悪役令嬢グラッセは婚約破棄を「請求」する!

恋の箱庭

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舞踏会の喧騒が去った、深夜の王城。

静まり返った中庭の片隅で、ピンク色のドレスを着た影がコソコソと動いていた。

ミナだ。

彼女は周囲を警戒しながら、懐から小さな通信用魔道具を取り出した。

「……こちら『ピンク・スパイダー』。応答願います」

ささやくような声で呼びかける。

『……こちら指令本部。どうした、定時報告か?』

魔道具から、加工された低い声が返ってきた。

ミナの声色が、いつもの甘ったるいものから、低く冷たいものへと変わる。

「作戦は難航しています。ターゲットであるアラン王子は完全に無力化……いえ、廃人化させましたが、予想外の障害が発生しました」

『障害? あの『悪役令嬢』のことか?』

「はい。グラッセ・ド・ラズベリー……。あいつは化け物です。私のハニートラップも、泣き落としも、デマ工作も、すべて金儲けのタネにされてしまいました」

ミナは悔しげに唇を噛んだ。

そう。彼女の正体は、隣国(帝国とはまた別の国)から送り込まれた工作員(スパイ)。

任務は『アラン王子を篭絡し、王家を内部から崩壊させること』。

そのために、計算された「天然ぶりっ子」を演じ、王子の婚約者という地位を狙っていたのだ。

「しかも、あろうことか私、ターゲットの元婚約者に多額の借金をしてしまい……首が回りません」

『な、何をしているんだ貴様は! 工作資金はどうした!』

「王子が『君のためだ』って無駄遣いばかりするから、経費が底をついたんです! ドレス代も、エステ代も、全部グラッセへの借金になって……」

『ええい、役立たずめ! もういい、プランBに移行せよ。王城の宝物庫に火を放ち、混乱に乗じて……』

「おやおや、物騒な相談ですね」

その時。

暗闇から、冷ややかな声が降ってきた。

「ひっ!?」

ミナが飛び上がって振り返ると、月明かりの下、優雅に扇を広げた私が立っていた。

隣には、面白そうにニヤつくシリルもいる。

「グ、グラッセ!? なんでここに……!」

「なんで? 舞踏会の『延長料金』の請求書を王子に渡しに来たのですが、庭で怪しい独り言が聞こえたもので」

私はミナの手にある魔道具を指差した。

「『ピンク・スパイダー』? 随分と可愛らしいコードネームですね。毒蜘蛛のつもりかしら?」

「き、聞いたのね……!」

ミナの表情が一変した。

可愛らしい令嬢の仮面を脱ぎ捨て、鋭い眼光を放つ。

彼女はスカートの太ももから短剣を抜き、逆手に構えた。

「聞かれたからには生かしておけないわ。……そうよ、私はスパイ。この国を滅ぼすために来たの」

「ほう、スパイか」

シリルが感心したように言う。

「通りで、ただの男爵令嬢にしては手際がいいと思った。王子の堕落させっぷりは見事だったぞ」

「うるさい! 死になさい!」

ミナが地面を蹴り、私に向かって殺到する。

その動きは、素人ではない。訓練された暗殺者のそれだ。

「シリル閣下、お願いします」

「やれやれ、追加料金だぞ」

シリルが軽く手を振る。

カキンッ!

