに飛んで行った。
午後にはリュウオンから緊急の会議が入ってそちらには行けないと予定変更の連絡を受けた。
2人がいない家に共通の知人を招くわけにもいかずパーティーは中止。
ハア~、ガックリ。
その夜は買っておいた食材を眺めては山ほどため息を吐いたハナだが、日曜の朝には気を取り直す超楽天家である。
負の感情に長々とらわれない彼女はすぐに次の楽しみを見つけ出し、些細なことで喜べる奇特な人だった。
この日も早朝から職場の友人達にお弁当を作り始め、それを楽しんでいる。
サラをピクニックに誘ってもいいし、もし彼女に予定があれば花屋の夫婦にお弁当を渡してもいい、余ったものはその辺に配ればきっと喜んでくれる。
が、ウキウキと調理を始めたハナのもとに思いもよらぬ訪問者登場であっさりと予定は変更される。
自分より20cm以上背が高く整った容姿に怜悧な顔、若いくせに他人を従わせるオーラを放つ超美形の傲慢男が訪ねてきた。
その第一声が、「傘を返すのが遅くなってすまない。今日はそのお詫びにいい所に案内するよ」だ。
いきなり現れて挨拶もなくそのセリフですか?
普通こちらの予定を尋ねませんか?
それに同行の決定権はこちらにあるものでしょう?
相手の意志を問いもせず、いつも相手が自分に合わせることに慣れた権力者のセリフ。
ムッカア~ あなたは私の雇用主でも夫でもな~い! (いやいや夫です)
「それは命令ですかぁ」
少々の嫌味と腹立ちも込めてのぞき込むような仏頂面を向け、体制を立て直しふんぞり返って聞き返す。
「そういうわけじゃないが…」
傲慢男の顰めた顔と居心地悪そうな口ぶりに、一矢報いたぞぉ~、と心の中でガッツポーズを決め、フフフと笑う。
溜飲を下げて家臣を見る女王様気分を楽しむとしょう。
「許す!」
「許す?」
言われた本人が理解できてなくてもお構いなし。
単純に負の感情を自分の中で浄化し、消化不良が解消されると嫌な事はさらっと忘れるタイプで、いたってポジティブ。 (単純でバカ正直でお人よしとも言う)
「いい所ってどこですか?」
目の中に星を飛ばし興味深々で尋ねる豹変ぶりだ。
「傘じゃなく、本物の花見をしようと思って迎えに来たんだ」
黒曜石の瞳がまん丸になり、口まで開く百面相まで披露する。
「え? 桜はとっくに散って今は葉桜になってますよ」
「僕の知っている所は随分高いところにあるから気温も低くて、今が見ごろなんだ」
自信満々に胸を張ってみせるミセイエルに、キラキラ顔を向けてあっさりと同行を承諾する。
意気揚々と手を引いて急かす彼に、待って待ってと言いながら慌てて弁当を詰め始め、お花見にはこれが必需品だ!と豪語する。
残った弁当を友人に配りたいというと、同行する者が数人いるのでそちらにといわれて、まあいいかな?
(でも、あなたのお知り合いの方達のお口に合うかしら?庶民の味ですよ?)
運転手付きの車に乗り、空港に着くとプライベートジェットに乗り変えた。
ハナはちょっとしたことに驚き、かゆいところに手が届くように世話され傅かれて恐縮し、初めての体験には表情を活き活きとさせる。 (子供か!)
「ハァ~。これがお金持ちの生活なんですねぇ。なんだか肩凝りました」
脱力と共に吐いた極めつけの一言に思わずミセイエルは吹いてしまう。
空の旅を適当に楽しんでミセイエルが準備にかかる。
「ピクニック準備で朝から大変だったろ。飛行機の中で少し眠るといい」
言葉で思念を送って睡眠術を施すが彼女の瞼は下がらなかった。
「目を閉じて、ハナ」
仕方なく直接ハナの瞼に人差指を置いて目を閉じさせると彼女はようやく夢の中の住人となった。
眠りに着いたハナを眺めながらミセイエルは大きな息を一つ呼いた。
思念を送った地上人がゼウスの意に添わないことなどあり得ないのだが。
地上人に意識があっては天界には連れて行けない。
眠らせて代謝を下げようとしたのだが彼女はなかなか眠らなかった。
まるで高貴な天界人にゼウスの力を使った時のような疲労感だ。
いったい何者?
