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竜、誘惑される
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セクテゥムの冬は雪に閉ざされる。
勿論、王宮も。
しかし政務は毎日、変わらず続けられる。季節によって多少変わるが王宮の一年は、やることはたいして変わらない。
だが今年の冬は、春の開國の準備があるために例年より忙しかった。
樹來も、顔や態度には出さないでいたが疲れていた。
セクテゥム軍の軍事関係を一挙に引き受け、改革すべき点を書類として作成し提出。それに関して上乗せされる予算の調整に重臣達の説得。
兵士は勿論だが、指導する側の爵位を持つ者達と会合を開き、開國前後にすべき事と心構え。それから訓練では、改善点と新しく加える内容の説明と講習に実務──やることが山積みだった。
将軍の地位にある甚三と副将軍。それから『軍事大臣』と言う軍・兵・警護・治安等々全般を司る頂点と言う人物──甚三の父だという甚吾と言う名の、厳めしい初老の男と四人で行うも、なかなか大変な作業だった。
まず初っぱなから
「手合わせ願いたい」
と、甚吾を筆頭に数人に試合を求められた。
青二才で竜皇帝の異父弟。その上に王女の恋人。
──竜帝國の威光を掲げて現れたとしか思えない若者。反感を買うのは当たり前だ。
手っ取り早く実力を見る方法と言えば、古今東西ガチンコ勝負と言うことなのだろう。
勝負は、刈耶王の放った言葉で決着が付いた。
「勝ち抜いた者は、王女の婚約者候補とするぞ」
瞬殺した、樹來が。
「俺より前に婚約者候補はつくらせない」
殺気をただ漏らせて放った言葉に女性達は痺れ、男性陣はびびった。
(あれは良くなかった……)
八百長になるが力加減をして傷を負いながらも、ややこちら側が優勢で勝って
『お主、やるなあ!』
とか和気あいあいで終わって、輪の中に入りたかった。
圧倒的な力の差を見せられると、人は萎縮する。下手をすると恐怖の対象になってしまう──宜しくない。
お陰で輪の中に入る機会を無くした。
(緋桜を出されるとついカッとなる)
緋桜が可愛いからいけないんだよな、すぐ自分を見失う。
「……どうしました?樹來殿」
甚三に声を掛けられて、ペンを持つ手が止まっていたことに気付いた。
「あ……申し訳ない。考え事をしていたので」
さっと顔を赤らめ、樹來は書類の山に集中した。
と言っても、朝からずっと部屋に閉じ籠り書類の山と睨めっこだ。
元々、卓上での仕事が苦手な上に人手が足りない。集中力が落ちてきてるのは、自分でも分かっていた。
その上で緋桜のことを思い出してしまったのだから、雑念が後から後からわいてくる。
緋桜も王女教育中で忙しい。
教育者がとても厳しいらしく、王宮内では四六時中後ろに付いてきて、ことどとくだめ押しするらしい。
流石に奥宮までは付いて来ないので息抜きは出来て、ようやく揃った家族一同、楽しい時間を過ごしているらしかった。
──何故、『らしい』なのか、答えは簡単。
その場に樹來はいないからだ。
緋桜には就寝前に挨拶と理由をつけて、短いが会う時間を手に入れているが、本当に短い。
そこでようやく交わされる、ちょっとした会話のみだ。
(もう大分、緋桜に触れてないな……)
つい溜息をつく。
お互いセクテゥムの住民になり日が浅い。やるべきことは沢山ある。
こうなることは予想はしていたが、結構しんどい。
心配をかけたくないし、彼女も一杯一杯だから緋桜には「大丈夫だよ」と明るく言っているが。
(緋桜が足りない、緋桜が)
──温もりがあればなあ……頑張れるんだけど……。
