春風

福福夢狸

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春風〜第二章【触れられぬ夜】

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「あっ……ここだよー」

 酔った沙月に肩を貸し歩いて、十数分後。
 沙月はふらふらになりながら、駅からほど近い、女性受けもしやすそうなお洒落な六階建てのマンションを指差す。

「ここか?」
「そー、送ってくれて、ありがとー……わっ、とと」

 呂律の甘い声を鳴らし、俺の肩を抜けてエントランスに向かおうとする沙月だが、まだ足元がふらつき、倒れそうになる。

「危ない!」

 慌てて沙月に手を伸ばして倒れるのを防ぐ。

「わっ、っと……ありがとー、直哉……くん……」

 呂律の甘い感謝を聞きながら、俺は内心でため息をつく。  

 (仕方ないな、こんな状態じゃあ、部屋まで送るしかないか……)

「もう……部屋まで送るよ」
「ごめん……」
「いいよ、何階?」
「ん……ごかい……五〇一……ありがとう、ほんと、に……」

 甘える声でお礼を言う沙月に肩を貸し、エントランスのロックを外すと、エントランスの自動ドアが開いた。


 そのままエントランスを抜けて、沙月の住むマンションのエレベーターに乗り込む。
 沙月の部屋があるという五階までの間、彼女は寄りかかるように俺の腕に体を預け、何も言わずにじっとしていた。


 エレベーターのドアが開くと、沙月の手を引きながら部屋の前まで辿り着く。  
 ふらつきながら、彼女はバッグから鍵を取り出して、少しもたつきながら鍵穴に差し込んだ。

「開いた……よ」
「よし、後少しだから。靴脱いで、そのままベッドまで行こ」
「うん……ありがと、くん……」
「…………」


 ーーじゃなく、


 居酒屋の時から気になっていたが、沙月は、彼氏の事はと呼び捨てにして呼んでいるが、俺の事は付けで呼ぶようになっていた。
 
 昔は……一緒にいた頃は、俺の事を『直哉』と呼んでいたのに…… 
 気にしないようにしていたが……改めてそう考えると、気持ちが離れてしまったかのように感じて、思わず心の奥がチクリと痛む。  

 そんな気持ちを隠して、俺は何も言わず、彼女の手を取り、沙月と共に部屋の玄関をくぐる。
 ふらつく沙月を支えながら、靴を脱ぐと玄関からキッチンが併設されている廊下を抜けて、沙月のプライベート空間であるベッドのある部屋まで連れていく。


 部屋は整理されていて、女の子らしい淡いトーンの家具が並んでいた。  
 ベッドのシーツは白に近いラベンダー色で、窓際には、優しげなレースのカーテンが、掛かっていた。
 俺は沙月をそっとベッドに横たえ、枕を整えた。

「ちょっと待ってな、水、持ってくるから」
「ん……ありがと……冷蔵庫の中……お水……入ってる……」

 
 持っていた手荷物を部屋の隅に置き、先ほど通った廊下のキッチンに向かい、沙月に言われた通りに冷蔵庫を開けて中身を確認する。中にはいくつかの食材や飲み物などがあり、その中にペットボトルの水も数本あった。
 その内の一本取り出して、コップを探して食器棚を探す。食器棚の中には、いくつかの食器と、コップがあったが、その中にはあまり沙月の趣味らしくない男物のような無骨なコップや食器がいくつかあった。
 
「…………」
 
 俺は、心によぎる感情を抑えて、可愛らしい花柄のコップを一つ取り、ペットボトルの水を注いで戻る。
 
「おーい、水、持って……きた……よ……?」
 
 持ってきた水を渡そうとして、ベッドに向かったそのときだった。


「ん……」

 ベッドの上で身じろぎする沙月の姿が目に入った。
 
 カーディガンはいつの間にか脱いでおり、スカートの裾が無防備に捲れ、ブラウスのボタンがいくつか外れかけている。  
 下着のラインが薄く見えてしまいそうなほど、乱れていた。

 慌てて視線を逸らしながら、声をかける。

「おい、ちょ……そのままだと……」
「いーの……私の部屋なんだから……へーき……」

 そう言って、手を伸ばしてまたブラウスのボタンをいじろうとする。
 視界の端に映った、彼女の胸元から覗く白い肌。

「いや、ダメだって……」

 慌てて止めようと彼女の横に向かう。
 だが、指先は空を切り、彼女の無防備さに、心がざわめいていく。

 
 (これ以上は、やばい……)
 俺はコップをそっと、テーブルに置き、彼女の頭の横に水を置く。

「ほら、水。ちゃんと飲んで……で、俺はもう帰るから」

 そう言いながら立ち上がろうとした、そのときだった。

「……だーめ……まだ、話したい……」
 
 甘えるような声とともに、沙月が俺の手を引いた。
 その勢いに、バランスを崩し、倒れてしまい、思わず彼女に覆いかぶさる形になった。

「……あっ」

 至近距離で、彼女の瞳が俺を見つめていた。  
 頬はほんのり赤く、潤んだ目が、まるで何かを求めるように揺れている。

「……なおや……」

 その言葉が、俺の中に刺さる。
 甘い響きで囁かれたその一言に、心臓の鼓動が跳ね上がるのと同時に、喉の奥がぎゅっと詰まるような感覚がした。

 
 沙月の目は、俺を見ている。  
 俺の名前を、呼んでいる。
 でも、それが『なおや』のことなのか、『彼氏なおや』のことなのか――
 酔っ払っている沙月の本心がわからず……その曖昧さに、俺の理性が一瞬ぐらついた。

 心臓が、ひどくうるさくなった。

「……ん」

 沙月が、そっと瞼を閉じる。
 
 (これは……期待してもいいのか?)