ミナの短剣が、何かに弾かれて宙を舞った。

「えっ……?」

シリルが投げたのは、ただのコイン(金貨)だった。

指先だけで放たれたコインが、弾丸のような威力で短剣を弾き飛ばしたのだ。

「な、なんてデタラメな強さ……!」

ミナが呆然としている隙に、私は彼女の背後に回り込み、首筋に冷たいものを押し当てた。

「動かないで。……これ、何かわかりますか?」

「そ、その感触……小型拳銃!?」

「いいえ、『電卓』の角です」

「は?」

「これ、特注品で角が鋭利なんです。強く押すと頸動脈くらいなら圧迫できますよ」

私は電卓の角をグリグリと押し付けた。

「うっ、うう……降参よ! 煮るなり焼くななり好きにしなさい! どうせ任務失敗で国には帰れないわ!」

ミナはその場にへたり込み、涙を流した。

「ああ、私の人生最悪……。借金まみれで、スパイとしても失敗して……もう死ぬしかないんだわ……」

「死ぬ? 誰が許可しました?」

私は冷たく言い放ち、彼女の前にしゃがみ込んだ。

「ミナ様。あなたにはまだ、私への『債務』が残っています」

「……え?」

私は懐から、分厚い借用書の束を取り出した。

「ドレス代、宝石代、慰謝料、その他もろもろ……利息を含めて金貨一千枚。死んで踏み倒すなんて、私が許すと思いますか?」

「だ、だって……払えないもの……」

「金がないなら、体で払っていただきましょう」

「ひぃっ! な、何をする気!?」

ミナが自分の体を抱きしめる。

私はニッコリと、悪魔の微笑みを浮かべた。

「再就職先を斡旋します。……私の『情報収集部隊(スパイチーム)』にね」

「は……?」

「あなた、スパイとしての基礎能力は悪くないわ。潜入、変装、ハニートラップ……。そのスキル、私の商売のために使いなさい」

私はミナの顎を持ち上げた。

「私のために働き、情報を集め、競合他社を蹴落とす。給料は歩合制。借金は給引きで返済。……どう? 処刑されるよりはマシな条件でしょう?」

ミナは目をパチクリさせた。

「わ、私を……雇うの? 敵なのに?」

「敵? いいえ、今は『多重債務者』兼『従業員』です」

「……ははっ、本当にブレないわね、あなた」

ミナは乾いた笑いを漏らし、諦めたように肩を落とした。

「わかったわよ。……悔しいけど、あんたには勝てないわ。働くわよ、働けばいいんでしょ!」

「商談成立ですね! ようこそ、ラズベリー商会へ!」

私はガッチリと彼女の手を握った。

「コードネームはそのまま『ピンク・スパイダー』でいきましょう。最初の任務は……アラン王子の隠し口座の暗証番号を聞き出すことよ」

「……あんた、本当に鬼ね」

「ありがとう」

こうして。

王家を狙うはずだった女スパイは、私の有能な手駒(と書いて借金奴隷と読む)へと生まれ変わった。

「おい、グラッセ。そいつの処分はそれでいいとして」

シリルが落ちていたミナの魔道具を拾い上げた。

「こいつの雇い主……通信の相手は誰だ? 私の国(帝国)ではないようだが」

「ああ、それね」

ミナが立ち上がり、ドレスの泥を払いながら答えた。

「東方の軍事国家『鉄血の国』よ。最近、大陸制覇を狙って動き出してるの。……あなたたちの『国境ハイウェイ』も、狙われてるわよ?」

「……ほう」

シリルと私は顔を見合わせた。

「鉄血の国……。あそこは確か、レアメタルの産地でしたわね」

私の目が怪しく光る。

「……また、新しい『市場』が開拓できそうだな」

シリルの目も、肉食獣の色を帯びる。

ミナは、ドン引きした顔で私たちを見た。

「……何なの、この二人。国が攻めてくるって言ってるのに、なんで『カモが来た』みたいな顔してるのよ……」

「ふふふ。ミナ、早速仕事よ。その国の軍事機密と、富裕層の名簿を入手してきなさい」

「いきなりハードル高くない!?」

「働かざる者、食うべからず。そして借金減るべからず。……行け!」

「ひぃぃぃ! わかったわよぉ!」

ミナは涙目で闇夜へと消えていった。その足取りは、来た時よりも少しだけ生き生きとしているように見えた。

やはり、人は目的(と返済義務)があると強くなるものだ。

「さて、シリル閣下。私たちも忙しくなりそうですわね」

「ああ。戦争(ビジネス)の準備を始めるとしようか」

月明かりの下、私たちは悪い笑顔を交わした。
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