****
結局、夕食の後も書類に目を通さなくてはいけなくなった。
一区切りついた時刻は、いつも緋桜に就寝の挨拶する時間をとうに過ぎていた。
足早に奥宮に向かう。
「緋桜様は既に床についておりまして……」
花葉が、申し訳なさそうに告げた。
「来るまで辛抱強くお待ちしていたのですが、今日は事の他お疲れのようでした。何度も頭を下げていたので、もうお休みになるようにとお話ししてしまって……」
すいませんと頭を下げる花葉には罪はない。
「余程疲れていたのだろう? 主人の健康に気を配るのも君達の仕事だしね」
と優しくなだめるが、やはりちょっとささくれる。
空気を感じたのか、
「起こしましょうか……? 樹來様が挨拶に来たと言えば目が覚めましょう」
と恐る恐る尋ねられた。
「──いや、それには及ばないよ。また明日にしよう」
悪かったねと笑顔を見せて、樹來はその場から去った。
と言ったものの──充足が足りないと気付いた以上、身体より心が緋桜を求めてしまう。
ふと庭に視線を流せば、断続的に降っている雪は今は止んでいた。奥宮の庭は雪が積り景色が白い。
中庭に出て遊ぶ童がいないのか、足跡もつかずに綺麗なものだ。
王宮の、仕官達が集う場所は後から後から踏み均していくので雪と泥が混じる。それも雪が降ってくると、上から積もって汚れを隠していた。
雪が降っている間は外に出る者は少ないから、汚れた部分とそうでない層がはっきりしていた。
薄翅が濡れるのを酷く嫌うからだと言う。だから雪が止むまで外に出ないのだと甚三が話していた。
兵役をする者はそれだと困るので、濡れても平気な者を選ぶ。
濡れたから破ける訳でない。なかなか丈夫だし多少飛びづらくなるだけらしいが、不快に思う者が多いと言うのだ。
『昔は風呂にも入らない者も多かったですよ。身体を拭うだけで済ませてしまうんです』
風の強い日も、翅が痛むかも知れないから外に出ない。
自然、家の中で過ごす機会が多くなる──身体の弱い者が増えると言う図式が出来上がった。
翅を触らせてもらったが見た目、透き通りすぐに破けそうな印象だが、骨組みは固くしっかりしていた。それに、飛ぶ際に空気抵抗を受けても良いように弾力もある。
しかも例え破けても、その部分を綺麗に剥がせば骨組みからまた生えてくるのだと言う。
(何だ、竜の翼より良いじゃないか)
頑丈さはこちらに分はあるが、飛膜は再生しない。一度破けてしまったら縫い合わせるしかない。うまく縫わないと飛行でバランスが取れなくなってしまうのだ。
これからはセクト族全体が、意識を変えていかなくてはならないと刈耶王が話していたが、長い時間で見なくてはならない問題だろう。
まだまだ問題が山積みのこの國で、自分はずっと暮らしていけるのか不安はあった。
それでも緋桜がこの國にいるなら──ただ、それだけの思いで付いてきた。
婚約者候補と位置付けはあるが、緋桜の父である刈耶から面と向かって正式に言われたわけではない。
しかも、緋桜の両親と個人的な集まりに招待されたわけでもない。一線を引かれたままだ。
(流石にへこむな……)
過去の緋桜に対する所業も何処かで聞いて、嫌悪を抱いているのかとも勘ぐってしまう。
一日の僅かな時間の逢瀬もこのまま一日おきから二日おき、三日おきと間が空いていくのか。
緋桜はそれで構わないのか。
もしかしたら、他に気になる奴が出来たのか。
考えれば考えるほど溜め息の数が増えていく。
また一つ溜息をつくと、奥宮から自分の部屋に戻っていく。
まだ食客扱いだから、奥宮の対となって建てられた来客専用の宮を利用していた。
そこの宮もまた人が少ない。
開國に合わせて建てた宮で今の所、樹來しか利用していないから余計に寂寞せきばくとしている。
