春風

福福夢狸

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春風〜第一章【偶然の再会】

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 それは、偶然の再会だった――。


 いつもと同じ陽が落ちた後の、少し遅めの仕事帰り。
 いつもと変わらない駅前の喧騒。
 だが、今日はどこかいつもと違っていた。
 聞こえて来たのは、誰かの大きな声。

 それは、喧騒の中でも分かる不機嫌そうな声だった――

「だーかーら、仕方ないでしょう、仕事で遅くなっちゃったんだから!」

 雑踏の中、女性がスマホを耳に当てて、不機嫌そうな口調で、声を張り上げながら、前から歩いてくる。
 
「私だって、好きでこんな時間まで仕事してるわけじゃ……もういいって……ちょっと!?」

 俺とすれ違う直前、電話が途中で切れたのか、女性は握りしめたスマホの画面を見ながら、不機嫌そうな顔をしていた。

 ふと、すれ違う前に何気なく見た彼女の顔に見覚えがある気がして、自然と足が止まる。

 
 まさか――振り返り、先ほどの女性の姿を確認する。


 風にふわりとやわらかく揺れる、 淡い珊瑚色の長い髪。
 肩にかけた小さなトートバッグ。小ぶりなヒールのパンプス。
 白色のブラウスに、薄手のベージュのカーディガンを羽織り、膝丈のネイビーのフレアスカートが歩みに合わせてひらひらと揺れていた。
 
 歩き慣れた街のはずなのに、胸の奥が、ざわつく。
 
 見間違えるはずがない。
 その服装は大人びていたけれど、周囲の人と比べてもひときわ柔らかく、優しげな空気をまとう。あの頃と同じ、『沙月らしさ』がそこにあった。
 
 呼吸が、すうっと浅くなり、思わず声をかける。

「……沙月?」

 その名を呼んだ瞬間、彼女がゆっくりと振り返り、驚いたように目を丸くする。
 
「やっぱり、早川沙月……だよな?」
「えっ……直哉……くん?」
 
 俺の名前を呼ばれただけで、胸の奥に溜まっていた何かが、じわりと溶けていくのがわかった。

「うそ……ほんとに直哉くんだ!  いつ以来……!?」
「うん……高校三年の時以来……だから、五、六年くらいかな」
「びっくりした。全然変わってないじゃん」
「沙月も……変わら……いや、少し大人っぽくなった……かも」
「そう? ふふ、ありがと。直哉くんは、仕事帰り?」

 大人になって変わったと思っていたけれど、沙月の見せる笑顔は思い出の中と変わらず、あの時と同じだった。
 
「うん。さっき終わったところ……沙月も?」
「私も、少し残業で長引いちゃって……」

 他愛のない言葉が妙に懐かしい。
 せっかく会えたんだ……このまま、さよならは、したくない。
 久しぶりに沙月に会えた喜びからか――
 気づけば、何も考えずに言葉が出ていた。

「……なぁ、もし時間あるなら、少しだけ……話さないか?」

 一瞬だけ目を泳がせたあと、彼女はふわっと微笑んで――

「うん、いいよ……少しだけ、なら」

 その笑顔に、救われたような気がした。

 そして僕らは、歩き出す。
 
 あの日以来、俺の中で止まってしまった時間が静かに動き出した気がした。




 駅前の喧騒から少し外れた路地に、雰囲気のよさそうな居酒屋を見つけ、俺達はそこに入る事を決めた。
 静かな個室に案内されると、俺と沙月は向かい合って席についた。

 メニューを軽く見ながら、少しだけ目が合って、沙月がふわりと笑う。

「……じゃあ、せっかくだし、乾杯しよっか?」
「うん。再会に、乾杯」

 カシャン、とグラスの鳴る音が、妙に心地よく響いた。

 グラスを口に運ぶ。少しだけ、喉が渇いていたことに気づく。
 沙月も一口飲んでから、なんとなく目を伏せたまま笑った。

「それにしても、びっくりした。直哉くんも上京してたなんて……いつからこっちに来てたの?」
「……就職してからだから、一年くらい前からかな」
「そうなんだ。少しはこっちの生活にも慣れた?」
「少しはね。まだ、大きな駅とか人が多い所は、苦手だけど」
「建物はごちゃごちゃしてるし、人の多さも全然違くって、最初は戸惑うよね~」
「沙月は……引っ越してから、ずっとこっちに?」
「うん……そういえば、私も最初の内は驚いて、目が回っちゃってたなー。 ふふ、なんだか懐かしい…………まぁ、直哉くんもそのうち、慣れてくると思うよ?」
「……だと良いな」
 
