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第四章 熟さぬ果実
第二話 不安の仮面
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「いけません」
その言葉にルーカスはいつかザック、いやブライアンに拒否されたあの日の事を思い出す。
その記憶を拭い去ろうと痛いほど目を瞑り、そして抱きしめる腕に力を込めた。
「どうしてだ。何故、俺と距離を取ろうとする。やはり君は……」
自分ではその続きを言うのが恐ろしい。
腕の中からため息が聞こえ、最悪の結果が頭をよぎる。
ブライアンの答えは……
「緊張しているのです」
「君が?どうして?俺の方こそ……」
「尊敬する主と想いが通じ合い、今こうして二人きりの時間を得ました。あの日も申しましたが、初めてお会いした日から貴方を慕っております。長年の想いの成熟にいつ理性が切れるか分からないのです」
あまりの熱い告白に、ルーカスは放心してしまった。
そして緩んだ腕をすり抜け、今度はブライアンがルーカスを抱きしめた。
「旦那様こそどうして緊張などなさるのです。貴方は主。胸を張ってください」
「無理だ」
「どうしてです?」
「困惑している。ブライアンに触れたい、触れられたいと強く願う己がいる一方、嫌われたくないと臆病になる己もいるのだ。それに、いつまでも俺の事を旦那様と呼ばれる事で距離を感じてしまう。君が主への忠誠心でここにいるのではないかと疑ってしまっている」
初めて見るルーカスの臆病な姿に、ブライアンは愛しさが込み上げた。
「何度でも言います。私は貴方を慕い、そして愛しております。この気持ちは何者にも変えられません。しかし失礼ながら私にも旦那様に確認したいことがございます」
「何だろうか」
「私は不躾ながらも非合理的な手段で貴方を堕としました」
ルーカスは『カリファ』での記憶を辿った。しかし、ブライアンに何か強引にされたようなことは一つもない。
そして仮面の逢瀬で思い出す事といえば……
「快楽です」
今までされてきたことが蘇り、一気に身体が熱くなる。
それとは逆にブライアンの声は冷めていく。
「奥様がまだ仮面舞踏会へ行く前に、侍女との話を盗み聞きしてしまったのです。旦那様が抱いてくれないと。それは一度も、それどころか触れすらしないと」
ブライアンはルーカスが視察に行っている間、侍女とカトリーヌの会話を聞いてしまった。
「ルーカスったら私に一度も触れないのよ! 奥手にもほどがあるわ!」
怒りに満ちた声。それを宥める侍女。
いつしか会話は男の誘い方に代わり、貴族の作法などお構いなしに、田舎から来た侍女が汚い手口を教え込んでいく。
そしてそのやり方が実行されたのは直ぐだった。
まだルーカスが視察に行っている期間。カトリーヌが人目を盗んで裏口から出ていくのが見えた。
こっそり追うと、途中でよく屋敷に来る町の富豪の娘と合流していた。
残念ながら仮面を持参していなかった為、ブライアンは『カリファ』の仮面舞踏会には参加できなかった。しかし、そこで何が行われているかは想像に難くなかった。
翌朝、女の表情をしたカトリーヌが朝日と共に帰って来た事でそれは決定的だった。
「あの方はその方法を仮面舞踏会でお使いになったのでしょう」
ブライアンの顔が憎しみに歪む。
ルーカスも最後の晩以外でカトリーヌに夜の誘いを受けた事は無かった。あの舞踏会へ行くまで彼女も純粋な乙女のままだったのだろう。しかしいつしか何もせぬ夫への苛立ちからあのようなものに手を出してしまったのだ。
「俺がいつまでも騎士としての己を忘れられなかったのが事の発端だ」
家で大人しくふんぞり返ることもできず、視察で領地を駆け回る日々。馬の手入れに時間をかけ、日々の鍛錬を怠らない。
何度も諸侯として優雅な生活に身を置かねばと思い直しても、野性的な性格が抜けることはなかった。
事実その癖は、先ほどブライアンを見つけた時にも出てしまった。
「そのせいでカトリーヌは他の男と関係を持ってしまった」
「いえ!私は旦那様のその精神に惚れたのです。気を落とされないでください。それに……」
ブライアンが握った拳を開く。
「それはまだ私にも希望が残っている証拠でした。奥様が出来なかった方法で貴方を手に入れる」
そしてそれは実った。
「貴方は堕ちました。ですが私にではない」
悲し気な碧眼がルーカスを真っ直ぐに射抜く。その視線に思わず背筋が伸びた。
「ですから私は危惧しています。貴方が快楽を欲して私といるのではないかと。しかし、あの夜告げてくれた言葉も信じております」