間の仕官達が住まう賑やかな宮を抜けて行くから、余計に寂れて見えてしまう。
今夜はもう遅いせいか、通路で会う者達はいなかった。
「……?」
通路の真ん中に光る物があり、樹來は屈んでそれを拾う。
簪だった。
それほど手の込んだ装飾はないが、職人が丁寧に仕上げた一品だと樹來にも分かった。
手触りが大変滑らかで、仄かな香りまでする。
使っている木材から薫るのか、残り香なのかまでは分からないでいた。
「……もし? 貴方様が手にお持ちになっているのは、簪でしょうか?」
脇から声を掛けられて、そちらに顔を向けた。
自分と同じくらいの歳か少々上か。綿入りの防寒着を羽織ったセクト族の女が立っていた。
いつもは結わいているだろう黒髪を下ろし、恥じるように手を口元に当てていた。
その口元がいやに艶かしい。
化粧っ気が無いのに、唇に紅だけ塗っているからか。
女は樹來を見ると、さっと顔を赤らめて視線だけそらす。
「貴女の簪ですか?」
樹來は、彼女が見やすいように手のひらに乗せてみせた。
ちらりと簪に視線を向ける。流し目とはこの事か、と樹來は睫毛に隠れた切れ長の瞳に鼓動が跳ねた。
「ああ、そうです! わたくしのです! 湯浴みから戻ったら無くなっていたので探しにきたのです」
「それは良かった」
嬉そうに答える女に簪を渡す。
「王宮務めに行く時、母から譲り受けた品なのです。見つかって良かった……」
女はそう言うと下ろしていた黒髪を片方に寄せ、くるりと後ろを向いた。
「?」
何をするのかと、つい釘付けになった樹來の目の前で女は、寄せた髪を上げながら捻っていく。
根本まで捻るとクルクルと巻いていき、受け取った簪を挿すとそれを軸に回転させた。
「見事ですね」
簪一本で髪が結わけてしまった。慣れていないとできない技だろう。
「慣れれば簡単ですのよ。でも、解れやすいのです──ほら、後れ毛がこんな……」
女は自分のうなじを指で擦り、出ている後れ毛を撫でて見せた。
庭に積もっている雪の白さに似た指とうなじ。そして唇にひいた紅と同じ色の爪が誘うように動く。
実際、誘っているのだろう──樹來はそう感じた。
「はあ……。簪を探して宮を歩いていたら、すっかり冷えてしまいました」
女は白い息を吐いて見せ、笑った。
「早く部屋にお戻りになって、身体を暖めた方がよろしいでしょうね」
「お酒でも飲めば温まりましょう」
女がしなをつくり、樹來に近寄る。
「ただ、この國では女が一人でお酒を嗜むのは、はしたないとされております。どうかわたくしと一献お願いできませんか?」
「──お誘いは光栄ですが、夜半に令嬢と二人で飲むのはあらぬ噂がたちましょう。日の高いうちにいずれ……」
これで引き下がってくれればと思ったが、女は引き下がらなかった。
「でしたら、わたくしの部屋で……。個室ですから」
「いえ、それはいけません。夜も遅いと言うのに令嬢の部屋にお邪魔は出来ません」
「あら、構いませんのよ、ちっとも」
女が樹來の胸に手を当て、ゆるりと身体を寄せた。
簪の薫りが、この女の付けている香水だと樹來は知った。
「皆が気付く前に起こしますから……ご心配なく……」
樹來は戸惑った。
自分が帝國からやって来た竜で、王女・緋桜の婚約者候補で恋人だと知っていて誘っているのは間違いはない。
王宮に住んでから、遠目で色見ある視線を投げてくる女はいたが、ここまで積極的なのは初めてだ。
自分にこのように堂々と誘って、後で問題になるとか考えないのか。
──とは言うものの
いつもは強引に引き離す樹來も、ここのところ自分の立ち位置に疲れを感じている。
緋桜にも会えない。
心身の充実感が足りなくてしんどい。
他人の温もりで少しは癒されたい。
何より禁欲生活も続いている。
甘えても良いだろうか?
