左遷も悪くない

霧島まるは

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1巻

1-2

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 低く力強く、しかし淡々とした声の人だと、レーアは最初に思った。結婚式当日の、神殿の中でのことだ。神官の前にローブ姿で立つ新郎新婦は、自分の名と結婚の確認を己の口で言わねばならない。

「ウリセス=アロ、この結婚を承諾する」
「……ヴァレーリア=コンテ……結婚を承諾します」

 彼のよく通る声と比べて、自分の声がとても頼りなく感じた。
 力強いのは、声だけではなかった。式を済ませ、神殿を出る時には、手をつながなければならない。ウリセスはぐいぐいと、彼女の手を引いて歩いた。歩く速さこそ、彼女に合わせてくれているが、少しもぼんやり出来なかった。おかげでレーアは、つないだ手とローブの下に、すっかり汗をかいてしまったのだ。
 彼の家に着いてからも、ウリセスのペースだった。初めての場所で、どうしたらいいか分からない彼女に、ローブを脱ぐように言い、次に食事をするように言う。
 物事を計画的に考える知性と、合理的な行動を良しとしている信条が、彼の放つ言葉から垣間見えた。
 食卓で彼の一日の予定を聞かされ、レーアはそれを一生懸命頭の中で繰り返した。そうしなければ、不慣れな内は間違えてしまいそうだったのだ。
 虚空を見上げ、彼の言葉を思い出そうとしている彼女が何をしているのかもウリセスにはお見通しのようで、「間違いなく記憶するには、声に出して復唱するのが効果的だ」と、軍隊式らしい方法を提案する。
 おかげでレーアは、まず食べかけのパンを呑み込んで水で口の中を整え、それからもう一度、彼女の夫の一日の行動を声に出さなければならなかった。復唱し終わると、ウリセスは小さく頷いた。どうやら、間違っていなかったようだ。

「家のことは全て任せる。いままでは、家政婦を雇っていた。俺は、家の中のことは何も出来ん」

 大丈夫か、と確認される。

「は、はい」

 こくこくと頷く。最初から、そのつもりで嫁いできたのだ。しかし、こうやって改めて言葉にされると、どきどきしてしまう。ウリセスという男の期待に、応えられるだろうか、と。
 非常に、理想の高い男のように思えた。彼に比べれば、レーアは愚鈍と非合理の塊にすぎない。そんなウリセスの要求に、自分が応えきれないと分かった時、彼は一体どんな態度を取るのか――それが分からないのだ。さげすまれるのか罵倒されるのか、はたまたため息をつかれるのか、呆れられるのか。
 レーアは、出来る限り一生懸命頑張りますとしか言えなかった。当たり前だが、戦場とは無縁の女である。たとえ、彼女が家事で少し失敗したところで、人が死ぬ可能性は限りなく低い。しかし、多くの命を預かってきた彼は、そんな甘ったれた考えで生きているはずがない。
 一生懸命頑張ります、では駄目だと、レーアはこの時強く覚悟した。彼が満足する結果を出そう、と。強い男の妻が、ぼんやりしていられるはずがない。彼女もまた、夫のために強い妻にならなければならないのだ。

「……メシは終わったのか?」

 そんな彼女の覚悟を知ることもなく、ウリセスは濃い茶色の瞳を彼女にまっすぐ向ける。祝いのケーキとパンを少し食べ、果実のジュースを飲んだだけだが、もはや今日の彼女は精神的な許容量が一杯で、これ以上食べられそうになかった。「はい」と頷くと、ウリセスは食卓を立ち上がった。

「片付けは、明日でいい。少し早いが、寝室に行く」

 まだ座ったままのレーアは、彼が何を言っているのかすぐには分からなかった。思わず、「私もですか?」と聞き返しそうになって、慌てて口をつぐんだ。
 新郎と新婦が、明日の朝まで一歩も家を出てはならないのは、「そういうこと」なのだと、母に教えられていたではないか。
「とにかく、ウリセスさんに全てお任せしておけばいいのよ。嫌がったりしないようにね」と、彼女の母はそう締めくくっていた。
 はいという自分の声が掠れてしまい、顔が熱くてしょうがないことに気づく。何とか立ち上がったが、緊張のあまり足が震えてしまう。足どころか、手も震えていた。