 軽く笑い合って、ほんの少し、緊張がほぐれる。

 けれど、それでもどこか、ぎこちなさが残っていた。  
 懐かしいけど、距離の取り方を忘れてしまったような、不思議な感覚。

「それにしても、ホント……こんな偶然ってあるんだね~。こんなに広くて、人も多いのに、昔の恋び……知り合いに、会えるなんてさ。高校の時以来でしょ? なんか、不思議だな。こうやってまた、直哉くんと話せるの」
「俺も……まさか再会するとは思わなかったよ。駅で声かけるの、ちょっと勇気いったし」
「そうなの?」
「間違ってたら、超恥ずかしいんじゃん……」
「まぁ私も最初、知らない人に声かけられたーと思って、内心、身構えちゃってたから……声かけてきたのが直哉くんで良かったよ」
 
 そう言うと沙月は、グラスを口に運び、クスクスと笑う。
 沙月の言う通り、こんな広い街で偶然出会えた奇跡と、沙月が俺の事を覚えていてくれていた事に嬉しいと思う気持ちが溢れる。

 その後も、お互いの近況や他愛ない話を話していく。
 そうしている内に、少しずつ表情が緩んでいくのが分かった。
 最初はどこか遠慮がちだった言葉も、だんだんと、昔みたいな自然な口調に戻っていく。

「……でもね、なんか今日、すごく楽しい。久しぶりに、誰かとちゃんと話せた気がする」

 沙月が、照れくさそうに笑ってそう言った。

「……俺も。なんか、その……昔に……戻ったようなこの感じ。高校の帰り道とか、思い出した」
「ふふ、懐かしいね……あの頃、よくベンチでお喋りしてたよね」
「コンビニとかで、コーヒーと沙月が好きだったチョコパン、よく買って食べてたよな」
「うん……覚えてるんだ」
「まぁ……なんとなく」

