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春風〜エピローグ
しおりを挟む穏やかな春の光が、町を静かに包み込んでいた。
午前中とはいえ、少し遅い朝の為、空は高く、柔らかな風が頬を撫でる。
昨夜、離れていた想いを埋めていこうとするように、何度も求め合い、朝焼けを迎えたあとでも、俺たちは、何度も抱き合った。
だから、少し微睡みながらも、今、こうして並んで歩いているのが、まだ夢の続きのような、そんな錯覚を覚える。
沙月の珊瑚色の髪が、春の日差しを受けて、やわらかく揺れる。
昨日と同じ、白いシャツワンピースを身にまとったまま。
着替えを持ってきていなかった沙月は、少しだけ恥ずかしそうに笑っていたけれど、その姿すら、俺にはたまらなく愛しかった。
沙月のマンションのエントランスに着き、俺たちはエレベーターに乗り込む。
扉が静かに閉まり、狭い空間に、沙月の柔らかな香りがふわりと満ちた。
手を繋いでいるわけじゃない。
触れているわけでもない。
それでも、身体の奥がじんわりと熱くなる。
俺は、少しだけ沙月の方に顔を向けて、言葉を探す。
(ーーああ、もう離したくない)
正直、こんな状況で言うのはどうなんだろうと思ったけれど、どうしても、ちゃんと伝えたくて……そう思い、意を決して口を開いた。
「なあ、沙月……アイツと別れて、俺と付き合ってくれないか?」
心臓が跳ねた。
言葉に出した途端、自分でも驚くくらい、胸が締めつけられる。
沙月は、一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。
「えっ……困ったなぁ……」
(困ったって……どういう意味だ?)
心臓がどくん、と嫌な音を立てる。
(まさか、まだ――)
そんな不安が胸に広がり、声が漏れる。
「えっ!? 駄目なのか?」
思わず、声が上ずる。
俺は、必死に沙月の顔を覗き込んだ。
だけど、沙月はくすっと微笑み、肩をすくめた。
「いや……もう、付き合ってるかと思ってた」
その言葉に、その一言に、全身から力が抜ける。
張り詰めていたものが、ふっとほどけて、思わず苦笑いがこぼれる。
「あ、あぁ~……いや、そう言えば、ちゃんと告白してなかったなぁって、思ってさ」
頬を掻きながら言うと、沙月は楽しそうに笑った。
「ふふっ……今さらだなぁ~」
エレベーターが、目的の階に到着すると、柔らかい電子音とともに、扉が開いた。
沙月は歩みを進めて、一歩、外に出かけて、ふいに振り返った。
朝日を受けた珊瑚色の髪が、柔らかく揺れる。
白いシャツワンピースの裾が、ふわりと春風に揺れて――
その向こうで、彼女はにこやかに笑った。
「ねぇ……直哉。大好き」
その一言が、胸に深く沁みた。
ずっと欲しかったものが、今、確かにここにある。
喉が熱くなり、あの日、あの時、口に出来なかった想いが溢れて、たまらず言葉を返す。
「俺も……俺も、沙月が大好きだ」
沙月を抱きしめようと、自然と手を伸ばす。
けど、それよりも一瞬早く、沙月の方が俺に手を伸ばして抱きついた。
戻ってきた沙月の身体を、強く抱き締める。
抱き合う二人は、どちらともなく、唇を重ねた。
お互いの心と心を、確かめ合うようにーー
唇が触れ合った瞬間、世界がふわりと溶けた。
ちゅ……ん、くちゅ……。
ふわりと重なった唇から、小さく湿った水音がこぼれ、狭いエレベーターの中にこだました。
それは、甘くて、切なくて、たまらなく愛おしい――
言葉以上に互いの心を通わせるキスだった。
エレベーターの扉が閉まる、小さな電子音が耳に届いた。
扉が閉まる寸前――
外から、春の風がふわりと吹き込んだ。
沙月の髪を揺らし、白いワンピースをそっと膨らませる。
──春風が、祝福するかのように、二人をそっと撫でていった。
もう二度と、この手を離さない。
止まったままだと思っていた二人の時間が――
今、また静かに、動き出した気がした。
(完)
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