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カリカリカリカリカリッ!!
静まり返った宰相執務室に、不気味な音が響き続けている。
それは、私の羽ペンが紙の上を疾走する音だ。
「……よし、次! 決裁! 承認! 却下! これは書き直し!」
私は憑かれたように書類を処理していた。
ゾーンに入っている。
ランナーズハイならぬ、ワーカーズハイだ。
人間、極限まで追い詰められると能力以上の力が出るというが、今の私がまさにそれだった。
(終わらせる……! 絶対に終わらせて、今日中にここを出ていくのよ!)
私の頭の中には、愛しい我が家のふかふかベッドと、明日から始まる(予定の)スローライフしかなかった。
「……終わりました!!」
最後の書類にサインを書き殴り、私はペンを机に叩きつけた。
バアンッ! と良い音が響く。
向かいの席で優雅に紅茶を飲んでいたルーカス閣下が、カップを止めて目を丸くした。
「終わった? まさか」
「そのまさかです。ご確認を」
私は積み上げた書類の山を、ドサッと彼の前に移動させた。
「今年度の治水予算の再計算、近隣諸国への根回し用書簡、それから王宮の備品購入リストの精査。すべて完了です」
「……」
ルーカス閣下は無言で一番上の書類を手に取った。
パラ、パラ、とページをめくる音がする。
彼の眉間のシワが、次第に驚愕へと変わっていくのがわかった。
「……完璧だ。計算ミスはおろか、誤字脱字の一つもない。それに、この予算案の削減幅……余剰資金を教育費に回す提案まで付記されているとは」
「当然です。無駄を削ぐのは私の趣味ですから」
私は胸を張った。
「あのバカ王子……失礼、エドワード殿下の下で五年も働けば、これくらい朝飯前です。なにせ殿下は、書類を読む前にハンコを押そうとする方でしたから、私が内容を全て暗記して要約する必要がありましたので」
「……君をあの男の婚約者にしておいたのは、国家的損失だったな」
ルーカス閣下がボソリと呟く。
「お褒めに預かり光栄です。では!」
私は椅子から立ち上がり、スカートの埃を払った。
「仕事は終わりました。契約通り、衣食住の保証はいりませんので、私はこれにて失礼します。探さないでください」
「どこへ行くつもりだ?」
「実家……は危険なので、とりあえず国境付近の別荘へ。そこでほとぼりが冷めるまで野菜を育てて暮らします」
完璧な計画だ。
私は満面の笑みで扉に向かった。
ガチャ。
鍵が開いている。
(勝った! 私の勝ちよ!)
心の中でガッツポーズをし、ドアノブを回して一歩を踏み出そうとした。
その時だ。
「ああ、言い忘れていたが」
背後から、温度のない声が聞こえた。
「その扉の外には、私の直属の近衛騎士団が待機している」
「……はい?」
私は動きを止めた。
「彼らにはこう伝えてある。『部屋から出てきた者は、誰であろうと捕縛し、机の前に座らせろ』とね」
「なっ……!?」
私は慌てて扉を少しだけ開け、隙間から外を覗いた。
いた。
鎧に身を包んだ屈強な騎士たちが、扉の両脇で仁王立ちしている。
しかも二人や三人ではない。
廊下が埋まるほどいる。
「ど、どういうことですか! ここは凶悪犯の独房ですか!?」
私はバタンと扉を閉めて振り返った。
ルーカス閣下は、楽しそうに新しい書類の束を机に出しているところだった。
「君という国家機密を、みすみす逃がすわけがないだろう」
「私は機密じゃありません! ただの令嬢です!」
「これだけの事務処理能力を持つ人間は、我が国において核兵器と同等の価値がある。他国に流出させるわけにはいかない」
「買い被りすぎです!」
「謙遜は美徳ではないよ。さあ、次はこれだ。過去十年分の租税記録の洗い直し」
ドンッ。
先ほど処理した量の倍はある書類タワーが、私のデスクに鎮座した。
目の前が真っ暗になる。
(この男……本気だ。本気で私を死ぬまでこき使う気だわ!)
