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プロローグ
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Bistro Gens joyeux。日本語に訳すと『陽気な人々』。
その店の中で北条 一花はカウンターに座り、一つの皿と向き合っていた。
スプーンですくう中身は、ビーフシチュー。
とろりとした茶色いビーフシチューを口へと運ぶ。
瞬間、目を見開いた。
まろやかで複雑な野菜と肉のハーモニー。じっくり煮込まれた塊肉は、歯が必要ないほどに柔らかい。溶け合う人参は面取りがされているおかげで歯触りがよく、玉ねぎの優しい甘みがそっと口の中で優しくとろける。
一花は思った。
美味しい。
こんなに美味しいビーフシチューを食べたのは久しぶりだ。
それこそ昔に家族でこの店へと来ていた時以来……いやもしかしたら、それ以上に美味しいビーフシチューかもしれない。
至高の一皿を前に、しかし一花は落胆した。
その原因は言わずもがなである。
店の中が……目も当てられない惨状になっているからだ。
ほとんどの照明が切れかけた店内には陰気な光が投げかけられており、テーブルには埃が積もっている。床は、掃除が全くされていなかったせいでベトベトしていた。いくつかの棚に飾られた陶器や皿はくすんだ鈍色の光沢をたたえ、もはや無い方が店の景観がいくらかマシになるほどだ。
おおよそ客を招き入れる状態ではない店内で、極め付けに酷いのは一花の目の前に立っているシェフだろう。
進藤 歩。二十八歳。
百九十センチはあるこのシェフは、きりりとした表情をしていれば誰もが振り返る美貌の持ち主だ。短く切ったウェーブがかった黒髪も、引き締まった体躯も、そして切れ長な瞳にすっと通った鼻筋も、文句なしの完璧なイケメンである。
見た目がいいだけではなく、味も良いものを提供しているのだ。この東京都は武蔵野市、吉祥寺という激戦区に店を出していても、彼がしっかりしてさえいれば店は大繁盛待った無しである。『本場フランスで修行を積んだ若手イケメンシェフ、父の店を継いで二代目店主として吉祥寺のビストロ店で腕を振るう!』という見出しが一花の脳内で踊った。
しかし……。
一花はそっとスプーンを置いた。
びくりと進藤の体が縮こまり、恐れおののいた表情で一花を見る。
「あ……どうしたんだい。不味かったかい……?」
そうして進藤は、一花がまだ何も言っていないうちから大きなため息をついた。
「はぁぁぁぁ……そうだよな、僕が作るビーフシチューなんて……美味しくないに決まっている……不味いものを食べさせて申し訳ない。これは捨てよう」
「待ってください」
カウンター内から手を伸ばし皿を下げようとする進藤に抵抗するように、一花はがっしりと平皿を掴んで離さなかった。そして半ば睨むように進藤の目を見据える。形のいい瞳が不安げに揺れたが、御構い無しだ。
「美味しいですよ、このビーフシチュー」
そして平皿に乗ったビーフシチューをかきこむ。本当はもっと味わって食べたかったが、この分だといつまた皿を取り上げられるかわかったものではない。
きれいに平らげた一花は、両手を合わせる。
「ご馳走様でした。今まで食べたお料理の中で一番美味しかったです」
「そ……そんなの……嘘だ。見え透いたお世辞だ」
「嘘なんてついていません。美味しいです。私はこのビーフシチューが大好きです。毎日食べても飽きないくらいです。世界で一番美味しいです」
「嘘だ!!」
進藤は一花の話を一刀両断し、両手で頭を抱えてブンブンと振り始めた。
「嘘だ……嘘だ!! どうせ皆、そうやって僕のことを騙すんだ! 明美だってそうだった!!」
進藤はそれから体を左右にくねらせながら、勝手にヒートアップして叫び出す。
「そうだ、明美……明美が全部悪いんだ。あんなに僕のことを好きって言ってくれていたのに……ころっと手のひらを返して……! あぁ、こんな事になるくらいなら、僕はもう一生一人でいい! 誰も好きになんかならない! 明美、明美……! あううううう!!」
いい年をした高身長のイケメンが情けない顔と声でのたうち回る姿など見たい人間はいないだろう。がっかりを通り越して、がっっっっっっかりである。
しかし一花は、ここ数日間のやり取りの中でこうした進藤の態度にすっかり慣れつつあった。
どれだけイケメンであろうとも、この性格はいただけない。
だが一花にはこのヘタレ残念イケメンを助けるべき理由があった。
「進藤さん」
「あうううう、僕はもう傷つきたくない。恋する相手は、テレビの中の女優だけで十分だ!」
「進藤さん!」
一花が進藤の叫びに負けないように大きな声を出すと、進藤の動きがピタリと止まる。その隙を逃さずに一花は言った。
