春風

福福夢狸

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春風〜第三章【探し続けた名前(ヒト)】

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 あの日から、一週間が経った。

 春風が、肩にかけたコートの裾をやさしく揺らす。季節は確実に進んでいるのに、心の奥には、あの夜からずっと冷えたままの空洞が残り、風は冷たく感じる。


 沙月の部屋を出てからの帰り道、何度も振り返ってしまったのは、期待だったのか、未練だったのか。それすら分からなくなるほど、心の中は掻き乱されていた。

 ――結局、何も、できなかった。

 ベッドで見つめ合って、手を伸ばして。届く寸前で止まった唇。  
 そして、扉の向こうにやってきた“彼氏”という現実。

 彼女はもう、『違う誰か』の隣にいる。  
 そう自分に言い聞かせて、あの日の夜はなんとか眠りについた。

 
 次の日、会社に顔を出すと、上司から急な出張の話が持ちかけられた。

「悪いんだけどさ、ちょっと人足りなくて。急だけど、来週一杯くらい出られる?」

 迷いもせずに、「行きます」と答えていた。

 何かしていないと、落ち着かなかった。

 彼女のことを考えずに済むなら、どこへだって行けた。  
 会いたいと思ってしまう前に、思い出を薄めたかった。


 そうして、出張先での慌ただしい日々が過ぎた。

 戻ってきたのは昨夜。自宅で軽く荷解きを済ませ、今日は久々の出社。  
 仕事を終えて、帰りの駅へと向かう足取りは重くも軽くもなかった。

 いつも通りの、ただの帰り道。

 ――そう思っていた。




「……直哉くんっ!」

 その声は、不意に、耳を撃ち抜いた。
 人の流れに紛れていた俺の意識が、一瞬にして引き戻される。


 振り返ると、そこにいたのは――――沙月だった。


「……沙月?」
「やっぱりそうだ……やっと……やっと会えた……!」

 そう言って駆け寄ってくる彼女の姿は、あの夜の印象と変わっていなかった。  
 けれど、頬は少しこけて見えたし、目の下にはうっすらとクマが見える。
 
「どうしたんだよ……そんな顔して……」
「どうした、は、こっちのセリフだよ……」

 沙月の瞳に、うっすらと涙の膜が浮かんでいるのを見て、胸がざわつく。

「約束……したよね? 『また会えるよね』って……なのに、何で、会ってくれなかったの?」

 責めるでもなく、ただ本気で悲しそうな声だった。

「……出張だったんだ。あの次の日に、急に決まって。準備もあって、バタバタしてて……」
「そう、だったんだ……一言、言ってくれれば、よかったのに」

 沙月は、堪えるように唇を噛んで、そっと俯いた。

「……ごめん」
「……あの日以来、また会えるって信じてたの。けど、連絡先、知らなかったから……だから……」
「だから……?」
「ずっと……ここで探してた。あの日、偶然、再会したこの駅でなら、また直哉くんに会えるかもしれないって……仕事終わりに時間があれば、ずっと……」

 その言葉に、胸が締め付けられた。
 俺なんかのために、こんなにも……。

「……もう、こんなふうに連絡取れないのは嫌。……だから、教えて。連絡先」

 有無を言わせない口調だった。ポケットからスマホを取り出して、俺の目の前に差し出す。

「……ああ。分かった」

 画面に俺の番号とメッセージアプリのIDを入力し、送信を押す。

 画面に送信が表示されたとき、彼女の張り詰めた表情がふっと緩んだ。
 けれど、俺の中には別の思いも渦巻いていた。


 ――本当に、これでいいのか?


 気づけば、口が動いていた。

「なぁ……沙月。彼氏は……いいのか?」
「……何で今、アイツの話をするの?」

 明らかに機嫌を損ねた彼女の顔。  
 けれど、俺だって黙っていられなかった。

「あの夜……お前と彼氏が、玄関で抱き合ってるのを見たんだ……」
「……っ」
「だから……お前にとって、今の俺って……何なのかなって思って……」

 沙月は目を伏せて、しばらく黙っていた。

 そして、ぽつりと呟く。

「あの夜、アイツが来たのは……お金の無心だったの。どうしても必要だって言って……それで、私、怒って、追い出した」

 そう言った彼女の目に、わずかな悔しさがにじんでいた。

「そうなんだ……。それで……?」

 彼女が彼氏と上手くいってないのは、あの日と今の話で何となく分かる。だからこそ、気持ちをはっきりさせたくて、沙月の次の言葉を待つ。


「ねぇ、直哉くん……」
 
 言葉の先を、飲み込むように、沙月は少し黙り、間を置く。 
 少しの沈黙の後、顔を上げた沙月がまっすぐに俺を見る。
 その瞳は、不安と決意に揺れていた。

「私、ほんとは……あの夜、直哉と……」
 
 そこへ、突然背後から声がかかる。

 
「……なおやがなんだって?」

 振り向くと、あの夜、沙月の部屋に来た男ーー尚也がいた。
 黒のパーカーにスウェットという、少しだらしなく見える格好をしている。

「……尚弥」 
「よっ! そいつ、誰?」
 
 尚弥の目が、俺と沙月を見比べる。 

「……高校、一緒だった人。偶然、再会して、話してただけ」

 沙月がすぐに間に割って入る。  
 尚也は、ほんの数秒だけ俺の顔をじっと見て――すぐに興味を失ったように目を逸らす。

「ふーん、まぁいいや。もう仕事終わったんだろう?」
「……うん、まぁ」
「よし、なら帰ろうぜ! 今日は文句なしでご機嫌とりしてやっからさ、な?」
「……ちょっと!」
 
 尚弥は意図してるのか、俺と沙月の間に入ると肩に手を回すと、有無を言わさずに沙月を連れて歩き出す。

 俺は、足が地面に張りついたように動かず、その背中をただ、見送るしかできなかった。

「……ゴメンね、直哉くん」
 
 まともな別れの挨拶も出来ず、沙月は去り際に申し訳なさそうに小さく謝ったが、その言葉に胸が苦しくなった。

 
 「……もう帰ろう」
 
 思わず口をついて出た言葉とともに、踵を返しかけたその時――

 ポケットの中のスマホが震えた。

 画面を見ると、知らない番号からのメッセージ。
 メッセージを読むとーー
 

 『今度、二人で――ちゃんと話したい。予定、教えて』


 そして、その送信者の方へと視線を向けると――

 尚也の少し後ろを歩きながら、スマホを胸元に抱えたまま、そっと小さく手を振る沙月の姿が見えた。

 尚也に気づかれないように、そっと笑みを浮かべて。


 俺の胸が、高鳴る。


 あの日と同じ春風が、通り過ぎていった。  
 でも今度は、少しだけ、あたたかかく感じた。
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