正面突破が駄目なら、搦め手しかない。
私は視線を走らせた。
執務室には大きな窓がある。
ここは何階だ?
三階だ。
落ちればタダでは済まないが、植え込みの茂みに飛び込めばワンチャンスあるかもしれない。
私は深呼吸をした。
やるしかない。
スローライフのためなら、多少の骨折くらい安いものだ。
「……わかりました。やればいいんでしょう、やれば」
私は観念したフリをして、ふらふらと窓際へ歩み寄った。
「あー、空気が悪いわ。少し換気を……」
「ダイアナ嬢」
「なんですか」
窓の鍵に手をかけた瞬間、背後から気配が消えた。
次の瞬間、私の体は宙に浮いていた。
「きゃっ!?」
「危ないな。窓辺は冷える」
気がつくと、私はルーカス閣下に後ろから抱きすくめられる形で、窓から引き剥がされていた。
いわゆる『バックハグ』という体勢だ。
背中に感じる彼の胸板が、予想以上に厚くて硬い。
耳元にかかる吐息が熱い。
「は、離してください! セクハラで訴えますよ!」
「君が飛び降りようとするから保護しただけだ。安全管理も上司の務めだからね」
彼は悪びれもせずに言い、私を抱えたまま、あろうことか執務机の椅子ではなく、部屋の奥にあるソファへと運んでいく。
「ちょ、どこへ!?」
「少し休憩しよう。君の働きぶりは予想以上だった。ご褒美が必要だ」
「ご褒美なんていりません! 帰宅許可をください!」
「それは無理だ」
ドサッ。
私はふかふかのソファに下ろされた。
逃げようと身を起こすが、すぐにルーカス閣下が覆いかぶさるようにして両手を私の顔の横につく。
逃げ場なし。
至近距離で見る『氷の宰相』の顔は、心臓に悪いほど整っていた。
アイスブルーの瞳が、獲物を狙う猛獣のように細められる。
「君は誤解しているようだが」
「な、何をです……」
「私は君をただの『便利な事務員』として雇ったわけではない」
「じゃあなんなんですか! 奴隷ですか!?」
「いいや」
彼は私の頬に落ちた髪を一房すくい上げ、それに口づけを落とした。
ひやりとした唇の感触に、心臓が跳ねる。
「私の『共犯者』だ。……この国を牛耳るためのね」
「きょ、共犯者……?」
「そうだ。バカな王族も、腐敗した貴族も、君とならすべて一掃できる。想像してごらん。私たちが手を組めば、この国はもっと効率的で、美しくなると思わないか?」
「思いません! 私は畑を耕したいだけなんです!」
「畑なら王宮の庭に作ればいい。私が許可する」
「そういう問題じゃなーーい!!」
私の絶叫が、虚しく執務室に響いた。
この男、話が通じない。
合理的すぎて会話が成立していない。
「さあ、休憩はおしまいだ。お茶が入ったよ」
ルーカス閣下は満足げに離れると、いつの間にか用意されていたワゴンからティーセットを取り出した。
漂ってくるのは、最高級の茶葉の香り。
そして、皿に盛られた宝石のような焼き菓子たち。
「……あ」
私の目が釘付けになる。
王都で一番人気のパティスリー『ラ・メール』の限定マカロンだ。
予約三ヶ月待ちの幻の逸品。
「食べないのか? 糖分補給は効率アップに繋がるが」
「……くっ、卑怯な!」
私は震える手でマカロンを掴んだ。
悔しいけれど、体は正直だ。
甘いものが染み渡る。
(美味しい……! ちくしょう、美味しいわ!)