「明美さんのところに行きますよ」
「…………え?」
「行きますよ。殴り込み」
その店の中で北条 一花はカウンターに座り、一つの皿と向き合っていた。
スプーンですくう中身は、ビーフシチュー。
とろりとした茶色いビーフシチューを口へと運ぶ。
瞬間、目を見開いた。
まろやかで複雑な野菜と肉のハーモニー。じっくり煮込まれた塊肉は、歯が必要ないほどに柔らかい。溶け合う人参は面取りがされているおかげで歯触りがよく、玉ねぎの優しい甘みがそっと口の中で優しくとろける。
一花は思った。
美味しい。
こんなに美味しいビーフシチューを食べたのは久しぶりだ。
それこそ昔に家族でこの店へと来ていた時以来……いやもしかしたら、それ以上に美味しいビーフシチューかもしれない。
至高の一皿を前に、しかし一花は落胆した。
その原因は言わずもがなである。
店の中が……目も当てられない惨状になっているからだ。
ほとんどの照明が切れかけた店内には陰気な光が投げかけられており、テーブルには埃が積もっている。床は、掃除が全くされていなかったせいでベトベトしていた。いくつかの棚に飾られた陶器や皿はくすんだ鈍色の光沢をたたえ、もはや無い方が店の景観がいくらかマシになるほどだ。
おおよそ客を招き入れる状態ではない店内で、極め付けに酷いのは一花の目の前に立っているシェフだろう。
進藤 歩。二十八歳。
百九十センチはあるこのシェフは、きりりとした表情をしていれば誰もが振り返る美貌の持ち主だ。短く切ったウェーブがかった黒髪も、引き締まった体躯も、そして切れ長な瞳にすっと通った鼻筋も、文句なしの完璧なイケメンである。
見た目がいいだけではなく、味も良いものを提供しているのだ。この東京都は武蔵野市、吉祥寺という激戦区に店を出していても、彼がしっかりしてさえいれば店は大繁盛待った無しである。『本場フランスで修行を積んだ若手イケメンシェフ、父の店を継いで二代目店主として吉祥寺のビストロ店で腕を振るう!』という見出しが一花の脳内で踊った。
しかし……。
一花はそっとスプーンを置いた。
びくりと進藤の体が縮こまり、恐れおののいた表情で一花を見る。
「あ……どうしたんだい。不味かったかい……?」
そうして進藤は、一花がまだ何も言っていないうちから大きなため息をついた。
「はぁぁぁぁ……そうだよな、僕が作るビーフシチューなんて……美味しくないに決まっている……不味いものを食べさせて申し訳ない。これは捨てよう」
「待ってください」
カウンター内から手を伸ばし皿を下げようとする進藤に抵抗するように、一花はがっしりと平皿を掴んで離さなかった。そして半ば睨むように進藤の目を見据える。形のいい瞳が不安げに揺れたが、御構い無しだ。
「美味しいですよ、このビーフシチュー」
そして平皿に乗ったビーフシチューをかきこむ。本当はもっと味わって食べたかったが、この分だといつまた皿を取り上げられるかわかったものではない。
きれいに平らげた一花は、両手を合わせる。
「ご馳走様でした。今まで食べたお料理の中で一番美味しかったです」
「そ……そんなの……嘘だ。見え透いたお世辞だ」
「嘘なんてついていません。美味しいです。私はこのビーフシチューが大好きです。毎日食べても飽きないくらいです。世界で一番美味しいです」
「嘘だ!!」
進藤は一花の話を一刀両断し、両手で頭を抱えてブンブンと振り始めた。
「嘘だ……嘘だ!! どうせ皆、そうやって僕のことを騙すんだ! 明美だってそうだった!!」
進藤はそれから体を左右にくねらせながら、勝手にヒートアップして叫び出す。
「そうだ、明美……明美が全部悪いんだ。あんなに僕のことを好きって言ってくれていたのに……ころっと手のひらを返して……! あぁ、こんな事になるくらいなら、僕はもう一生一人でいい! 誰も好きになんかならない! 明美、明美……! あううううう!!」
いい年をした高身長のイケメンが情けない顔と声でのたうち回る姿など見たい人間はいないだろう。がっかりを通り越して、がっっっっっっかりである。
しかし一花は、ここ数日間のやり取りの中でこうした進藤の態度にすっかり慣れつつあった。
どれだけイケメンであろうとも、この性格はいただけない。
だが一花にはこのヘタレ残念イケメンを助けるべき理由があった。
「進藤さん」
「あうううう、僕はもう傷つきたくない。恋する相手は、テレビの中の女優だけで十分だ!」
「進藤さん!」
一花が進藤の叫びに負けないように大きな声を出すと、進藤の動きがピタリと止まる。その隙を逃さずに一花は言った。
「明美さんのところに行きますよ」
「…………え?」
「行きますよ。殴り込み」
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