影の織り手たち

あおごろも

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【第三章】影の踊り場

14 : 孤独の輪郭

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 その日も、予定どおりに訓練を終えた。
 指示通りの動きーー余分な言葉も、動揺も、見せなかった。
 教官たちの視線が「安定してきた」と評価を含んでいるのがわかる。
 だが、その実感は、カスパルの中にはなかった。
 ひとつひとつを正確にこなすことに集中することで、感情を挟む隙間をあえて消して、この数日をやりすごしていた。

 カスパルは、休憩室の隅に腰を下ろし、深く息を吐いた。
 頭では、何度も整理しようとした。
 ルクスに言うべき言葉も、選びかけては握りつぶすーーそれを繰り返すうちに、時間だけが過ぎていく。
 少しでも気が逸れると、エリオの言葉が脳裏に浮き上がってくる。

ーー可能性をつぶすくらいなら、手放せ。それができないなら……おまえが、しっかりしろ。

 手のひらには、あの夜、握りしめた拳の、爪が食い込んだ跡が薄くのこっていた。
 こんなふうに、どちらも選べず立ち尽くすほどに、ルクスとの時間は浅くない。
 それなのにーー



 シャワーを浴びて着替えを済ませた頃には、夕食の時間が近付いていた。
 食堂には向かわず、外出申請を提出する。

 今日も、父からの伝令が届いていた。
 今夜はヴェルク伯爵のご子息が来られる、と。
 要するに、今夜も〈下見〉だ。
 溜息は出なかった。
 ただ、胸のどこかが鈍く冷える。

 外出申請の許可を待って、士官学院の門を出ると、あたりはすでに薄暮に包まれつつあった。

 屋敷に戻ると、出迎えた執事が、いつもより丁寧に口を開く。
 父はすでに客人とともに席についているらしかった。
 客人ーーヴェルク少尉は、士官学院を優秀な成績で卒業し、現在は第一近衛に所属している。
 彼の父である伯爵は今も地方領地にいて、すぐに中央へは出られないため、中央勤めの兄が先に、彼の妹の縁談の〈下見〉に訪れたーーこれは、縁談の話そのものが、まだ当主が動く段階に至っていないことを示してもいる。

 扉の向こうに、父の笑い声がうっすらと聞こえた。
 カスパルは一度だけ息を整え、応接間の扉をノックした。

「やっと戻ったか」

 父の声が扉越しに響き、カスパルは静かに扉を押し開けた。
 広々とした応接間。
 深紅の絨毯の上に置かれた重厚な応接椅子に、父とヴェルク少尉が向かい合って座っていた。
 ヴェルク少尉は、姿勢を正したカスパルに目を向け、軽く会釈した。

「お会いするのは、初めてでしたね」

 親しみを感じさせるやわらかな口調だったが、目の奥には観察の気配が透けていた。

「ええ。ようこそお越しくださいました」

 カスパルも応じる。
 ただの形式的なやりとりだ。
 それでも、表面を繕うことは求められている。

「まあ、堅苦しいのは抜きにして。せっかく来ていただいたんだ」

 父が手元のグラスに口をつけ、低く笑った。

「無理を言ってしまったが、わざわざ時間を作っていただき、ありがたい」
「いえ、お招きに与れたこと、光栄に思います。お話は、以前より父からも聞いておりましたので」

 カスパルはその言葉を、表情を変えずに聞く。
 ヴェルク少尉の口ぶりは丁重だったが、その父ーー伯爵からの評がどういうものかは定かではない。

「ああ、妹御のことは、すでに伺っている。今日はその件について、まずは顔合わせだけでもと思ってね」

 そう切り出したのは父だった。
 これはまだ正式な縁談ではないーーその含みは、双方が承知しているはずだった。

「ええ。ただ、あいにく父も妹も地方におりまして、本格的な段に至るのは、もうしばらく先になるかと」

 ヴェルク少尉は穏やかに応じたが、その返しもまた、抜かりなく調整された言葉だった。

「学院でのご様子については、先ほど少し、御父君からもうかがいました」

 視線をカスパルに向けながら、言葉の端にわずかに含みを残した。

「実績を着実に積み、周囲からの信頼も厚いと」
「……ありがたいことです」

 カスパルはわずかに笑みを添えながら、応じた。



 屋敷の玄関で、ヴェルク少尉が礼儀正しく頭を下げ、父も応じてわずかに顎を引いた。
 母はその横で穏やかに微笑み、控えていた執事が、馬車までの案内に数歩前へ出る。
 ひととおりの挨拶を終え、扉が閉じると、カスパルは父と母に告げる。

「では、僕はこれで失礼します」

 すぐさま父の声が返ってきた。

「明日以降も来客の際には、同席するように」
「お役に立てれば光栄ですが……今後お越しになるのは、まだ様子見の方々かと。父上だけでお迎えされた方が、印象として格が保てるかと思います」

 父の眉がわずかに動いたのを横目にとらえて、カスパルはさらに言葉を重ねた。

「現時点では、あくまでプレフェクト〈候補〉に過ぎません。確実に就任を果たすためにも、学院内で結果を出し続ける必要があります」

 淡々とした語り口だったが、その一語一語に、相手の損得勘定を正確に突くような計算があった。

「とくに今後、課程内容が流動的になると聞いています。こちらに戻る頻度も調整が必要かと」

 母が一瞬、何かを言いかけてから、思い直したように口を閉じる。

「学院での立ち位置が盤石となれば、家としての立場も自ずと強まります。まずは、今しばらく、そちらを優先に」

 丁寧に言葉を選びながら、しかし明確な線引きがあった。
 父は何か言いたげに腕を組み替えたが、結局、黙って頷くにとどまった。

「……では、僕はこれで。寮の点呼までには戻らなければなりませんので」

 執事が黙って扉を開け、カスパルの帰路がひらかれる。
 一呼吸の間に、外へ出る。
 父と母が、カスパルを呼び止めることはなかった。


 役割が変われば、接し方も変わる。
 それが、カスパルにとっての〈家〉というものだ。

 父と母にとって、子は〈家の資産〉だった。
 価値が上がれば手元に引き寄せ、下がれば視界の隅に置かれる。
 ほんの数日前まで、家の中で彼に向けられる関心など、たいしたものではなかった。
 それが、プレフェクト候補に名が上がった途端、これだ。
 縁談の下見も、そうした機を見て動く類のひとつ。

ーーけして、僕個人を見ているわけじゃない。

 カスパルはその視線の冷たさを、幼いころから、ずっと知っていた。


 だからこそ、あのやさしい光が、時に痛い。
 どんな時もまっすぐな目で、取り繕った姿など見抜いてしまう。
 けれど、向けられるその目を、厄介だと思うことはあっても、煩わしいとは思わなかった。


 石畳を踏む音が、夜気に吸われていく。
 士官学院の灯が、通りの先に見えてきた。
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