頬張る私を見て、ルーカス閣下は目を細めた。
まるで餌付けに成功した飼い主のような顔で。
その頃、城の別の場所では、私のいなくなった影響が出始めていた。
静まり返った宰相執務室に、不気味な音が響き続けている。
それは、私の羽ペンが紙の上を疾走する音だ。
「……よし、次! 決裁! 承認! 却下! これは書き直し!」
私は憑かれたように書類を処理していた。
ゾーンに入っている。
ランナーズハイならぬ、ワーカーズハイだ。
人間、極限まで追い詰められると能力以上の力が出るというが、今の私がまさにそれだった。
(終わらせる……! 絶対に終わらせて、今日中にここを出ていくのよ!)
私の頭の中には、愛しい我が家のふかふかベッドと、明日から始まる(予定の)スローライフしかなかった。
「……終わりました!!」
最後の書類にサインを書き殴り、私はペンを机に叩きつけた。
バアンッ! と良い音が響く。
向かいの席で優雅に紅茶を飲んでいたルーカス閣下が、カップを止めて目を丸くした。
「終わった? まさか」
「そのまさかです。ご確認を」
私は積み上げた書類の山を、ドサッと彼の前に移動させた。
「今年度の治水予算の再計算、近隣諸国への根回し用書簡、それから王宮の備品購入リストの精査。すべて完了です」
「……」
ルーカス閣下は無言で一番上の書類を手に取った。
パラ、パラ、とページをめくる音がする。
彼の眉間のシワが、次第に驚愕へと変わっていくのがわかった。
「……完璧だ。計算ミスはおろか、誤字脱字の一つもない。それに、この予算案の削減幅……余剰資金を教育費に回す提案まで付記されているとは」
「当然です。無駄を削ぐのは私の趣味ですから」
私は胸を張った。
「あのバカ王子……失礼、エドワード殿下の下で五年も働けば、これくらい朝飯前です。なにせ殿下は、書類を読む前にハンコを押そうとする方でしたから、私が内容を全て暗記して要約する必要がありましたので」
「……君をあの男の婚約者にしておいたのは、国家的損失だったな」
ルーカス閣下がボソリと呟く。
「お褒めに預かり光栄です。では!」
私は椅子から立ち上がり、スカートの埃を払った。
「仕事は終わりました。契約通り、衣食住の保証はいりませんので、私はこれにて失礼します。探さないでください」
「どこへ行くつもりだ?」
「実家……は危険なので、とりあえず国境付近の別荘へ。そこでほとぼりが冷めるまで野菜を育てて暮らします」
完璧な計画だ。
私は満面の笑みで扉に向かった。
ガチャ。
鍵が開いている。
(勝った! 私の勝ちよ!)
心の中でガッツポーズをし、ドアノブを回して一歩を踏み出そうとした。
その時だ。
「ああ、言い忘れていたが」
背後から、温度のない声が聞こえた。
「その扉の外には、私の直属の近衛騎士団が待機している」
「……はい?」
私は動きを止めた。
「彼らにはこう伝えてある。『部屋から出てきた者は、誰であろうと捕縛し、机の前に座らせろ』とね」
「なっ……!?」
私は慌てて扉を少しだけ開け、隙間から外を覗いた。
いた。
鎧に身を包んだ屈強な騎士たちが、扉の両脇で仁王立ちしている。
しかも二人や三人ではない。
廊下が埋まるほどいる。
「ど、どういうことですか! ここは凶悪犯の独房ですか!?」
私はバタンと扉を閉めて振り返った。
ルーカス閣下は、楽しそうに新しい書類の束を机に出しているところだった。
「君という国家機密を、みすみす逃がすわけがないだろう」
「私は機密じゃありません! ただの令嬢です!」
「これだけの事務処理能力を持つ人間は、我が国において核兵器と同等の価値がある。他国に流出させるわけにはいかない」
「買い被りすぎです!」
「謙遜は美徳ではないよ。さあ、次はこれだ。過去十年分の租税記録の洗い直し」
ドンッ。
先ほど処理した量の倍はある書類タワーが、私のデスクに鎮座した。
目の前が真っ暗になる。
(この男……本気だ。本気で私を死ぬまでこき使う気だわ!)