同意を得た地上人の空間移動に自分がここまで苦労するなんて考えられない。
彼女の正体に疑問符が芽生えたが、今はミハイル宮の桜の下で彼女がどんな顔を見せるのかに心を奪われている。
もしあのハナだと確信が持てたなら、自分はこのまま彼女をハノラナに置いたままに出来るだろうか。
空間移動でミハイル宮の桜並木の下に降り立ったミセイエルは腕の中で眠る少女に語り掛けた。
「ハナ、起て。着いたよ」
ミセイエルに揺すられて目覚めた場所は、アサオと別れた11歳のあの日以来の桜並木の下だった。
あの日以来どんなに勧められても、満開の桜を高台や東屋から眺めるだけで、決して桜のトンネルの中へは入らなかった。
意識が一気に7年前の別れの日に帰る。
稲荷寿司と甘い卵焼きが好きで、食べさせてくれとねだり、梅干し入りのおむすびが当たるとわざと渋い顔を作る。
何でも出来て、一切の不満を言わないアサオが年に一度だけ見せるささやかな甘え。
アサオ、大好きな私の王子様!だ~ぁい好きだよ!
今はもう失ってしまった甘く優しい時間を思って涙がこぼれた。
「目が覚めたかい?でも楽しそうじゃない。どうして?傘の模様にするほど花見が好きなんだろ?」
低く響く甘いバリトンの声のした方には探るような視線があって、それを避けるように目を閉じると、噛んだ唇の隙間から細い息を吐いた。
「ここは悲しい出来事と楽しい思い出が一杯詰まった場所にとてもよく似ていたから・・・」
「悲しい出来事?」
「初恋の人と別れた場所にそっくりです」
「そうか。喜ばせるつもりだったんだけど。もっとハナのことリサーチしなければいけなかったね」
次の質問でもしかすると確証を得ることが出来る。
ミセイエルは震えそうになる声を抑えて目の前のハナに問う。
「初恋の彼の名前を聞いても?」
「・・・アサオ」
ハナが切なそうに、愛しそうにその名を呟く。
今でも忘れられない大事な人ですと。
10年前に繋がった!
確信を得た喜びと、彼女の心に自分ではない男がいる事が胸を突き刺す!
体中の細胞がねじ切れそうだ。
体の奥の一番内にある柔らかな部分を鷲掴みにされて顔が顰む。
「・・・」
「・・・でも楽しい思い出も沢山あるんですよ」
泣きそうな顔を上げたハナが気を取り直してピクニックシートを広げてランチボックスを並べ始める。
中身はあの時と同じ祖母直伝の純和食。
稲荷ずし、海苔巻き、甘い卵焼きに、みそ味のから揚げに、もちろん梅干し入りのおむすびは必須アイテムだ。
ミセイエルは自分の中で燃える嫉妬をねじ伏せて怜悧な顔に笑みを張り付けた。
「全部君の手つくり?おいしそうな料理を見せられたら腹ペコなのを思い出したらエネルギーが切れた!」
いうなりピクニックシートに倒れ込んで大の字になる。
「もう、早く言ってください!はい、口を開けて」
卵焼きを箸でつまんで口に持っていくと、彼はそれを一口食べて顔を顰めた。
「うわ、甘い」
「甘いものは苦手ですか?」
通常の3倍は甘い卵焼きに対する反応が少し心配になる。
「ああ、甘いものは一切口にしない。でもこれは美味しいからもう一つ入れて」
口を開けたミセイエルにハナがダメよと言い左手を差し出す。
「お行儀が悪いですよ。起きてからにしてください」
「そんなことを言われたのは初めてだ」
まあ、ゼウス候補になった時から品行方正が必修だから無作法な事をした覚えもないが。
微笑みながら出された左手を掴んで驚いたようにハナの顔を見る。
弁護士のピートからは何とか結婚指輪だけは選んでもらいましたが、渋っていたので日頃は外しているでしょう、と報告を受けていた。
「結婚指輪、してるんだ」
ハナはミセイエルを引っ張り起こして指輪をしている左手を彼の前にかざして見せた。
「そう、だから私を誘惑しないでくださいね」
そんなセリフにミセイエルもすかさず左手を出した。
「しないさ。僕もしてるから。指輪」
サクラはその仕草がおかしくてクスクスと笑い、名前を呼ぼうとしてまだそれを聞いてない事にようやく気がついた。
どこまでも天然である。
「ところでお客様のお名前は?」
「・・・」
え?僕の正体を知らないのか? 名前も知らない男についてきたのか?!
