明治不忍蓮華往生

No.37304

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 人を斬るのは、藤田にとって簡単な仕事ではない。
 剣でもって他人を害すること、それそのものが難しいと言っているわけではない。単純に剣で人を斬った経験であれば、藤田は現在生きている人間の中では上位に入るほうであろう。
 では、なにが難しいのか、といえば、かれは
(証拠もなしに、なにも知らぬ相手を斬ることはできぬ)
 と、思っているのだ。
 それは、現代的な証拠主義と一見すると同じに見えるが、心の内にある理屈はまるで異なっている。かれは、相手の思考を辿り、自身のことと同じように思えなければ斬ってはならぬ、と思っているのだ。できることならば、生育の環境から好みの食べ物、抱いた女のこと、なにもかも知りたいと思うほどだ。
 が、往々にして人を斬るべきタイミングを先延ばしにはできぬのも事実である。今回も、なるべく早く敵を見つけだし、殺すべき案件だろう。従って、捜査に際してかれがまず行ったのは、赤線近くの寂れた居酒屋の暖簾をくぐり、奥の座敷へと進むことだった。
「誰をお探しで」
 座敷には誰もいない。誰もいないが、畳に数枚の紙幣をおくと、声だけは聞こえてくる。
 江戸のころに、警察に当たる職務を遂行していたのが同心や与力という存在であるのは、有名な話だ。与力を補佐する同心が奉行所ごとに百人から百五十人足らず、与力に至っては各奉行所に二十五人ずつ程度の人員しかいなかったというのも、同じほどには有名だろう。しかし、一万人規模の江戸という都市にそれだけの人員で、業務が成り立つわけがない。──と、言うことで出てくるのが、同心に私的に雇われて実際の捜査を行う、岡っ引きだとか御用聞きだとかと呼ばれる存在である。
 明治に入り、川路大警視の下で近代警察が陣容を整えていく一方、旧体制において警察力を担っていたかれらは仕事を失っていったわけではない。警視庁創設期において、旧警察機構に携わっていたものを雇い入れ、そのノウハウを取り入れることは当然に行われたし、雇い入れられないまでもそれまで通りに捜査に協力するものも存在した。この店は、そういった元御用聞きが情報を売るための場所なのだった。
「捻木太輔という男だ。警視庁に勤めているが、一月ほど前から姿が消えている」
「近頃世間を騒がせている事件に関係がありますね」
 座敷の奥から、声が響く。はじめに聞いたものとは性別も年齢も異なる声だ。この答えが返ってくるからには、つまり、情報屋の間ではすでに捻木の犯行は知られているということだろう。それを伏せていることを責めはしない。情報はかれらの商材だ。仕入れた商材を最大に高く売れる機会を待って売りつけることを責めはできまい。藤田は畳の上に札束を放り出した。さすがに、自費ではない。捜査費として大警視より支給されたものが出所だ。
「奴さんなら、今時分は魚塔廊って郭だな」
 また、別の声が別の方向から響く。
「妓のところにいるのか。その相手が事件の原因か」
「申し訳ございませぬ、そこまでは、我らの網にもかかっておりません」
 続けて藤田がいくつかの質問を行い、尋ねることのなくなった頃、どこからともなく彼の目の前に膳が現れた。藤田は江戸の御用聞きがいかなる習慣を持つのかは知らない。ただ、この店の習慣がどう考えても一般的ではないことはわかる。
 急ぎ気味に早めの昼食を腹に収めると、かれは買った情報のとおりの楼閣へと足を向けた。
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