 またこんな風に沙月と話せる日が来るなんて――
 くだらない話でも、こうして話せていることが、たまらなく、嬉しかった。
 
 ニヤけそうになる表情と気持ちを隠す為に、俺もさらに一口グラスのお酒を飲む。


 でも――
 だからこそ――――


 気になっていたことがあった。
 気持ちを落ち着かせるように、グラスの酒をもう一口。落ち着いたところで、沙月に尋ねた。
 
「……そういえば、さっき駅前で電話してた時……あれって、彼氏?」

 一瞬、沙月の肩がわずかに揺れた。

 すぐに取り繕うように、グラスを持ち上げたが、その動作は少しぎこちない。

「……うん。やっぱり、聞こえてたよね……」
「うん、まぁ……盗み聞きするつもりじゃなかったけど……」
「ううん、大丈夫。隠すつもりもなかったし……」

 沙月は、少し目を伏せたまま、続ける。

「えっと……尚也なおやっていうんだけど……まあ、いろいろあるっていうか、最近ちょっとね」

 尚也なおや――沙月の口からその名前を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。

『なおや』という響きが、まるで俺の名前をなぞるようで――
 冗談みたいな一致に、心に小さな棘が刺さる。

 グラスを口に運ぼうとしたその時、テーブルの上に置かれたスマホが振動音を鳴らした。

 沙月がちらりと確認して、一瞬だけ眉をひそめる。
 画面には、の文字--。

「……ごめん、ちょっと出てくるね」

 沙月はスマホを手に、席を立つ。
 個室のドアが静かに閉まる。すぐ外の通話スペースから、彼女の声がわずかに漏れてきた。

「……尚也……何? ……だから、今日は無理って言ってるじゃん……何回も言ってるでしょ? ……もう……やだ……」

 
 その声には、苛立ちと、疲労と、そしてどこか――諦めのような響きがあった。

 グラスの中の泡が静かに消えていくのを、ぼんやりと眺める。
 気づかないうちに、心の奥で何かがきしむ音がした。


 数分後。戻ってきた沙月の顔は、さっきまでより明らかに曇っていた。
 テーブルにつくなり、ため息をついてグラスを一気にあおる。

「……ごめん、ちょっと長くなっちゃった」
「大丈夫。彼氏と……なんか、うまくいってない感じ?」

 問いかけると、沙月は一瞬だけ目をそらし、それから言葉を探すように、ぽつりと呟いた。
 
「なんていうか……最初は優しかったんだけどね? 最近はほんとに、勝手でさ……」

 そこからは、せきを切ったようだった。

「アイツ、時間守らないし、私の予定なんて全然気にしてくれないんだよ? なのに、こっちがちょっと遅れると、すぐ不機嫌になって責めてくるの。……もう、理不尽すぎて、やんなっちゃう」

 一度息をついて、グラスを口に運ぶ。

「最近は、束縛もどんどん強くなってきてさ……。自分は平気で遊んでるのに、私のことばかり縛ろうとしてくるの。なんで、私だけ我慢しなきゃいけないのって、思っちゃうよね」

 手元のグラスを見つめたまま、沙月はぽつりと続けた。

「……それだけじゃなくて、お金のことも、ちょくちょく頼ってきて……返してって言いにくい雰囲気作ってきて……」

 そこで、笑うように、でも泣き出しそうに、息を吐く。

「結局こっちが我慢してるみたいになっちゃってて……もうなんか、ああああー! って、叫びたくなるっていうか……どうにかしたくなるのに、何も言えなくて……」

 グラスの中身をあおるように飲み干すと、沙月は天井を見上げて、苦笑いを浮かべた。

「ごめんね、こんな話ばっかり。久しぶりに会ったのに……でも、なんだかさ…………」
「いいよ、気にしてない」

 潤んだ目で笑う彼女が、ぽつりと呟く。

「直哉くんと話してると、落ち着く。昔も、こんなふうに愚痴聞いてくれたことあったよね?」

「うん……覚えてるよ」

 優しい声でそう返すしかなかった。
 俺にできることなんて、当時も、今も、変わらない。

 ただ、こうして隣にいる彼女の心を、少しでも楽にしてやりたくて。

「……ありがとう。なんか、話せてよかったぁ」
「…………」
 
 沙月の笑顔が、どこか寂しげに見えたのは――酔いのせいだけじゃなかった気がする。

「ふふ、ちょっと飲みすぎ……た……かも。あはは……」

 気がつけば、グラスは何杯目かわからなくなっていた。
 沙月の顔は、ほんのり赤くなり、言葉が少しずつ崩れている。




 そうして、店を出る頃にはもう、まともに歩けないくらい、足取りが怪しくなっていた。

「わ……やば、足、なんかフワフワしてる……」
「おい、大丈夫か?」
「だい、じょーぶ……へーき、へーき。家、わりと近い……から……」

 沙月の声は、すっかりとろんとしていて、目も少しうつろだった。

「いや、ダメ。こんな状態で一人で帰すわけにはいかないだろ。とりあえず家までは俺が、ちゃんと送るから」

 女性一人、こんな状態でタクシーに乗せて帰すのも不安だし、ましてや歩かせて道に迷ったり、事故や事件にでも遭ったりしたら目も当てられない。

 半ば呆れながらも、俺は沙月の肩を支える為に、細い肩に手を回す。

「肩、支えるぞ?」
「ふふ、やっぱ直哉……くんは、変わんない、ね……やさし……」
「……もう、無理しなくていいって」
「うん……ありがと……」

 彼女の体を支えながら、ゆっくりと夜の道を歩いていく。  
 春の夜風はまだ少し冷たかったが、彼女の柔らかな肌に回している手は、伝わってくる彼女の体温のおかげで、風に負けずにあたたかく感じた。


 ほんの数時間前までは、ただの懐かしい記憶のひとつだったのに。  
 今、こうして隣にいる彼女を、手放したくないと願ってしまう自分がいた。
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