心の闇が良いんじゃないかと囁いた気がした。
勿論、王宮も。
しかし政務は毎日、変わらず続けられる。季節によって多少変わるが王宮の一年は、やることはたいして変わらない。
だが今年の冬は、春の開國の準備があるために例年より忙しかった。
樹來も、顔や態度には出さないでいたが疲れていた。
セクテゥム軍の軍事関係を一挙に引き受け、改革すべき点を書類として作成し提出。それに関して上乗せされる予算の調整に重臣達の説得。
兵士は勿論だが、指導する側の爵位を持つ者達と会合を開き、開國前後にすべき事と心構え。それから訓練では、改善点と新しく加える内容の説明と講習に実務──やることが山積みだった。
将軍の地位にある甚三と副将軍。それから『軍事大臣』と言う軍・兵・警護・治安等々全般を司る頂点と言う人物──甚三の父だという甚吾と言う名の、厳めしい初老の男と四人で行うも、なかなか大変な作業だった。
まず初っぱなから
「手合わせ願いたい」
と、甚吾を筆頭に数人に試合を求められた。
青二才で竜皇帝の異父弟。その上に王女の恋人。
──竜帝國の威光を掲げて現れたとしか思えない若者。反感を買うのは当たり前だ。
手っ取り早く実力を見る方法と言えば、古今東西ガチンコ勝負と言うことなのだろう。
勝負は、刈耶王の放った言葉で決着が付いた。
「勝ち抜いた者は、王女の婚約者候補とするぞ」
瞬殺した、樹來が。
「俺より前に婚約者候補はつくらせない」
殺気をただ漏らせて放った言葉に女性達は痺れ、男性陣はびびった。
(あれは良くなかった……)
八百長になるが力加減をして傷を負いながらも、ややこちら側が優勢で勝って
『お主、やるなあ!』
とか和気あいあいで終わって、輪の中に入りたかった。
圧倒的な力の差を見せられると、人は萎縮する。下手をすると恐怖の対象になってしまう──宜しくない。
お陰で輪の中に入る機会を無くした。
(緋桜を出されるとついカッとなる)
緋桜が可愛いからいけないんだよな、すぐ自分を見失う。
「……どうしました?樹來殿」
甚三に声を掛けられて、ペンを持つ手が止まっていたことに気付いた。
「あ……申し訳ない。考え事をしていたので」
さっと顔を赤らめ、樹來は書類の山に集中した。
と言っても、朝からずっと部屋に閉じ籠り書類の山と睨めっこだ。
元々、卓上での仕事が苦手な上に人手が足りない。集中力が落ちてきてるのは、自分でも分かっていた。
その上で緋桜のことを思い出してしまったのだから、雑念が後から後からわいてくる。
緋桜も王女教育中で忙しい。
教育者がとても厳しいらしく、王宮内では四六時中後ろに付いてきて、ことどとくだめ押しするらしい。
流石に奥宮までは付いて来ないので息抜きは出来て、ようやく揃った家族一同、楽しい時間を過ごしているらしかった。
──何故、『らしい』なのか、答えは簡単。
その場に樹來はいないからだ。
緋桜には就寝前に挨拶と理由をつけて、短いが会う時間を手に入れているが、本当に短い。
そこでようやく交わされる、ちょっとした会話のみだ。
(もう大分、緋桜に触れてないな……)
つい溜息をつく。
お互いセクテゥムの住民になり日が浅い。やるべきことは沢山ある。
こうなることは予想はしていたが、結構しんどい。
心配をかけたくないし、彼女も一杯一杯だから緋桜には「大丈夫だよ」と明るく言っているが。
(緋桜が足りない、緋桜が)
──温もりがあればなあ……頑張れるんだけど……。
****
結局、夕食の後も書類に目を通さなくてはいけなくなった。
一区切りついた時刻は、いつも緋桜に就寝の挨拶する時間をとうに過ぎていた。
足早に奥宮に向かう。
「緋桜様は既に床についておりまして……」
花葉が、申し訳なさそうに告げた。
