妹の妹による妹のためのハーレム計画

相上和音

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第32話 特訓

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 場所を河川敷に移した。
 人目と雨を避けるために橋の下に入る。
 連日の雨で川は増水していたが、河川敷の幅が広いので間違って落ちる心配などはない。

 背の高い葦が対岸の目を防いでくれる。
 古びた電灯が一つあるものの、この時間帯だと灯ることはないようだ。
 雨の音や車の音がやけに反響し、ただでさえ陰鬱な空気がさらに重苦しく感じられた。

 真崎は鞄を地面に置くと、その中から学校指定の短パンを取り出し、スカートの下に履いた。
 目のやり場に困り視線を逸らす。
 なぜか着いてきた加賀美が板チョコのような形状の舗装された土手に腰を据えていた。
 お尻の下にはクリアファイルか何かを敷いているようだった。

 真崎は面倒くさそうに言う。

「一応聞いておくけど、格闘技や殴り合いの経験は?」
「よく蛍光灯のスイッチ紐と戦ってることくらいかな」
「ないんだな」
「いや、これが結構本気でやってるんだよ。百二勝九敗で圧勝してるし」
「なんでたまに負けてんだよ」

 真崎は嘆息し、頭を乱暴に掻いた。

「そんな馬鹿で間抜けなお前に、寛大な私がボクシングの基礎技術を教えてやる」
「ボクシング?」

 訝しげに繰り返す。

「なんだよ」
「どうせならさ、空手とかムエタイとか教えてくれよ。こう、蹴りでドカッみたいな」

 俺が回し蹴りの真似ごとをすると、真崎は心底馬鹿にするように鼻を鳴らした。

「格闘技経験どころか喧嘩慣れすらしてない素人に蹴りが扱えるかよ。バランスを崩して隙ができたり、足を掴まれ転ばされるのがオチだ。投げ技や組み技も同じだ。一朝一夕で扱えるような代物じゃない」

 真崎は右の拳をぎゅっと握り、胸の高さにまで持ち上げた。

「確かに、ボクシングはなにかと制約が多い。最強を目指すには不足かもしれない。でもな、素人が短期間で強くなるのに、これほど適した格闘技は他にねえよ」

 顎をあげ、挑発するようにゆっくりと続ける。

「まだ、なにか文句でも」
「……いや、悪かった」

 それから指導を受けた。

 拳の握り方や構え方、そしてパンチの繰り出し方。
 個人的にはフックが段違いで難しかった。
 もしかしたらフックを打つために必要な筋肉が発達していないのかもしれない。

 そう感じるほど、力の込め方がわからなかった。
 それでも何度も繰り返しているうちに多少は様になる。

「よし」真崎が言った。「じゃあ、かかってこい」
「え?」
「かかってこい」
「いや、いきなりすぎだろ」

 まだ特訓を初めて三十分ほどしか経っていない。

「余程体格差がない限り、素人同士の喧嘩なんてほとんど勢いだ。殴ることと殴られること、この二つに慣れるのが大切なんだよ。基礎から順番にやりたいなら道場へ行け」
「でもさ」
「従わないなら私は帰るぞ」
「……わかったよ」

 気乗りしないまま、習ったばかりのファイティングポーズをとる。

 いくら真崎が格闘技に打ち込んでいようが、そこは男と女だ。
 今までさんざん殴られてきたけれど、それは俺にやり返す気がなかったからで、その気になれば俺の方が断然強いだろう。
 手加減して怪我をさせないように気をつけないと。

 ——なんて考えていた時期が俺にもありました。

 手加減なんてとんでもない。
 全く勝てる気がしなかった。

 真崎はこちらの攻撃をするりと躱し、的確にパンチやキックを浴びせてくる。
 俺がすぐに息を切らしたのに対し、真崎はほとんど呼気が乱れず汗もかいていなかった。

「大振りすぎだ。もっとコンパクトにしろ」

 手本を示すように鋭いパンチを繰り出してくる。
 たまらず体を縮めると、すぐさま叱責が飛んできた。

「丸くなるな!」

 言われた通り、背筋をぴんと伸ばす。
 その横腹に鋭い回し蹴りが食い込んだ。
 たまらずその場にひざまずき、うめき声をあげた。
 恨みがましく真崎を睨む。

「……言われた通りにしたら、ものすげえ痛いんだけど」
「誰が無抵抗にやられろって言ったよ。防ぐことよりまず躱すことを考えろっつってんだよ。ディフェンスのやりかたも教えただろうが」

 真崎は腰に手を当てた。

「いいか。戦闘の極意は『空を切らせて命を絶つ』だ」
「達人かよ」

 どさりと座り込む。
 あまりに一方的にやられすぎて不貞腐れたのもあるし、単純に体力の限界だったのもある。
 俺はぼやくように言った。

「なんかもっとこう、必勝法みたいなのはねえの」
「なくもない」
「まじか」

 罵倒されると思っていたのに、意外だ。
 俺は前のめりになった。

「なんだよ、教えてくれ」
「『蝶のように舞い、背後から刺す』」
「ただの通り魔じゃねえか!」

 そりゃモハメドアリ相手でも負けないだろうけど……。

「さすがに『刺す』ってのは比喩だけど、不意打ちも立派な戦法だ。むしろ真正面から行く方が馬鹿だ」
「……でも卑怯だろ、そういうの」
「善良でありたいなら、そもそも喧嘩なんてするんじゃねえよ」

