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第三章 月下の恋の行方
第九話 月下の逃避行
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時が止まったかのように動けなくなったルーカス。そして時を止めてしまった碧眼の男ブライアンの背後から奇声が聞こえる。
「奥様」
狂気じみたカトリーヌのルーカスを呼ぶ声が聞こえる。
「旦那様、失礼します」
壁の凹みに足を掛け、馬に跨る。ルーカスの背後から手を伸ばし手綱を握る。そして横っ腹を蹴り、藁を撒き散らしながら馬小屋を駆け出た。
「少し無茶をします」
閉まる裏口からでなく、低い垣根を越えて敷地内を出る。越える時、ブライアンが抱きしめていなければルーカスは落馬していただろう。それくらい放心状態だった。そのまま街を出て、満月に近い月明かりの中を駆けていく。後ろを見上げれば碧眼が前を真っ直ぐに見据えていて、視線が落ちてくる。思わず首を伸ばしてキスをするが、ブライアンからキスのお返しはない。
「しばしお待ちを。ここでは貴方をじっくり愛でることはできない」
その声はザックの声だった。普段馬小屋で馬声に紛れて聞こえるブライアンの声をきちんと聞いたことは無かった。だが今は自分をこんな状態にしたあの低い声だった。
いつもの森につき、先に下馬したブライアンがルーカスに手を差し出す。その手を取り、彼の胸の中へ落ちれば抱きとめてくれる。
「申し訳ありませんでした」
腕からルーカスを開放し、深々と頭を下げる彼はいつもの彼だった。暗い馬小屋で迎えてくれる下げられた頭のせいで目を見ることもほとんどなかった。
「騙していたとはいえ、旦那様に忠誠心がなかった訳ではありません」
もちろんそれはルーカスも分かっている。彼はとても礼儀正しく、自分に負の感情を向けることは一度もなかった。
そしてルーカス自身、自分が忠誠を尽くしてもらえるような人間でなくなったと思っている。
「俺は妻を捨て、身分を捨て、他の男に逃げようとしている悪魔のような男だぞ」
「私の方こそ悪魔です」
「?」
「卑しくも、私は奥様の命を奪おうとしていました」
「妻と君との間には何かあったのだろうか?」
「まさか、そんな…ただ誠実なあなたがいるにも関わらず男遊びをする奥様が憎かった事は否定できません」
「……」
瞳が怒りに揺れ、何も言うことが出来ない。
「そしてあの晩、奥様に愛がないなどと言うから……我慢が出来ずにキスをしてしまいました。私は初めて会った時からあなたをお慕い申しております」
謝罪の意を込めて頭を下げるブライアンの頭を上げさせる。その顔をしっかり見るのは初めてだった。
初めて出会ったのはルーカスが婿としてやって来た日で、馬小屋に馬を連れていった時だった。
「騎士が没落していく時代に咲く、真の騎士道精神。農奴のような私にも声をかけてくださるその優しさに惹かれてしまったのです」
「では何故、あんなにも逢瀬を重ねていたのに名乗り出てくれなかったのだ。そんなに好意があるならばっ!」
「身分が違います。仮面を付けていようと、その下の真実は消せません。それ故に、私はあなたを一度もヘルマンとは呼べませんでした」
その言葉に、年上にも関わらず謙った話し方や諸々のことに全て合点がいく。
「それに、あの新月の日、あなたは奥様との別離に迷いが生じていました」
「あれは……」
「やはり、私のような者が奪ってはいけないと気がついたのです」
「しかし俺は! ブライアンでないと無理だと気がついたのだ!」
報われない恋かもしれない。
しかし、それでも追わずにはいられなかった。最初で最後になるかもしれない本心からの色づいた気持ちに、もう止まることは出来なくなっていた。簡単に落ち、大切なものを手放し、不確かなものに手を伸ばす。
──拍手喝采の戯曲の終幕のようだ。
ルーカスはため息をつく。
「結局俺は女のように恋に狂っていたのだな」
落ち込むルーカスの耳元でブライアンが囁く。
「私も一緒に狂っても?」
「?」
「恋をしてしまったのでしょ? 私に」
沸騰するように顔が熱くなり、ブライアンから一歩退く。
しかしブライアンが腰に腕を回し引き寄せる。
「最高の口説き文句でしたよ」
そしてキスを落としてくる。
「一緒に狂ってくれますね?」
自分を狂わせた熱い唇にルーカスはそれ以上に熱いキスで返事をした。
夜空に高く登る月は少し欠けている。それはまるで二人の恋がまだ完璧ではないことを暗示しているようだった。
追われる身となった男達。
しばらく愛を確かめ合い、そして再び馬に跨り国境を目指した。
「奥様」
狂気じみたカトリーヌのルーカスを呼ぶ声が聞こえる。
「旦那様、失礼します」
壁の凹みに足を掛け、馬に跨る。ルーカスの背後から手を伸ばし手綱を握る。そして横っ腹を蹴り、藁を撒き散らしながら馬小屋を駆け出た。
「少し無茶をします」
閉まる裏口からでなく、低い垣根を越えて敷地内を出る。越える時、ブライアンが抱きしめていなければルーカスは落馬していただろう。それくらい放心状態だった。そのまま街を出て、満月に近い月明かりの中を駆けていく。後ろを見上げれば碧眼が前を真っ直ぐに見据えていて、視線が落ちてくる。思わず首を伸ばしてキスをするが、ブライアンからキスのお返しはない。
「しばしお待ちを。ここでは貴方をじっくり愛でることはできない」
その声はザックの声だった。普段馬小屋で馬声に紛れて聞こえるブライアンの声をきちんと聞いたことは無かった。だが今は自分をこんな状態にしたあの低い声だった。
いつもの森につき、先に下馬したブライアンがルーカスに手を差し出す。その手を取り、彼の胸の中へ落ちれば抱きとめてくれる。
「申し訳ありませんでした」
腕からルーカスを開放し、深々と頭を下げる彼はいつもの彼だった。暗い馬小屋で迎えてくれる下げられた頭のせいで目を見ることもほとんどなかった。
「騙していたとはいえ、旦那様に忠誠心がなかった訳ではありません」
もちろんそれはルーカスも分かっている。彼はとても礼儀正しく、自分に負の感情を向けることは一度もなかった。
そしてルーカス自身、自分が忠誠を尽くしてもらえるような人間でなくなったと思っている。
「俺は妻を捨て、身分を捨て、他の男に逃げようとしている悪魔のような男だぞ」
「私の方こそ悪魔です」
「?」
「卑しくも、私は奥様の命を奪おうとしていました」
「妻と君との間には何かあったのだろうか?」
「まさか、そんな…ただ誠実なあなたがいるにも関わらず男遊びをする奥様が憎かった事は否定できません」
「……」
瞳が怒りに揺れ、何も言うことが出来ない。
「そしてあの晩、奥様に愛がないなどと言うから……我慢が出来ずにキスをしてしまいました。私は初めて会った時からあなたをお慕い申しております」
謝罪の意を込めて頭を下げるブライアンの頭を上げさせる。その顔をしっかり見るのは初めてだった。
初めて出会ったのはルーカスが婿としてやって来た日で、馬小屋に馬を連れていった時だった。
「騎士が没落していく時代に咲く、真の騎士道精神。農奴のような私にも声をかけてくださるその優しさに惹かれてしまったのです」
「では何故、あんなにも逢瀬を重ねていたのに名乗り出てくれなかったのだ。そんなに好意があるならばっ!」
「身分が違います。仮面を付けていようと、その下の真実は消せません。それ故に、私はあなたを一度もヘルマンとは呼べませんでした」
その言葉に、年上にも関わらず謙った話し方や諸々のことに全て合点がいく。
「それに、あの新月の日、あなたは奥様との別離に迷いが生じていました」
「あれは……」
「やはり、私のような者が奪ってはいけないと気がついたのです」
「しかし俺は! ブライアンでないと無理だと気がついたのだ!」
報われない恋かもしれない。
しかし、それでも追わずにはいられなかった。最初で最後になるかもしれない本心からの色づいた気持ちに、もう止まることは出来なくなっていた。簡単に落ち、大切なものを手放し、不確かなものに手を伸ばす。
──拍手喝采の戯曲の終幕のようだ。
ルーカスはため息をつく。
「結局俺は女のように恋に狂っていたのだな」
落ち込むルーカスの耳元でブライアンが囁く。
「私も一緒に狂っても?」
「?」
「恋をしてしまったのでしょ? 私に」
沸騰するように顔が熱くなり、ブライアンから一歩退く。
しかしブライアンが腰に腕を回し引き寄せる。
「最高の口説き文句でしたよ」
そしてキスを落としてくる。
「一緒に狂ってくれますね?」
自分を狂わせた熱い唇にルーカスはそれ以上に熱いキスで返事をした。
夜空に高く登る月は少し欠けている。それはまるで二人の恋がまだ完璧ではないことを暗示しているようだった。
追われる身となった男達。
しばらく愛を確かめ合い、そして再び馬に跨り国境を目指した。
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