4 / 9
春風〜第三章【探し続けた名前(ヒト)】
しおりを挟むあの日から、一週間が経った。
春風が、肩にかけたコートの裾をやさしく揺らす。季節は確実に進んでいるのに、心の奥には、あの夜からずっと冷えたままの空洞が残り、風は冷たく感じる。
沙月の部屋を出てからの帰り道、何度も振り返ってしまったのは、期待だったのか、未練だったのか。それすら分からなくなるほど、心の中は掻き乱されていた。
――結局、何も、できなかった。
ベッドで見つめ合って、手を伸ばして。届く寸前で止まった唇。
そして、扉の向こうにやってきた“彼氏”という現実。
彼女はもう、『違う誰か』の隣にいる。
そう自分に言い聞かせて、あの日の夜はなんとか眠りについた。
次の日、会社に顔を出すと、上司から急な出張の話が持ちかけられた。
「悪いんだけどさ、ちょっと人足りなくて。急だけど、来週一杯くらい出られる?」
迷いもせずに、「行きます」と答えていた。
何かしていないと、落ち着かなかった。
彼女のことを考えずに済むなら、どこへだって行けた。
会いたいと思ってしまう前に、思い出を薄めたかった。
そうして、出張先での慌ただしい日々が過ぎた。
戻ってきたのは昨夜。自宅で軽く荷解きを済ませ、今日は久々の出社。
仕事を終えて、帰りの駅へと向かう足取りは重くも軽くもなかった。
いつも通りの、ただの帰り道。
――そう思っていた。
「……直哉くんっ!」
その声は、不意に、耳を撃ち抜いた。
人の流れに紛れていた俺の意識が、一瞬にして引き戻される。
振り返ると、そこにいたのは――――沙月だった。
「……沙月?」
「やっぱりそうだ……やっと……やっと会えた……!」
そう言って駆け寄ってくる彼女の姿は、あの夜の印象と変わっていなかった。
けれど、頬は少しこけて見えたし、目の下にはうっすらとクマが見える。
「どうしたんだよ……そんな顔して……」
「どうした、は、こっちのセリフだよ……」
沙月の瞳に、うっすらと涙の膜が浮かんでいるのを見て、胸がざわつく。
「約束……したよね? 『また会えるよね』って……なのに、何で、会ってくれなかったの?」
責めるでもなく、ただ本気で悲しそうな声だった。
「……出張だったんだ。あの次の日に、急に決まって。準備もあって、バタバタしてて……」
「そう、だったんだ……一言、言ってくれれば、よかったのに」
沙月は、堪えるように唇を噛んで、そっと俯いた。
「……ごめん」
「……あの日以来、また会えるって信じてたの。けど、連絡先、知らなかったから……だから……」
「だから……?」
「ずっと……ここで探してた。あの日、偶然、再会したこの駅でなら、また直哉くんに会えるかもしれないって……仕事終わりに時間があれば、ずっと……」
その言葉に、胸が締め付けられた。
俺なんかのために、こんなにも……。
「……もう、こんなふうに連絡取れないのは嫌。……だから、教えて。連絡先」
有無を言わせない口調だった。ポケットからスマホを取り出して、俺の目の前に差し出す。
「……ああ。分かった」
画面に俺の番号とメッセージアプリのIDを入力し、送信を押す。
画面に送信が表示されたとき、彼女の張り詰めた表情がふっと緩んだ。
けれど、俺の中には別の思いも渦巻いていた。
――本当に、これでいいのか?