「来るまで辛抱強くお待ちしていたのですが、今日は事の他お疲れのようでした。何度も頭を下げていたので、もうお休みになるようにとお話ししてしまって……」
すいませんと頭を下げる花葉には罪はない。
「余程疲れていたのだろう? 主人の健康に気を配るのも君達の仕事だしね」
と優しくなだめるが、やはりちょっとささくれる。
空気を感じたのか、
「起こしましょうか……? 樹來様が挨拶に来たと言えば目が覚めましょう」
と恐る恐る尋ねられた。
「──いや、それには及ばないよ。また明日にしよう」
悪かったねと笑顔を見せて、樹來はその場から去った。
と言ったものの──充足が足りないと気付いた以上、身体より心が緋桜を求めてしまう。
ふと庭に視線を流せば、断続的に降っている雪は今は止んでいた。奥宮の庭は雪が積り景色が白い。
中庭に出て遊ぶ童がいないのか、足跡もつかずに綺麗なものだ。
王宮の、仕官達が集う場所は後から後から踏み均していくので雪と泥が混じる。それも雪が降ってくると、上から積もって汚れを隠していた。
雪が降っている間は外に出る者は少ないから、汚れた部分とそうでない層がはっきりしていた。
薄翅が濡れるのを酷く嫌うからだと言う。だから雪が止むまで外に出ないのだと甚三が話していた。
兵役をする者はそれだと困るので、濡れても平気な者を選ぶ。
濡れたから破ける訳でない。なかなか丈夫だし多少飛びづらくなるだけらしいが、不快に思う者が多いと言うのだ。
『昔は風呂にも入らない者も多かったですよ。身体を拭うだけで済ませてしまうんです』
風の強い日も、翅が痛むかも知れないから外に出ない。
自然、家の中で過ごす機会が多くなる──身体の弱い者が増えると言う図式が出来上がった。
翅を触らせてもらったが見た目、透き通りすぐに破けそうな印象だが、骨組みは固くしっかりしていた。それに、飛ぶ際に空気抵抗を受けても良いように弾力もある。
しかも例え破けても、その部分を綺麗に剥がせば骨組みからまた生えてくるのだと言う。
(何だ、竜の翼より良いじゃないか)
頑丈さはこちらに分はあるが、飛膜は再生しない。一度破けてしまったら縫い合わせるしかない。うまく縫わないと飛行でバランスが取れなくなってしまうのだ。
これからはセクト族全体が、意識を変えていかなくてはならないと刈耶王が話していたが、長い時間で見なくてはならない問題だろう。
まだまだ問題が山積みのこの國で、自分はずっと暮らしていけるのか不安はあった。
それでも緋桜がこの國にいるなら──ただ、それだけの思いで付いてきた。
婚約者候補と位置付けはあるが、緋桜の父である刈耶から面と向かって正式に言われたわけではない。
しかも、緋桜の両親と個人的な集まりに招待されたわけでもない。一線を引かれたままだ。
(流石にへこむな……)
過去の緋桜に対する所業も何処かで聞いて、嫌悪を抱いているのかとも勘ぐってしまう。
一日の僅かな時間の逢瀬もこのまま一日おきから二日おき、三日おきと間が空いていくのか。
緋桜はそれで構わないのか。
もしかしたら、他に気になる奴が出来たのか。
考えれば考えるほど溜め息の数が増えていく。
また一つ溜息をつくと、奥宮から自分の部屋に戻っていく。
まだ食客扱いだから、奥宮の対となって建てられた来客専用の宮を利用していた。
そこの宮もまた人が少ない。
開國に合わせて建てた宮で今の所、樹來しか利用していないから余計に寂寞せきばくとしている。
間の仕官達が住まう賑やかな宮を抜けて行くから、余計に寂れて見えてしまう。
今夜はもう遅いせいか、通路で会う者達はいなかった。
「……?」
通路の真ん中に光る物があり、樹來は屈んでそれを拾う。
簪だった。
それほど手の込んだ装飾はないが、職人が丁寧に仕上げた一品だと樹來にも分かった。