——「あれが恋だと知ってしまったのだ」
恋に溺れた自身がとんでもない事を言ったのを思い出し、ルーカスはブライアンに背を向けてしまった。
「あ、あれは! その……」
きちんと答えを知りたいブライアンは、ルーカスの前に回り込んだ。
そして顎をクイッと持ち上げる。
恥ずかしくて濡れる瞳が、答えを物語っている。しかし主の口から出るまで待った。
薄い唇がゆっくりと開く。
「事実だ」
安心した微笑みに、彼の若さを感じる。
「最初は快楽に堕ちたかもしれない。しかし、いつしか仮面を取り、身の上話までするようになった。カトリーヌにすら話したことは無かった。色んな意味で、俺はブライアンの前だと仮面を脱ぎ去る事が出来るのだ」
——騎士という名の仮面を。
それを捨て、安心して寄り添える場所。それこそがブライアンの元だった。
「俺も君と主従の関係を取り払って愛し合いたいのだ。これが俺の答えだ。ブライアン、君を愛している」
剣を握り続けた豆だらけの手で、ブライアンの頬に触れる。
幸せそうな表情と、気持ちが溢れそうな唇にキスをする。お返しも貰い、川のせせらぎの中、二人はようやく心の不安を流すことが出来た。
「もう我慢しませんよ?」
急に男らしい顔つきになったブライアン。
「ああ。だから……」
そっぽを向いたルーカスが頬を掻く。
「旦那様と呼ぶのは止めてもらえないだろうか」
チラリと確認すれば目を丸くしたブライアンがいた。
「しかし」
「もう主従関係ではないのだ。よろしく頼む」
「良いのですか?」
「問題ない」
「では……ルーカス」
想像以上の効果があったようだ。
ルーカスは耳まで真っ赤になった。
「つ、ついでに敬語も」
「それは少々お時間をいただけますか?」
困ったように笑うブライアン。
こればかりは直ぐには無理だと判断しルーカスも諦めた。
陽だまりの様な雰囲気が二人の間に流れる。しかし突如、
——ガササッ!!
森の方から音がし、ルーカスはブライアンを背中に隠した。
「下がれ、ブライアン!」
腰に下げていた短刀を抜く。
しかし背中に隠したブライアンが呑気な声を出した。
「大丈夫ですよ」
「?」
「動物が罠に引っかかったのでしょう」
警戒心皆無でブライアンが茂みの中に潜っていった。次に現れた時には野ウサギを手にしていた。
「晩御飯です」
二人きりで取る初めての食事だと気が付き、軽快な足取りでルーカスはブライアンの元へ駆け寄った。
その言葉にルーカスはいつかザック、いやブライアンに拒否されたあの日の事を思い出す。
その記憶を拭い去ろうと痛いほど目を瞑り、そして抱きしめる腕に力を込めた。
「どうしてだ。何故、俺と距離を取ろうとする。やはり君は……」
自分ではその続きを言うのが恐ろしい。
腕の中からため息が聞こえ、最悪の結果が頭をよぎる。
ブライアンの答えは……
「緊張しているのです」
「君が?どうして?俺の方こそ……」
「尊敬する主と想いが通じ合い、今こうして二人きりの時間を得ました。あの日も申しましたが、初めてお会いした日から貴方を慕っております。長年の想いの成熟にいつ理性が切れるか分からないのです」
あまりの熱い告白に、ルーカスは放心してしまった。
そして緩んだ腕をすり抜け、今度はブライアンがルーカスを抱きしめた。
「旦那様こそどうして緊張などなさるのです。貴方は主。胸を張ってください」
「無理だ」
「どうしてです?」
「困惑している。ブライアンに触れたい、触れられたいと強く願う己がいる一方、嫌われたくないと臆病になる己もいるのだ。それに、いつまでも俺の事を旦那様と呼ばれる事で距離を感じてしまう。君が主への忠誠心でここにいるのではないかと疑ってしまっている」
初めて見るルーカスの臆病な姿に、ブライアンは愛しさが込み上げた。
「何度でも言います。私は貴方を慕い、そして愛しております。この気持ちは何者にも変えられません。しかし失礼ながら私にも旦那様に確認したいことがございます」
「何だろうか」
「私は不躾ながらも非合理的な手段で貴方を堕としました」
ルーカスは『カリファ』での記憶を辿った。しかし、ブライアンに何か強引にされたようなことは一つもない。
そして仮面の逢瀬で思い出す事といえば……
「快楽です」
今までされてきたことが蘇り、一気に身体が熱くなる。
それとは逆にブライアンの声は冷めていく。
「奥様がまだ仮面舞踏会へ行く前に、侍女との話を盗み聞きしてしまったのです。旦那様が抱いてくれないと。それは一度も、それどころか触れすらしないと」
ブライアンはルーカスが視察に行っている間、侍女とカトリーヌの会話を聞いてしまった。
