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【第五章】終夜の影
24 : 約束の日
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正式な書状は、封蝋に家章を刻んで届けられた。
その夜、エリオは私室にルクスを呼んだ。
「……決まった」
エリオは簡潔に告げる。
ルクスは一拍だけ目を閉じ、それから小さく頷いた。
「約束、だったから。あなたの婚約が決まるまでって」
ルクスの声は穏やかだった。
その穏やかさこそが、深く痛んだ。
エリオの伸ばしかけた手が止まる。
触れない――その一線を守ることが、初めて欲して求めた相手への礼儀だった。
ルクスは淡く微笑む。
「僕は、あなたにもらうばかりだった」
「違う」
エリオは短く否定した。
「君は、君からしか得られないものを、俺に与えてくれた」
ルクスは、またひとつ微笑みをこぼす。
「あなたが歩む道に、いつも幸運があるように」
「君が生きる場所が、いつも灯っているように」
抱擁も、口付けもなかった。
互いの選択と矜持を尊重した、静かな別れだった。
グランヴェレス公爵家嫡男、エリオの婚約が発表された。
相手は、グランヴェレス公爵家と並ぶ高位貴族、ヒメラルド公爵家令嬢。
家格も血筋も釣り合いが取れ、政治的にも双方に利のある、家と家が織り上げた申し分のない組み合わせだった。
この発表でにわかに色めきたったのが、貴族と、そして商家だった。
数多の令嬢たちが婚約者候補として列をなしていたエリオに正式な婚約者が決まったことで、その選から降りた令嬢たちの新たな婚約がこれから次々に決まっていくことになる。
そして、その婚約と結婚の波には、宝石などの装飾品は、身につけるにも贈り物としても不可欠で、商家にはまたとない稼ぎ時となるのだった。
数日後、エリオはグランヴェレス公爵家当主である父親とともに、ヒメラルド公爵邸を訪れた。
通された応接間の高い天井からは、職人の技と粋に磨かれたシャンデリアが下がっていた。
床には濃藍と金の幾何学模様の絨毯が敷かれ、椅子や卓の曲線が優雅さを漂わせる。
どこを切り取っても絵画のような、格式と瀟洒の空間だった。
やがて、ヒメラルド公爵夫妻とともに、婚約者が入ってきた。
彼女は静かに礼を取った。
あふれる気品が、彼女の輪郭を形作っていた。
顔を上げた彼女を見た瞬間、その容姿よりも、表情よりも、瞳の色に息を呑む。
ルクスと同じ色だった。
胸の奥が、わずかに波立つ。
――似ているのは、ただの色だ。
ルクスを欲したようには、彼女を欲することはないだろう。
しかし、敬意を払い、責任を果たすことはできる。
婚約者の瞳の、青紫色の奥に、もう二度と手に入らぬ存在を重ねてしまう自分を、けして表には出さぬまま。
エリオは、グランヴェレス公爵家を継ぐ者として歩み続ける。
唯一欲したものを永遠に過去として閉じ込め、与えられた未来を選び取る者として。
その夜、エリオは私室にルクスを呼んだ。
「……決まった」
エリオは簡潔に告げる。
ルクスは一拍だけ目を閉じ、それから小さく頷いた。
「約束、だったから。あなたの婚約が決まるまでって」
ルクスの声は穏やかだった。
その穏やかさこそが、深く痛んだ。
エリオの伸ばしかけた手が止まる。
触れない――その一線を守ることが、初めて欲して求めた相手への礼儀だった。
ルクスは淡く微笑む。
「僕は、あなたにもらうばかりだった」
「違う」
エリオは短く否定した。
「君は、君からしか得られないものを、俺に与えてくれた」
ルクスは、またひとつ微笑みをこぼす。
「あなたが歩む道に、いつも幸運があるように」
「君が生きる場所が、いつも灯っているように」
抱擁も、口付けもなかった。
互いの選択と矜持を尊重した、静かな別れだった。
グランヴェレス公爵家嫡男、エリオの婚約が発表された。
相手は、グランヴェレス公爵家と並ぶ高位貴族、ヒメラルド公爵家令嬢。
家格も血筋も釣り合いが取れ、政治的にも双方に利のある、家と家が織り上げた申し分のない組み合わせだった。
この発表でにわかに色めきたったのが、貴族と、そして商家だった。
数多の令嬢たちが婚約者候補として列をなしていたエリオに正式な婚約者が決まったことで、その選から降りた令嬢たちの新たな婚約がこれから次々に決まっていくことになる。
そして、その婚約と結婚の波には、宝石などの装飾品は、身につけるにも贈り物としても不可欠で、商家にはまたとない稼ぎ時となるのだった。
数日後、エリオはグランヴェレス公爵家当主である父親とともに、ヒメラルド公爵邸を訪れた。
通された応接間の高い天井からは、職人の技と粋に磨かれたシャンデリアが下がっていた。
床には濃藍と金の幾何学模様の絨毯が敷かれ、椅子や卓の曲線が優雅さを漂わせる。
どこを切り取っても絵画のような、格式と瀟洒の空間だった。
やがて、ヒメラルド公爵夫妻とともに、婚約者が入ってきた。
彼女は静かに礼を取った。
あふれる気品が、彼女の輪郭を形作っていた。
顔を上げた彼女を見た瞬間、その容姿よりも、表情よりも、瞳の色に息を呑む。
ルクスと同じ色だった。
胸の奥が、わずかに波立つ。
――似ているのは、ただの色だ。
ルクスを欲したようには、彼女を欲することはないだろう。
しかし、敬意を払い、責任を果たすことはできる。
婚約者の瞳の、青紫色の奥に、もう二度と手に入らぬ存在を重ねてしまう自分を、けして表には出さぬまま。
エリオは、グランヴェレス公爵家を継ぐ者として歩み続ける。
唯一欲したものを永遠に過去として閉じ込め、与えられた未来を選び取る者として。
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