気づけば、口が動いていた。
「なぁ……沙月。彼氏は……いいのか?」
「……何で今、アイツの話をするの?」
明らかに機嫌を損ねた彼女の顔。
けれど、俺だって黙っていられなかった。
「あの夜……お前と彼氏が、玄関で抱き合ってるのを見たんだ……」
「……っ」
「だから……お前にとって、今の俺って……何なのかなって思って……」
沙月は目を伏せて、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと呟く。
「あの夜、アイツが来たのは……お金の無心だったの。どうしても必要だって言って……それで、私、怒って、追い出した」
そう言った彼女の目に、わずかな悔しさがにじんでいた。
「そうなんだ……。それで……?」
彼女が彼氏と上手くいってないのは、あの日と今の話で何となく分かる。だからこそ、気持ちをはっきりさせたくて、沙月の次の言葉を待つ。
「ねぇ、直哉くん……」
言葉の先を、飲み込むように、沙月は少し黙り、間を置く。
少しの沈黙の後、顔を上げた沙月がまっすぐに俺を見る。
その瞳は、不安と決意に揺れていた。
「私、ほんとは……あの夜、直哉と……」
そこへ、突然背後から声がかかる。
「……俺がなんだって?」
振り向くと、あの夜、沙月の部屋に来た男ーー尚也がいた。
黒のパーカーにスウェットという、少しだらしなく見える格好をしている。
「……尚弥」
「よっ! そいつ、誰?」
尚弥の目が、俺と沙月を見比べる。
「……高校、一緒だった人。偶然、再会して、話してただけ」
沙月がすぐに間に割って入る。
尚也は、ほんの数秒だけ俺の顔をじっと見て――すぐに興味を失ったように目を逸らす。
「ふーん、まぁいいや。もう仕事終わったんだろう?」
「……うん、まぁ」
「よし、なら帰ろうぜ! 今日は文句なしでご機嫌とりしてやっからさ、な?」
「……ちょっと!」
尚弥は意図してるのか、俺と沙月の間に入ると肩に手を回すと、有無を言わさずに沙月を連れて歩き出す。
俺は、足が地面に張りついたように動かず、その背中をただ、見送るしかできなかった。
「……ゴメンね、直哉くん」
まともな別れの挨拶も出来ず、沙月は去り際に申し訳なさそうに小さく謝ったが、その言葉に胸が苦しくなった。
「……もう帰ろう」
思わず口をついて出た言葉とともに、踵を返しかけたその時――
ポケットの中のスマホが震えた。
画面を見ると、知らない番号からのメッセージ。
メッセージを読むとーー
『今度、二人で――ちゃんと話したい。予定、教えて』
そして、その送信者の方へと視線を向けると――
尚也の少し後ろを歩きながら、スマホを胸元に抱えたまま、そっと小さく手を振る沙月の姿が見えた。
尚也に気づかれないように、そっと笑みを浮かべて。
俺の胸が、高鳴る。
あの日と同じ春風が、通り過ぎていった。
でも今度は、少しだけ、あたたかかく感じた。
0
あなたにおすすめの小説
課長と私のほのぼの婚
藤谷 郁
恋愛
冬美が結婚したのは十も離れた年上男性。
舘林陽一35歳。
仕事はできるが、ちょっと変わった人と噂される彼は他部署の課長さん。
ひょんなことから交際が始まり、5か月後の秋、気がつけば夫婦になっていた。
※他サイトにも投稿。
※一部写真は写真ACさまよりお借りしています。
メイウッド家の双子の姉妹
柴咲もも
恋愛
シャノンは双子の姉ヴァイオレットと共にこの春社交界にデビューした。美しい姉と違って地味で目立たないシャノンは結婚するつもりなどなかった。それなのに、ある夜、訪れた夜会で見知らぬ男にキスされてしまって…?
※19世紀英国風の世界が舞台のヒストリカル風ロマンス小説(のつもり)です。
雪の日に
藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。
親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。
大学卒業を控えた冬。
私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ――
※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
甘い束縛
はるきりょう
恋愛
今日こそは言う。そう心に決め、伊達優菜は拳を握りしめた。私には時間がないのだと。もう、気づけば、歳は27を数えるほどになっていた。人並みに結婚し、子どもを産みたい。それを思えば、「若い」なんて言葉はもうすぐ使えなくなる。このあたりが潮時だった。
※小説家なろうサイト様にも載せています。
ソツのない彼氏とスキのない彼女
吉野 那生
恋愛
特別目立つ訳ではない。
どちらかといえば地味だし、バリキャリという風でもない。
だけど…何故か気になってしまう。
気がつくと、彼女の姿を目で追っている。
***
社内でも知らない者はいないという程、有名な彼。
爽やかな見た目、人懐っこく相手の懐にスルリと入り込む手腕。
そして、華やかな噂。
あまり得意なタイプではない。
どちらかといえば敬遠するタイプなのに…。
遠回りな恋〜私の恋心を弄ぶ悪い男〜
小田恒子
恋愛
瀬川真冬は、高校時代の同級生である一ノ瀬玲央が好きだった。
でも玲央の彼女となる女の子は、いつだって真冬の友人で、真冬は選ばれない。
就活で内定を決めた本命の会社を蹴って、最終的には玲央の父が経営する会社へ就職をする。
そこには玲央がいる。
それなのに、私は玲央に選ばれない……
そんなある日、玲央の出張に付き合うことになり、二人の恋が動き出す。
瀬川真冬 25歳
一ノ瀬玲央 25歳
ベリーズカフェからの作品転載分を若干修正しております。
表紙は簡単表紙メーカーにて作成。
アルファポリス公開日 2024/10/21
作品の無断転載はご遠慮ください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる