幸せという呪縛

秋赤音

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旅立ち

0.さよなら、世界

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いつもどおり、夕暮れを見送りながら学校を出た。

「解。また明日」

「累。気をつけて帰れよ」

「気をつけるのは、解です。
なんとなく、危ない感じ」

「妹さんの言う通りだな」

カラカラと明るく笑いながら、僕たちに向かって手を振り、
その姿は遠ざかる。

「解。今日を、なんとか平和に過ごせば、
明日は累の家にいられます。
私は、大丈夫です」

「商。しっかり勉強、教えてもらってね。
累が助けてくれて、本当によかった」

僕たちは歩く。
そして、大きな音がドア越しに聞こえる家の前に佇む。
数秒。深呼吸をする。
妹は、偶然に通りがかったお隣のお姉さんにお願いした。
不安そうな眼差しの妹が、お姉さんと家に入るのを確認。

母さんを守らないと。
ただ、それだけを考えて、気の重いドアをあけた。
音を立てないようにドアを開け、
静かに靴をぬぎ、目的の物と、
妹が直接取りに来るはずだった物を
鞄に入れる。
静かに玄関へ戻る途中、壁を殴る大きな音がした。

「誰のおかげで飯が食えていると思っている。
お前は、黙って言うことを聞いていればいい」

今日も、だった。
酔っ払いは、今日も同じことを言っている。
殴られそうになっている母さんの前に立つ。
振り降ろされた拳を受け止める。

「早く酒を…お、帰ったのか。
お前、タバコと酒を買ってこい。今すぐに」

「わかりました。
夕食の買い物をしたいので、母さんも一緒に行きます」

投げつけられたお金を拾い、
母さんを連れて足早に家を出る。
お隣さんの窓から、こちらの様子を見ている妹がいた。
歩みをゆっくりにし、窓から離れるように目で合図をする。
姿が見えなくなると、再び速足で歩き始める。

妹へ物を届けて、家に帰る。
言う通りの品物と、父さんの好物の料理を出した。
父さんは、広いテーブルに用意された一人前の食事を食べ終わると、
思い出したように機嫌が悪くなり始める。

「商は」

唸るような低い声が短く妹の名前を呼んだ。

「友人と受験勉強です」

「またか」

母さんを叩こうとする父さんの腕をつかむ。
そして、僕の腕をつかみひねり上げる。
痛みに慣れた身体は、なにも感じない。

「お前もだ。早く、やめさせろ。
いくら成人していても、
毎日男の家に上がり込むとは、どういうことだ。
俺の与えた物は気に入らないくせに」

以前のことだった。
僕たちの全てを否定する父さんは、僕たちに完全を求めた。
優秀な文武の成績と理想の交友関係と、理想の恋愛。
勉強や友人関係は及第点でも、
年ごろの子供に異性の気配がないことが気に入らない父さんは、
自分の気に入る相手を僕たちにあてがった。
あてがわれた相手は不快でしかなく、その上、身の危険ばかり。
なんとか別れた後は、ギリギリのところで不快を避けた。
それが気に入らないのか、
趣味や持ち物のすべてを決め、押し付けてくるようになったが。
成人してからは、全てなにも言ってこないのが幸いだった。

「痛くないのか。それでも人間か?」

鈍い音が腹から聞こえる。
強く握られた拳が、僕を叩いている。
気が済むまで叩いた後、すっきりしたように自室へ入っていった。

「解」

静かになった部屋で、消えかかりそうなほどの小さな声が、
僕を呼ぶ。
見た目だけだと、母さんに怪我はないことを確認した。
その様子に、母さんは苦笑を浮かべた。
そのまま静かに部屋へ行き、小さな手荷物を持って出てくる。
音を立てないように玄関を出て、鍵を閉めた。
足早に、静かに、次の目的へ向かう。

「こんばんは」

そこには、なぜか累もいた。
不安な様子の商の傍にいてくれる累は、
母さんの様子を見て安心したように一息ついた。

「解…腕が」

妹の視線は、ひねられた痕が残っている腕に注がれる。

「早く行こう。
うちの親、歓迎パーティの用意しながら、
気合い入れて待っているから」

累の家に着くと、言われたとおりに盛大な歓迎で始まった。
妹と累は二人の世界へ、
母さんと累のお母さんも楽しそうに話をしている。

「積。この日を待っていたのよ。
離婚していたから、楽に進めたのは良い誤算ね」

「加歩。ありがとう。商と解まで…」

「いいのよ。積の子供で、
累のお嫁さんのお兄さんだもの。
これからは、ここが積の家だからね。
管理に悩んでいた別館が役に立って、とても嬉しいわ」

僕らが成人する前に離婚手続きはしていたが、
書類上の苗字と住所だけは母さんの実家に戻して、
暮らしは変わらないままだった。
引っ越しが難しい状況につけこんだ父さんは、
自由にふるまっている。
そんなとき、友人の累が妹と結婚することになった。
母親同士も仲が良く、
累の家の別館の管理をする名目で一緒に住む話が決まった。
父さんには秘密で書類上もきちんとして、
ついに暴力から逃げることができた。


しかし、現実は、そう、甘いものではなかった。



「おい」

ある日。
一人で歩いていると腕をつかまれた。
そのまま、懐かしい家に押し込められた。

「おい。あれは、どこにいる。
家政婦の契約を更新してやろうと思ったのに。
どうして、血縁関係が切れている!
別れても、そちらはそのままだったはずだ」

無言。無言。
僕は、その問いに答えることない。
やっと訪れた平穏を守るために。
脳裏に描くのは、楽しそうな妹と母さんたち。

「おい。おい!答えろ!」

怒鳴る声がする。
それは、僕の背を踏みながら、腕をひねり上げている。

「話せ!今まで育ててやった恩を忘れたのか!」

ふいに、頭へ衝撃が落ちてきた。
そして、横目に見える場所へゴロンと置かれたガラスの灰皿。
頭はクラクラ、
目は見えているのにチカチカと星が弾けている感覚がする。

「話すまで、ここから出さない」

ずるずると引きずられた体は、
自室だった部屋の入り口へ置かれた。
この家で良いところは、自室でない部屋へ干渉しないこと。
趣味や持ち物には口出しをされたが、
入室されたことは一度もない。
遠ざかる足音の後、ドアが閉まった音がする。

「あ…、ぐ…」

息が苦しい。
こみ上げる気持ち悪さを我慢しながら、
出る前と変わらない物の配置かを確認する。
幸い、棚の中まで同じだった。

疲れた。
妹も母さんも、大丈夫だから。
もう、いいか。

棚から出すのは、旅に必要な道具たち。
昔、用意したまま使う機会が失われたはずの物は、
グラつく頭でも手際よく用意できた。
最後に、いつものように、布団に潜り込む。
道具が首に食い込むほどに苦しく、
同時に軽くなっていく身体。

これなら、ゆっくり休めそう。


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