正面突破が駄目なら、搦め手しかない。
私は視線を走らせた。
執務室には大きな窓がある。
ここは何階だ?
三階だ。
落ちればタダでは済まないが、植え込みの茂みに飛び込めばワンチャンスあるかもしれない。
私は深呼吸をした。
やるしかない。
スローライフのためなら、多少の骨折くらい安いものだ。
「……わかりました。やればいいんでしょう、やれば」
私は観念したフリをして、ふらふらと窓際へ歩み寄った。
「あー、空気が悪いわ。少し換気を……」
「ダイアナ嬢」
「なんですか」
窓の鍵に手をかけた瞬間、背後から気配が消えた。
次の瞬間、私の体は宙に浮いていた。
「きゃっ!?」
「危ないな。窓辺は冷える」
気がつくと、私はルーカス閣下に後ろから抱きすくめられる形で、窓から引き剥がされていた。
いわゆる『バックハグ』という体勢だ。
背中に感じる彼の胸板が、予想以上に厚くて硬い。
耳元にかかる吐息が熱い。
「は、離してください! セクハラで訴えますよ!」
「君が飛び降りようとするから保護しただけだ。安全管理も上司の務めだからね」
彼は悪びれもせずに言い、私を抱えたまま、あろうことか執務机の椅子ではなく、部屋の奥にあるソファへと運んでいく。
「ちょ、どこへ!?」
「少し休憩しよう。君の働きぶりは予想以上だった。ご褒美が必要だ」
「ご褒美なんていりません! 帰宅許可をください!」
「それは無理だ」
ドサッ。
私はふかふかのソファに下ろされた。
逃げようと身を起こすが、すぐにルーカス閣下が覆いかぶさるようにして両手を私の顔の横につく。
逃げ場なし。
至近距離で見る『氷の宰相』の顔は、心臓に悪いほど整っていた。
アイスブルーの瞳が、獲物を狙う猛獣のように細められる。
「君は誤解しているようだが」
「な、何をです……」
「私は君をただの『便利な事務員』として雇ったわけではない」
「じゃあなんなんですか! 奴隷ですか!?」
「いいや」
彼は私の頬に落ちた髪を一房すくい上げ、それに口づけを落とした。
ひやりとした唇の感触に、心臓が跳ねる。
「私の『共犯者』だ。……この国を牛耳るためのね」
「きょ、共犯者……?」
「そうだ。バカな王族も、腐敗した貴族も、君とならすべて一掃できる。想像してごらん。私たちが手を組めば、この国はもっと効率的で、美しくなると思わないか?」
「思いません! 私は畑を耕したいだけなんです!」
「畑なら王宮の庭に作ればいい。私が許可する」
「そういう問題じゃなーーい!!」
私の絶叫が、虚しく執務室に響いた。
この男、話が通じない。
合理的すぎて会話が成立していない。
「さあ、休憩はおしまいだ。お茶が入ったよ」
ルーカス閣下は満足げに離れると、いつの間にか用意されていたワゴンからティーセットを取り出した。
漂ってくるのは、最高級の茶葉の香り。
そして、皿に盛られた宝石のような焼き菓子たち。
「……あ」
私の目が釘付けになる。
王都で一番人気のパティスリー『ラ・メール』の限定マカロンだ。
予約三ヶ月待ちの幻の逸品。
「食べないのか? 糖分補給は効率アップに繋がるが」
「……くっ、卑怯な!」
私は震える手でマカロンを掴んだ。
悔しいけれど、体は正直だ。
甘いものが染み渡る。
(美味しい……! ちくしょう、美味しいわ!)
頬張る私を見て、ルーカス閣下は目を細めた。
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