 真崎の言う通りだ。
 待ち伏せしてバットか何かで襲い掛かれば、それで簡単に済む話なのだ。

 相手は大勢でいたいけな少女を押さえつけ、乱暴を働こうとするようなクズだ。
 手心をくわえる必要など、どこにもなかった。

「……いや」

 けれど俺は首を振る。
 そういう相手だからこそ、卑怯な手は使いたくなかった。

「じゃあ文句を垂れるな。立て」

 言われるがまま立ち上がり、またスパーリングを始める。
 おもしろいほどボコボコにされた。
 疲れ果てて大の字になり、ぜえぜえと荒い息を繰り返す。
 石が背中に刺さって痛い。さすがの真崎も息が弾んでいたけれど、何度か深呼吸すると元に戻ってしまった。

「飲み物買ってくる」

 加賀美にそう声をかけ、真崎は傘に手を伸ばした。

「真崎」

 呼び止めて、ポケットから取り出した財布を放る。
 それを反射的に受け取り、真崎は不愉快そうに顔を顰めた。

「なんだよ、お前の分も買って来いってのか」
「違う違う。飲み物ぐらい奢らせてくれ」

 真崎はしばらく躊躇っていたが、結局なにも言わず橋の下から出ていった。

 汗が引き始めると、肌寒さを感じた。
 立ち上がり軽く伸びをする。

 加賀美は同じ場所で、じっとしていた。
 薄暗いから読書もできないのだろう。
 空いた時間にスマホをいじるタイプでもないだろうし。

 沈黙が気になり、声をかけてみた。

「帰らなねえの」
「ええ」
「見てて楽しいか」
「いいえ、まったく」

 加賀美は本当につまらなさそうに言った。

「じゃあなんでついてきたんだよ」
「仕方がないでしょ。一緒に帰ろうって約束していたんだから。沙希は約束を破るのが嫌いなのよ」
「嫌いなのはお前じゃなくて?」
「もちろん好きではないけれど。でも理由があるのなら、約束を破るのも破られるのも、そこまで抵抗はないわ」

 つまり、加賀美は真崎に約束を破らせないためにここにいるということだ。

「友達思いだな」
「思いやれないなら友達とは言えないんじゃないの」

 もっともだと思い俺は頷いた。

「……なによ」

 そう尋ねられ、加賀美をまじまじと見つめていたことに気がついた。

「あ、いや、なんか意外でさ」
「なにが?」
「会話が成立してるのが」

 加賀美は首を傾げた。

「なんて言うの。お前ってすげえ口が悪いだろ? だから、こうして普通に話ができると思ってなくてさ」
「もしかして、傷ついてた?」
「そりゃあな」

 俺は思わず笑ってしまう。

「それもそうよね」

 つられたように加賀美も微笑した。

 なんだかイメージがガラッと変わってしまう。
 俺の中の加賀美像は、傲岸不遜な高慢ちき——つまり性格の悪い女だと思っていたのだ。
 けれど今の加賀美にはそんな印象はなかった。

 そもそも、俺と加賀美は親しいわけではない。
 廊下ですれ違っても、お互い目も合わせない。
 俺たちが関わるのは、いつだって真崎絡みでだ。

 より厳密に言えば、真崎が俺に暴力を振ったあとに、加賀美が舌鋒で追い打ちをかけてくるのだ。
 そして最後に必ず、加賀美は真崎を窘める。
 やめておきなさい、と。

 俺は校舎の入り口でのやりとりを思い出した。

「この男に殴るほどの価値はないわ」

 加賀美は拳を振り上げた真崎にそう言い放った。
 酷い言い草だけれど、真崎を責めたりせずに止めるのに、あれほど適切な言葉は他にないだろう。

 加賀美は常に俺の敵であった。
 ということは、常に真崎の味方だったということだ。

 たぶん、二人の間になにかがあったのだろう。
 どんな状況でも常に味方であろうと誓うような出来事が、俺の知らないところで過去にあったのだろう。

「……本当に、友達思いだな」

 ぼそりと、同じ言葉を感情を込めて繰り返した。
 小声だったから加賀美の耳には届かなかったようだ。

 やがて真崎が戻ってくる。
 手には飲み物が三つ。
 そのうちの一つと財布を投げて寄越してきた。
 左右の手で同時にキャッチしようとして、両方とも取り落としてしまう。

「間抜け」

 加賀美に缶のミルクティーを手渡しながら、真崎が即座に馬鹿にしてくる。

「ほっとけ」

 言い返しはしたが、まさか俺の分まで買ってきてくれるとは思っていなかったから憤りは感じなかった。

 財布とペットボトルを拾い上げる。
 見慣れた赤いデザイン。

「……コーラを投げてよこすなよ。しかも運動後に炭酸って」
「炭酸を抜いたコーラはエネルギーの効率がきわめて高いらしいぞ」

 オイオイオイ。

「漫画の知識を鵜呑みにすんなよ。てかお前のは普通にスポーツドリンクじゃねえか。トリケラトプス拳食らわせんぞ」
「あ? やってみろよ」

 口調とは裏腹に真崎の表情は楽しげだった。
 ネタが伝わったのが嬉しかったのかもしれない。

 隣では加賀美が不思議そうに首を傾げていた。
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