あまりに天然なハナは、二の句が継げない彼のさらに斜め上を行く。
「あら、名乗れないのですか?私と同じですね」
言いながら左手の指輪を眺める。
「名乗れないの?」
「気軽に彼の奥さんだと名乗ると、身の破滅だと弁護士さんが言うんです」
その答えに思わず舌打ちが出て、ハナの目が丸くなる。
「お行儀が悪いって言われたこと、本当にありませんか?」
聞かれてミセイエルが声を出して笑い、つられてハナも笑う。
そんな彼女を見て、自分が君の夫だと名乗ったらどんなに驚いた顔をするのか試してみたくなった。
「ハナさん、僕はミセイエル・イーツと言う」
彼女が笑うのをやめて、不思議そうな顔をする。
「こちらにはミセイエル・イーツと言う人が多いんですね。私の夫も同じ名前だし、少し前に新聞や雑誌を賑わせたお金持ちの人も同じ名前でした。そういえばあなた雑誌に載っていた人に少し似ていますね」
結婚相手はミセイエル・イーツだと伝えられて、新聞雑誌にも目をとおし、あなたお金持ちなんですね、と言ったのはつい先ほどではないか。
なのにこの3人が同一人物だと気づかない彼女の天然度に呆れながらも、可愛いと思える。
そんな思いがここ一番の彼の笑顔を作る。
「だめよ。ミセイエルさん。誘惑しないでって言ったでしょ」
「さあ、どうしょうかな。よく考えると妻に寂しい思いをさせているから他の男に誘惑されるんだし。そうなると悪いのは夫の方だからね」
「あら、最初に私のナンパを拒んだのはミセイエルさんじゃなかったですか」
「そう、でも気が変わった。じゃないと空腹が満たされないからね」
満開の桜の下2人は笑いながらお弁当をほおばった。
梅干し入りのおむすびが当たって、ヴッと喉を詰まらせたミセイエルを見つめるハナの大きな目が涙をこぼす。
彼は慌てる。
「すまない。食べなれない味だったから。謝るよ」
「違うの。アサオと同じだったから。彼もこの味が苦手で当たるといつも顔を顰めていた。今でもその人が恋しいから泣けちゃって。バカみたいでしょ」
そう言って俯いたハナをそっと抱きしめる。
「ご主人以外を思って泣く君が腹立たしいよ。ご主人以外を愛しているなんて君の夫が気の毒だ」
切ない声で呟いたミセイエルにハナが泣き笑いを見せる。
「本当にそうね。ごめんなさい。あなた」
言いながら左手の指輪にキスする仕草がたまらなく愛おしい。
「いいよ。その仕草が気に入ったから許す」
「まあ、あなたは私の旦那様じゃないでしょう」
「でも、同じ名前だから今日はピンチヒッターを務める」
そう言って綺麗な顔でハナを誘い、2人でピクニックシートに寝転んで満開の桜の間を流れる雲を見つめた。
優しい時間が流れていく。
寝息が聞こえて横を向くと、柔らかな笑みを浮かべて眠るハナがいた。
それは長年追い続けた恋人が振り向いた瞬間だった。
ミセイエルは横で微睡むハナを抱き込んだ。
今、手に入れたこの温もりを、この優しい時間をどんなことがあっても2度と手放さない。
家の前について目を覚ましたハナはギョッとする。
「ごめんなさい。ミセイエルさんをこんな時間まで拘束してしまって、奥様に申し訳ないわ。怒っていらっしゃらないかしら?」
青ざめた顔で慌てるハナの勘違いがおかしくてまた笑ってしまう。
「大丈夫だ。妻は僕と違って寛容な女性だから。そのうち紹介する」
綺麗な笑みでハナを見下ろし、ポカンと口を開けた彼女をギュッと抱きしめた。
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王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。
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