「ルーカスったら私に一度も触れないのよ! 奥手にもほどがあるわ!」
怒りに満ちた声。それを宥める侍女。
いつしか会話は男の誘い方に代わり、貴族の作法などお構いなしに、田舎から来た侍女が汚い手口を教え込んでいく。
そしてそのやり方が実行されたのは直ぐだった。
まだルーカスが視察に行っている期間。カトリーヌが人目を盗んで裏口から出ていくのが見えた。
こっそり追うと、途中でよく屋敷に来る町の富豪の娘と合流していた。
残念ながら仮面を持参していなかった為、ブライアンは『カリファ』の仮面舞踏会には参加できなかった。しかし、そこで何が行われているかは想像に難くなかった。
翌朝、女の表情をしたカトリーヌが朝日と共に帰って来た事でそれは決定的だった。
「あの方はその方法を仮面舞踏会でお使いになったのでしょう」
ブライアンの顔が憎しみに歪む。
ルーカスも最後の晩以外でカトリーヌに夜の誘いを受けた事は無かった。あの舞踏会へ行くまで彼女も純粋な乙女のままだったのだろう。しかしいつしか何もせぬ夫への苛立ちからあのようなものに手を出してしまったのだ。
「俺がいつまでも騎士としての己を忘れられなかったのが事の発端だ」
家で大人しくふんぞり返ることもできず、視察で領地を駆け回る日々。馬の手入れに時間をかけ、日々の鍛錬を怠らない。
何度も諸侯として優雅な生活に身を置かねばと思い直しても、野性的な性格が抜けることはなかった。
事実その癖は、先ほどブライアンを見つけた時にも出てしまった。
「そのせいでカトリーヌは他の男と関係を持ってしまった」
「いえ!私は旦那様のその精神に惚れたのです。気を落とされないでください。それに……」
ブライアンが握った拳を開く。
「それはまだ私にも希望が残っている証拠でした。奥様が出来なかった方法で貴方を手に入れる」
そしてそれは実った。
「貴方は堕ちました。ですが私にではない」
悲し気な碧眼がルーカスを真っ直ぐに射抜く。その視線に思わず背筋が伸びた。
「ですから私は危惧しています。貴方が快楽を欲して私といるのではないかと。しかし、あの夜告げてくれた言葉も信じております」
——「あれが恋だと知ってしまったのだ」
恋に溺れた自身がとんでもない事を言ったのを思い出し、ルーカスはブライアンに背を向けてしまった。
「あ、あれは! その……」
きちんと答えを知りたいブライアンは、ルーカスの前に回り込んだ。
そして顎をクイッと持ち上げる。
恥ずかしくて濡れる瞳が、答えを物語っている。しかし主の口から出るまで待った。
薄い唇がゆっくりと開く。
「事実だ」
安心した微笑みに、彼の若さを感じる。
「最初は快楽に堕ちたかもしれない。しかし、いつしか仮面を取り、身の上話までするようになった。カトリーヌにすら話したことは無かった。色んな意味で、俺はブライアンの前だと仮面を脱ぎ去る事が出来るのだ」
——騎士という名の仮面を。
それを捨て、安心して寄り添える場所。それこそがブライアンの元だった。
「俺も君と主従の関係を取り払って愛し合いたいのだ。これが俺の答えだ。ブライアン、君を愛している」
剣を握り続けた豆だらけの手で、ブライアンの頬に触れる。
幸せそうな表情と、気持ちが溢れそうな唇にキスをする。お返しも貰い、川のせせらぎの中、二人はようやく心の不安を流すことが出来た。
「もう我慢しませんよ?」
急に男らしい顔つきになったブライアン。
「ああ。だから……」
そっぽを向いたルーカスが頬を掻く。
「旦那様と呼ぶのは止めてもらえないだろうか」
チラリと確認すれば目を丸くしたブライアンがいた。
「しかし」
「もう主従関係ではないのだ。よろしく頼む」
「良いのですか?」
「問題ない」
「では……ルーカス」
想像以上の効果があったようだ。
ルーカスは耳まで真っ赤になった。
「つ、ついでに敬語も」
「それは少々お時間をいただけますか?」
困ったように笑うブライアン。
こればかりは直ぐには無理だと判断しルーカスも諦めた。
陽だまりの様な雰囲気が二人の間に流れる。しかし突如、
——ガササッ!!
森の方から音がし、ルーカスはブライアンを背中に隠した。
「下がれ、ブライアン!」
腰に下げていた短刀を抜く。
しかし背中に隠したブライアンが呑気な声を出した。
「大丈夫ですよ」
「?」
「動物が罠に引っかかったのでしょう」
警戒心皆無でブライアンが茂みの中に潜っていった。次に現れた時には野ウサギを手にしていた。
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