「……俺が怖いか?」

 そんな彼女の態度に、ウリセスが目つきの悪い目元を更に険しく歪めた。それだけは違うと言いたいのに、口がうまく動かせず、ただレーアは首をぶんぶんと横に振った。あまりに勢い良く振ってしまったせいで、眩暈めまいともよろけともつかない事態が発生し、食卓に手をついて自分を支えなければならなかった。

「……大丈夫か?」

 視界を整えようとして、気づいたら声が真横にあった。びっくりして顔を上げると、いつの間にかウリセスがすぐ側にいて、その手を伸ばしていた。彼の手は、レーアを人形のように簡単に支えてまっすぐ立たせてくれる。
 ああ、そうだった。
 そこで彼女は、記憶の中にいるウリセス=アロという男を引っぱり出した。足手まといの彼女の父を背負って歩いた強い男。
 彼は、戦場で華々しい戦果をあげることだけを良しとする猪武者いのししむしゃではない。人を助ける道を知っている男である。それが彼の心の「強さ」であり、その心を現実に出来るのが、彼の身体の「強さ」なのだ。

「だ、大丈夫です」

 そんな彼に比べれば、自分の身体は間違いなくひ弱だと、レーアは痛いほど感じた。

「もっと食った方がいい」

 ウリセスは眉をひそめるように言った。やせた女は、好みではないのだろう。

「は、はい。明日からしっかり食べます」

 今日は特別なのだ。レーアとて、いつもは頭を振ったくらいでよろけることなどない。憧れの男との結婚式があり、朝から支度と緊張でほとんど何も食べていない中、手をつないでこの家まで歩いたせいだ。
 そんな彼女をウリセスは少し疑わしい目で見た後、「歩けるか? 抱えていくか?」と問いかけた。

「歩きます」

 大丈夫ですと、レーアは強い意志で頷いて答えた。
「そうか」と、ウリセスは言葉を返したが、彼女の手だけは握ったまま、二階の階段へと向かったのだった。



 3 寝過ごした女


 結論から言えば、レーアは翌朝五時に起きることが出来なかった。
 新婚初日から、見事に寝過ごしてしまったのである。ハッと飛び起きた時には、階下の柱時計が、七回鐘を鳴らしていた。広い寝台には、当然のごとく彼女一人だけだ。
 何の衣服も身に着けていない、夫以外の誰にも見せられない姿で、レーアは一人真っ青になる。落ち着かない目で周囲を探すと、彼女の服は寝台脇の椅子にかけてあった。そんなことをした記憶は彼女にはないので、ウリセスがそうしたのだろう。そしておそらく間違いなく、隠されてはいるが、そこに彼女の下穿したばきもあるはずだ。そんなものを夫に片付けさせたのである。
 恥ずかしさに死にたい気持ちで、これからどうすればいいのか考えがまるでまとまらず、彼女は掛布で胸元を押さえたまま、混乱の沼の中であがいていた。

「ああ、起きたか」

 そんな時に、ウリセスがノックもなしに扉を開けて部屋に戻ってくるものだから、更にレーアの血の気が引く。勿論、彼の寝室でもあるのだから、ノックなどいるはずもなかった。だがそれは、レーアの小さな心の臓を、口から飛び出させるほどの威力があった。
 シャツ姿の彼は、手に練習用らしい木刀を持っていた。既に鍛錬を終えたようで、その肌には軽い汗が見て取れた。昨日復唱した予定通りなら、これからウリセスは朝食を取ることになる。あと一時間で、仕事が始まるのだから。ここまでのところ、彼女は見事に役立たずだった。

「も、も、もももももも」

 たった一言、「申し訳ありません」が、どうしてすぐに出ないのか。そして、どうして身体が動かないのか、レーアははがゆい思いを味わった。

「ああ、いい。昨日のメシが残っているから、それを食って仕事に行く」

 彼女の馬鹿馬鹿しい状態を気にする様子もなく、ウリセスはさっさと着替え始める。彼用のクローゼットから軍服を引っ張り出す、がっちりとした背中を見ながら、彼女は夫の期待に、最初から応えられなかった自分を恥ずかしく思った。
 とにかく、こんなところでグズグズしているわけにはいかない。既にしくじったことは、取り返しがつかない。これからの行動で挽回する以外、もはやレーアには何の手立てもないのである。ちょうど、ウリセスが背中を向けていてくれるのだ。こんな姿でも動き出せる、数少ない機会だった。
 しかし、掛布で身体を隠したまま寝台の端ににじり寄ろうとした彼女は、足と腰と、非常に口に出しにくい場所の痛みで、バランスを大きく崩した。

