影の織り手たち

あおごろも

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【第三章】影の踊り場

18 : 溶け合う輪郭

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 休日の午後。
 エリオは自室のソファに腰掛け、ぼんやりと本を開いていた。
 先ほどからまるで進まぬ頁は、そのまま意識の停滞を映し出している。

 座学や訓練、任務がある間は、まだ動けた。
 そうでない時間も、何かしら理由をつけて意識を逸らし、やり過ごしてきた。
 しかし、すべきことは些細な雑務までやり尽くしてしまった。
 積み上げていた私物のケースまで整理してしまっては、いよいよ意識を逸らす手段が尽きる。
 手持ち無沙汰に適当に本を開いてみても、すでに読み込んだ内容では、意識を引き込む力もなく。
 エリオは物憂げに、ひとつため息を落とした。

 唐突に耳慣れた機械音が鳴る。
 机の上の端末に目を向ける。
 ありがたい、とばかりに、膝の上に広げていただけの本をソファへ放り出し、長い足で机に歩み寄る。

 通知の中身を確認し、訝しげに眉間を寄せた、その時。
 軽く、ドアをノックする音がした。
 通知に気を取られながらも、反射的に返事をする。

「……失礼します」
「………………ルクス?」

 数日ぶりに目にした顔と、机上の端末を、エリオは交互に見やった。

「……なぜ来た」

 エリオの声には、明らかな戸惑いがにじんでいた。

「体調が回復したので、明日から通常の訓練に戻ります」
「……ああ、それは、今、カスパルから連絡が来た」

 机をはさみ、ドアを背にしたルクスと、距離を保ったまま、視線だけが絡む。
 エリオは逡巡の後、口を開いた。

「……君には、申し訳ないことをした。……これでも反省している。もう、二度と軽率に君に……あんなふうに触れたりはしない」

 ルクスは黙ったまま、ほんのしばらく立ち尽くしていたが、やがて、ぽつりと呟いた。

「……してくれていいのに」
「……何?」
「カスパルも、試してみるのもいいかもって」

 声音にはどこか照れが混じっていたが、確かな意志が含まれていた。

「君は、カスパルが言えば何でも聞くのか?」

 自分の言葉に滲んだ苛立ちに、エリオは気付く。

「そういうわけじゃないけど」

 ルクスは、ほんの少しだけ視線を落とした。

「……もう、欲しくなくなった?」
「君は……」

 エリオはこめかみに手をあて、思わず顔をしかめる。
 先ほどよりも長く思える逡巡の後、エリオはドアの前に立つルクスのそばへと歩み寄る。
 そして、ルクスの頬に手を伸ばしーー止めた。

「……触れてもいいか?」

 返事の代わりに、ルクスはそっとその手に頬を寄せる。
 掌に伝わるぬくもりに、エリオの鼓動がひときわ強く跳ねた。
 もう片方の頬にも手を添え、存在の重みを確かめるように、唇を近付ける。
 かすかなためらいを孕んだ、最初のキス。
 ルクスは目を伏せたまま、それを受け入れた。
 二度、三度と重ねるうちに、息遣いが少しずつ変わっていく。
 やがて、ルクスの唇がそっと応えるように動いた。



 近付いてくる唇に気付いたとき、喉がわずかに鳴った。
 最初のキスは、とても静かで、あたたかく、少しだけ震えが混じっていた。
 ルクス自身のものか、エリオのものか、それはわからなかった。
 二度、三度と唇が重なるうちに、息が浅くなるのが自分でもわかった。
 気付けば、自ら唇をそっと動かしていた。

 頬をなぞるエリオの指が、首筋へと滑る。
 反射的に、身体がわずかにこわばった。
 けれど、逃げようとは思わなかった。
 鎖骨のすぐ下に落ちた唇に、身体がかすかに震える。
 触れられた場所から、息が詰まるような熱がじんわりと広がっていく。
 エリオの手が、首や、背中や、腰をなぞるたびに、思わず息を吸った。
 自分の身体が、こんなにも敏感に反応することに戸惑いながらも、もっと知りたい、触れられたい――そう求めている自分を、確かに感じていた。