手触りが大変滑らかで、仄かな香りまでする。
使っている木材から薫るのか、残り香なのかまでは分からないでいた。
「……もし? 貴方様が手にお持ちになっているのは、簪でしょうか?」
脇から声を掛けられて、そちらに顔を向けた。
自分と同じくらいの歳か少々上か。綿入りの防寒着を羽織ったセクト族の女が立っていた。
いつもは結わいているだろう黒髪を下ろし、恥じるように手を口元に当てていた。
その口元がいやに艶かしい。
化粧っ気が無いのに、唇に紅だけ塗っているからか。
女は樹來を見ると、さっと顔を赤らめて視線だけそらす。
「貴女の簪ですか?」
樹來は、彼女が見やすいように手のひらに乗せてみせた。
ちらりと簪に視線を向ける。流し目とはこの事か、と樹來は睫毛に隠れた切れ長の瞳に鼓動が跳ねた。
「ああ、そうです! わたくしのです! 湯浴みから戻ったら無くなっていたので探しにきたのです」
「それは良かった」
嬉そうに答える女に簪を渡す。
「王宮務めに行く時、母から譲り受けた品なのです。見つかって良かった……」
女はそう言うと下ろしていた黒髪を片方に寄せ、くるりと後ろを向いた。
「?」
何をするのかと、つい釘付けになった樹來の目の前で女は、寄せた髪を上げながら捻っていく。
根本まで捻るとクルクルと巻いていき、受け取った簪を挿すとそれを軸に回転させた。
「見事ですね」
簪一本で髪が結わけてしまった。慣れていないとできない技だろう。
「慣れれば簡単ですのよ。でも、解れやすいのです──ほら、後れ毛がこんな……」
女は自分のうなじを指で擦り、出ている後れ毛を撫でて見せた。
庭に積もっている雪の白さに似た指とうなじ。そして唇にひいた紅と同じ色の爪が誘うように動く。
実際、誘っているのだろう──樹來はそう感じた。
「はあ……。簪を探して宮を歩いていたら、すっかり冷えてしまいました」
女は白い息を吐いて見せ、笑った。
「早く部屋にお戻りになって、身体を暖めた方がよろしいでしょうね」
「お酒でも飲めば温まりましょう」
女がしなをつくり、樹來に近寄る。
「ただ、この國では女が一人でお酒を嗜むのは、はしたないとされております。どうかわたくしと一献お願いできませんか?」
「──お誘いは光栄ですが、夜半に令嬢と二人で飲むのはあらぬ噂がたちましょう。日の高いうちにいずれ……」
これで引き下がってくれればと思ったが、女は引き下がらなかった。
「でしたら、わたくしの部屋で……。個室ですから」
「いえ、それはいけません。夜も遅いと言うのに令嬢の部屋にお邪魔は出来ません」
「あら、構いませんのよ、ちっとも」
女が樹來の胸に手を当て、ゆるりと身体を寄せた。
簪の薫りが、この女の付けている香水だと樹來は知った。
「皆が気付く前に起こしますから……ご心配なく……」
樹來は戸惑った。
自分が帝國からやって来た竜で、王女・緋桜の婚約者候補で恋人だと知っていて誘っているのは間違いはない。
王宮に住んでから、遠目で色見ある視線を投げてくる女はいたが、ここまで積極的なのは初めてだ。
自分にこのように堂々と誘って、後で問題になるとか考えないのか。
──とは言うものの
いつもは強引に引き離す樹來も、ここのところ自分の立ち位置に疲れを感じている。
緋桜にも会えない。
心身の充実感が足りなくてしんどい。
他人の温もりで少しは癒されたい。
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甘えても良いだろうか?
心の闇が良いんじゃないかと囁いた気がした。
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