「ぁ……!」

 何とかとっさに片足を床に下ろしたので、無様に転げ落ちることはなかったが、大きく前につんのめって止まる。落ちかけたことによる驚きで生まれた心の乱れを、彼女はしばらく固まったままやり過ごそうとした。

「……」

 しかし、レーアは視線を感じて血の気が引いた。そぉぉぉぉっと首だけを回して、クローゼットの方を見ると、ウリセスもまた白いシャツの胸元のボタンを留めかけたまま止まってこちらを見ている。
 ひどい体勢になってしまったため、彼女の身体を隠していた掛布は、おなかのあたりにひっかかっているに過ぎない。薄い胸元も細い脚も、何も隠されていなかった。

「あっ……!」

 羞恥しゅうちに振り回され、レーアは思わず不安定な体勢のまま、両手で掛布を引き上げようとしてしまった。だが、かろうじて尻の端が寝台にのっかっていただけの彼女の身体が、そんな恥じらいを許してくれるはずがない。尻から無様に落ちて、床にへたりこむ羽目になるだけだった。
 ああもう泣きたい。このまま消えてしまいたい。
 恥ずかしいなんて言葉では済まされない情けなさが、レーアを包み込む。お尻も痛いが、心の痛みはそれ以上だった。掛布のほとんどは寝台から垂れ下がった状態で落ち、彼女の横に寄り添ってくれるだけ。とてもレーアの心の痛みを、癒してくれそうになかった。

「深呼吸をしろ」

 シャツのボタンを留め終わったウリセスが、ズボンの中に裾を突っ込みながら近づいてくる。彼女の裸ごときには何の動揺も見せないその姿に、逆に「そんなものなのか」と、レーアは少し冷静になれた。こんなやせた女の身体には、さして興味もないのだろうと彼女は思った。
 横に落ちた掛布を半端に握ったまま、レーアは大きく息を吸う。それを吐き出す頃には、夫は袖口のボタンを留めながら、目の前に立っていた。

「立てるか?」

 ボタンの留まった、その手を差し出される。

「だ、大丈夫です」

 既に無様の限りを尽くしているのだが、自力で立ち上がるくらいはしなければ、もはや立つ瀬がない。すぐ後ろにあるベッドの端に手をかけて、レーアは自分の身体を立てた。彼女に優しくない掛布を引っ張り上げ、出来るだけ身体を隠そうと無駄な努力を試みる。

「な、情けない姿をお見せして、申し訳ありません。いまから、きちんと致します」

 もはや取り返しがつかないほど呆れられていたとしても、明日からなんて悠長なことを、彼に言えるはずがない。借金が百万ダリあるのと、十万ダリあるのとでは大違いだ。借金をするとしても、なるべく小さくする努力をしなければ、この家に彼女の居場所はなくなってしまうだろう。

「あ、ああ……まあ今日はいい。昨夜は、無理をさせたしな。俺は女のことはよく分からんが、血の匂いがしたから痛かっただろう」

 血の匂い――そんな動物的なことを言われて、再び彼女を羞恥が包む。確かに痛かった。更に、ウリセスという男は非常に体力があり、それと同様の精力もあった。「もう一回だ」と言う言葉を三度聞いた辺りで、レーアの意識はあやふやに途切れていた。

「とりあえず、ちゃんとメシを食え」

 結局、彼女の体力が少ないという結論に落ち着いたのだろう。ウリセスは、そう締めくくってから椅子にかけられていたレーアの服を全て抱えると、頼りない彼女の胸へと押し付けた。掛布から手を離しても、それがレーアの細い身体を隠してくれる。

「俺がいると着替えにくいだろう。先に下に行っている」

 そう言ってウリセスは、軍服の上着とベルトを引っつかみ、大きな足取りで寝室を出て行った。気がつけば、レーアは寝室に一人になっていた。
 はぁぁぁぁ。
 遠ざかる足音に、彼女を長く痛めつけた緊張と羞恥の糸が途切れ、レーアはへなへなとベッドの端へと座り込んだ。しかし、その心に多くの安堵があるわけではない。どちらかというと、不安だらけだった。
 初日からこんな有様で、自分は本当にちゃんとやっていけるのだろうか、と。