「……もっと、触れても?」

 囁かれたその声に、ルクスは思わずエリオの背に手をまわしていた。
 それがどういう意味をもつのか、考えるより先に、身体が動いていた。

 吐息が、耳もとをかすめる。
 くすぐったさと、痺れるようなざわつきが混ざって、喉の奥がひくりと動いた。
 流されそうになる意識を抑えて、ルクスは告げる。

「……ひとつだけ、約束してくれたら」

 言えなくなってしまう前に、言っておかなければならないことがあった。



 カスパルは氷のうを頭に乗せたまま、ベッドに沈み込んでいた。
 ここ数日の〈演算〉の酷使に、さすがに限界がきた。
 まして、これまで使ったことのない回路を必死に動かしたのだ。
 反動でこうなることは、わかっていた。

 薄く目を開け、時計の針に視線を向ける。
 ルクスがエリオの部屋へ向かってから、小半時──まだ戻っていないということは、予定どおりに事が運んでいるのだろう。

 試してみてもいいかもしれない、と言った。
 もともと、ルクスにはエリオを意識していた節があったし、エリオは、初めての相手としては悪くない。
 それに、エリオのほうから、欲しい、と言ったのだ。

「……本気で欲しい相手には、あんなふうになるのか」

 ぽつりと落としたひとり言が、静まり返った室内に、妙に大きく響いた気がした。

 カスパルとエリオは、どちらもかなり幼い頃から能力を発露させていた。
 能力研究機関ではよく顔を合わせたし、士官学院に入る前の子どもたちが集められていた中でも、特に年が近かった。
 いわば、幼馴染のようなものだった。

 そんな頃から知っている相手の、初めて見る顔が、ここ数日で何度もあった。

「あんな条件、あいつに都合がよすぎるんじゃないかと思ったけど……」

 欲しさに任せて無遠慮に手を出してしまったことは反省していたし、同じ過ちは繰り返さない──これまで見てきた人となりからも、それは信じられる。

 けれど、エリオは根っからの高位貴族の嫡男だ。
 〈家〉が己であり、己が〈家〉であるということに、疑問の余地などない。
 本人もまた、それを当然の義務として受け入れている。
 その事実が、エリオという人間をエリオたらしめている。

 変えようのない道を歩むエリオを、時が来れば見送るために、ルクスは、自分のほうから境界線を引くことにしたのだーー手放すために。

「君が、少しでも傷つかないことを願うよ」

 静かに呟くと、カスパルは目を閉じた。



 寝室のベッドの上で、ふたりは睦み合っていた。
 衣擦れの音も、浅く重なる息遣いも、くぐもった世界の中で柔らかく響く。
 腰へと滑る手、膝裏に添えられる指ーーそのひとつひとつが、ルクスの知らなかった感覚を呼び覚ましていく。
 腹部を撫でられ、太腿の内側をそっとなぞられるたびに、じわりと熱が灯っていった。
 脚がゆるく開かれる。
 その動きに導かれるように、意識も、身体も、開かれていく。
 そして奥へと触れられた瞬間ーールクスは反射的に、エリオの手を掴んでいた。

 エリオの動きが止まる。

「……ルクス」

 名前を呼ぶ声が、肌を透かして、内側へと沁みてくる。

「……無理なら、言ってくれ」

 声も、唇も、少しでも動けば触れられるほど近い距離にある。

「……やっぱり、まだ少し怖いかも」

 そう伝えると、エリオはそっと額にキスを落とした。
 頬へ、唇へと、止めた手の代わりのように、エリオの唇が静かに触れていく。
 張りつめた膜をほどくように、優しく口付けを重ねていく。
 熱が、喉の奥へ、胸の奥へと染みていく感覚の中で、ルクスは掴んでいた手を、おそるおそる離した。

 エリオは、ゆっくりと動き始めた。
 確かめるように、あてがった指で、慎重に、奥へと進んでいく。
 激しく動くことはしない。
 ただ、少しずつ、こわばりを溶かすように。

 怖がらせないようにしてくれているーーそのことが、はっきりと伝わってきた。

 息が跳ね、喉が震える。
 痛みと熱、そして見たことのない景色が、ひとつひとつ、ひらかれていく。
 堪えていた声は、唇を分け入るようなキスに攫われ、露わになった。
 強い波に呑まれるような感覚の中で、ふたりの輪郭は密に溶け合っていった。
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