 呼吸の仕方を忘れるくらい、目の前の彼女が綺麗で、愛おしくて。  
 吸い寄せられるように、俺の顔が近づいていく。
 ふっくらとした唇がすぐそこにあって、あと数センチもない距離。
 唇が触れそうな距離まで近づけた――その時。 
 
 不意に、室内に電子音が鳴り響いた。
 突然の事に驚いた俺は、思わず音のする方を向く。

 
 見ると、沙月のスマホが、ベッドの脇の小さなサイドテーブルで震えていた。

「……なぁに……?」

 俺は慌てて沙月から顔を離す。
 顔を離した直後、沙月がゆっくりと瞼を開ける。

「えっと………電話、鳴ってるよ……?」
「……うん、ちょっと……ごめんね……」
「いや……大丈夫……」

 沙月は何度も、何度も着信音が鳴らしているスマホに手を伸ばそうと、もぞもぞと起き上がろうとする。
 邪魔にならないよう、慌てて身体を起こし、沙月から離れる。


 (あと……少し……良い所だったのに……)
 ベッド横に座りながら、行き場を失った感情が、俺の中でぐるぐると、渦巻いているのを感じる。
 恨めしそうに中断させた原因であるスマホの画面を見ると――。
 
 そこには――『尚也』の名前が表示されていた。 
 
「はい……もしもし?」
 
 起き上がった沙月がゆっくりとスマホを手に取り、通話に出た。  
 その瞬間、彼女の表情が凍った。

「……えっ? 今から!? いや、今日はもう遅いし……」

 通話しながら、沙月がちらちらと、俺の方を見る。
 会話の内容から、彼氏がこちらに来ようとしているのが分かる。
 
 (頼む……断ってくれ……)
 まだ沙月と居たいという気持ちが勝り、感情が渦巻く。
 
「そう……今からだと大変でしょ……私も、眠いし」

 やんわりと、断ろうとする沙月の声を聞いて、ホッとした瞬間、今度は玄関のインターホンが鳴った。  

 (こんな時間に誰だ?) 
 電話している沙月の代わりに、部屋のモニターに視線を向けると、そこには、見知らぬ男がカメラに映っている。

 ラフな格好の少しチャラそうな男。
 男は慣れたようにインターホンのカメラに向かって、手を振っている。
 その場に立ち尽くす俺に、沙月が、スマホに声が入らないように、小声で告げる。

「……もう、来てるって……」
 
 俺は、モニターを指差して尋ねた。

「彼氏……?」
「……うん」

 ぞくりと背筋が冷える。  
 その小さな頷きに、すべての熱が冷めていくのを感じた。

「……そっか。なら、俺はもう行くよ」

 沙月の肩がぴくりと揺れた。

「……ごめん、こんなことになって」
「謝るなよ。俺の方こそ、こんな時間まで部屋にいて……悪かった」
 靴を履くために、置いていた手荷物を持って、玄関に向かおうすると、沙月が電話を取って、尚也に言った。

「ちょっと待って。いま……着替えてるから、少しだけ待ってて」

 どうやら、少し時間稼ぎしてくれたようだ。
 
 (お互いに、こんな現場は見られる訳にはいかないもんな……)
 靴を履きながら、沙月に感謝の念を抱く。 
 玄関の扉を開けようとした時、電話を切った沙月が近寄り、俺の後ろ姿に向かって、ぽつりと、呟く。

「……また、会えるよね?」

 その声に振り返ることなく、俺は答えた。

「……ああ。そうだな」


 玄関のドアが閉まると、彼氏と鉢合わせないよう、念の為に、エレベーターは使わずに、階段を使ってマンションを降りる。  
 エントランスまで降りた時、エレベーターの前で待つ男――恐らく、尚也だろう――と目が合った。

 目が合うと、尚也は、少し怪訝そうな表情を浮かべた。
 だが、すぐに前を向き、互いに何も言わずに、すれ違う。
 すれ違う時に、エレベーターも降りてきたのか、電子音を鳴らし、扉が開き、そのまま尚也は、エレベーターに乗り込んでいった。
 
 
 エントランスを出ると、俺は、部屋を出る時に微かに香った彼女の柔らかな匂いと、帰り際の彼女の言葉がやけに胸に刺さった。
  
「帰る時……沙月……どんな顔してたんだろう……」
 
 そうポツリと声が口から漏れる。
 少しの後悔から――――ふと、彼女の部屋を見上げた。

 その瞬間、玄関で沙月が尚也に軽く抱き寄せられる光景が、目に映った。
 

(……そうか。やっぱり、今は『あの男』の彼女なんだな)
 胸の奥が冷えていく感覚に襲われながら、俺は背を向け、夜の街へと歩き出した。

 気温は変わらないはずなのに、頬を横切る春風が、いつもよりも冷たく感じた。
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