 着替えを済ませ、髪を整えてから急いで食堂へと向かうと、テーブルの上は昨日のままだった。
 ウリセスは、残りもののジュースの瓶を傾けて、新しいグラスに注いでいた。パンが減っているので、もう朝食は済ませたのかもしれない。

「今朝は……見苦しいところをお見せして、申し訳ありません」

 どんなに体裁を整えたとしても、もはや彼には何の意味もないだろう。それでも、知らん顔をしていることも出来ずに、レーアは首まで赤くしながら自分の夫に詫びた。
 窓から朝日の差し込む朝の明るい食堂は、レーアの羞恥を何ひとつ隠してはくれない。彼女をちらと見たウリセスは、大きく反応するわけではなく、自分の向かいの席を指すだけだ。

「いいからメシを食え。もう少し、肉をつけろ」

 何もかもを見られた男に肉をつけろと言われるのに、レーアは物凄い威力を感じた。いまの彼女の身体が、貧相だと言われているも同然なのだ。恥ずかしさを消せないまま、彼女はうつむいて席につく。何の言葉も見つけられないまま、もそもそと朝食をとっていると「そろそろ行く」と、向かいのウリセスが立ち上がった。

「お、お見送りします!」

 慌てて立ち上がり、レーアは彼の後を追う。見送りくらいちゃんとしなければと思った彼女に、歩き出したウリセスは肩越しに振り返って、何か言いたげな顔をしたが、そのまま前を向いた。そのしっかりした背中を追いかけていると、玄関まですぐにたどり着く。
 外につながる両開きの扉の片方を彼が押し開けると、朝日が柔らかく玄関先を照らす。一歩踏み出してそんな光に包まれたウリセスは、ちらとだけレーアに視線を向けた。

「行ってくる。玄関の鍵は閉めておけ」
「はい、行ってらっしゃいませ」

 ぎこちなく微笑むことしか出来ないレーアを、少し心配そうに見た気がしたのは――きっと、これまでの彼女の至らなさが原因なのだろう。



 4 荒野を駆け抜けた男


 男として正直に言わせてもらえば――悪くはない。
 それが、ウリセスの結婚に関する感想だった。
 女というものにさして関心のなかった彼は、たった一晩の間だけでも、男との扱いの違いにいろいろと戸惑うこととなった。ただ、何事にも彼に比べてゆっくりな新妻レーアだったが、不思議なことに彼をイラつかせなかった。おそらく、まったく自分とは違う生物だと、本能的にウリセスが察知していたおかげだろう。彼が獣を食らう肉食獣ならば、彼女はどう見ても草をむ草食獣なのだから。シカに肉食になれというのは、彼でさえお門違かどちがいだと分かる。
 また、都の実家に住んでいる彼の妹と比較すれば、レーアは非常に「まとも」に見えた。身近な女に問題があったため、女性全般への基準が下がっていたのかもしれない。
 それはそれでいいのだが、彼と違うからこそ、心配になる部分もある。軽すぎるし細すぎるしで、そう遠くない先に彼女を壊してしまいそうな気がするのだ。
 実際、昨夜もそうだった。彼女が新枕にいまくらで糸が切れたように気を失った時は、さすがの彼も驚いて、呼吸の有無を確認してしまったほどだ。幸いにして、妻の呼吸は途切れてはいなかったが。とにかく、初日からこんなことで本当に大丈夫かという心配は、確実に生まれていた。
 誤解のないように言えば、彼は別に女なしで生きていけない性質でも体質でもない。友人や上官に、都でいくらかの悪い遊びを覚えさせられたものの、一時の快楽にはさして執着していなかった。彼は、目もくらむような短い快楽の後、荒野に放り出される空しさが、正直好きではなかった。それよりも、剣技を磨いて、見事な技量の相手と激しい鍔迫つばぜり合いをしていた方が、よほど長く高揚出来ることを知っていたのだ。
 そんな彼は、羞恥に小さく震える女を抱いたことはなかった。そして川を流される木切れのごとき頼りない女にしがみつかれ、痛い思いをさせているウリセスに対し、それでも頼れるのは自分だけしかいないのだと体現されるのは、何ひとつ悪い気はしなかった。
 戦場にいたせいで、微かな血の匂いにも敏感なウリセスは、彼女の身の内からそれを嗅ぎ取った時、彼の中の獣が爛々らんらんと目を輝かせたのを知った。夫婦としての義務をこなすだけのはずが、気がつけば彼は、空しい荒野を駆け抜け、幾度もレーアをむさぼっていた。
 朝五時。定刻通りに目を覚ましたウリセスは、隣の女が死んだようにピクリともせずにまだ眠っているのを見て、吐息を落とした。自分が結婚したという事実と、隣の女に昨夜してしまった仕打ちの両方が、そこにあったからだ。
 眠る彼女の額に絡む前髪を、無骨な指先でそっと払ってやるが、身じろぎもしない。余程疲れているのだろう。
 ベッドの下に散らばっている衣服を、暗い中でより分けたりしたのも、生まれて初めてだった。鼻のよく利く彼は、自分の服や、何より自分自身に、レーアの匂いがついているのを感じる。
 食い扶持ぶちが一人増えるだけで、昨日とさして変わらない日々があるのだと、どこか思っていた男は――それが間違いであることを知った。
 彼女をそのままに、ウリセスは部屋を出て奥庭で木刀を振るう。奥庭は、家に住む者の生活のための庭だ。周囲を高い塀で囲まれていて、外から気楽に覗かれることはないそこには、釣瓶つるべ式の井戸や物干し場がある。塀の隅には、内鍵のついた鉄の扉がひとつ。もしもの時の脱出用なのだろうが、この平和な町では使う必要もなかったらしく、いまでは錆付いている。
 そんな誰の目も届かない早朝の奥庭で、ウリセスは架空の敵を脳裏に浮かべながら、実戦の流れを繰り返していた。左遷されてからこっち、なかなか対等以上に訓練し合える相手もおらず、彼は自分の内側にくすぶりがあるのを感じていた。そのくすぶりの一部が、昨夜レーアに対して飛び出してしまったのだろう。
 雑念を木刀で振り払い、彼は鍛錬に打ち込む。そうして心を平穏に戻してから、仕事に行く準備のために寝室に戻った。そんな彼を待ち受けていたのは、慌てふためく妻の、あられもない惨状だった。おかげでウリセスの精神風景は、再び穏やかとは言いがたいものに変わってしまう。
 そそっかしいのか、恥ずかしいのか、緊張しているのか。はたまた、その全部なのか。レーアは、浅い池であることに気づかずに、ジタバタと溺れている者のようにも見える。従軍一期目の新人兵士などに、時折こういう性質の人間がいる。頑張ろうと肩に力を入れすぎて、空回りしてしまうのだ。

「深呼吸をしろ」

 落ち着いて周囲を見回せ。ここに敵はおらん。
 ここは軍の訓練所ではなく、ましてやレーアは軍人ではない。しかし、それ以外の人の扱いをよく知らないウリセスは、同じ方式を取るしか手段がなかった。
 豊かではないが、昨夜彼が愛した素肌の胸が小さく隆起した後、長い息が吐き出される。それでようやく、彼女の頬に赤みが戻った。少しは落ち着いたようだ。
 目の毒だな。
 彼女から、一切目をそらすこともないまま、ウリセスはそんなことを思っていた。


 日によって書類仕事が少ないのは、彼にとっては助かることだ。その分、兵士を鍛え上げる時間を取ることが出来るからである。
 辺境の、しかも近隣に不安要素の少ない地域では、軍人は平和ボケして見事になまっていく。そんな状態で突然何か起きたら、うまく動けないどころか、死ななくていい人間まで死んでしまうことになる。だから、ウリセスは兵士の鍛錬で力を抜くことはなかった。よく休み、死ぬほど鍛えろ――それが、彼の鍛錬方針である。

「誰だよ、連隊長は昨日結婚式だったから、今日は休みなんてホラ吹いた奴は」

 訓練場で、誰かを責める兵士の小さなぼやきさえ、集中している彼の耳に届いてはいるが、いちいち反応はしない。彼は、別に兵士に好かれようとは思っていなかった。自分を嫌おうが憎もうが、作戦を確実に遂行出来る能力と、己自身と弱い者を守る力を持ってさえいれば、それでいいと考えていた。

「次、来い!」

 だから、ウリセスは鍛錬の鬼となる。だから、ウリセスのシャツは、毎日汗と埃でまみれることになるのだ。


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