婚約破棄? ああ、結構です。それより慰謝料の小切手、桁が一つ足りなくてよ?

恋の箱庭

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翌朝。

王都の下町にある安宿「三日月亭」。

薄汚れた看板が揺れるその店の前に、場違い極まりない漆黒の馬車が停まっていた。

金で縁取られた窓枠、最高級の黒馬が四頭立て、そして御者台には直立不動の従僕。

どう見ても貴族、それも最上位の貴族の馬車だ。

近隣の住民たちが「何事だ」「お貴族様がなぜこんな場所に」と遠巻きに見守る中、宿の扉が勢いよく開いた。

「お待たせいたしました! こちら、荷物になります!」

元気よく飛び出してきたのは、私、キャンディ・ヴァイオレットだ。

昨夜の夜逃げスタイルから一転、手持ちの中で最も「金持ちに見える」紺色のドレスに着替えている。

「……本当にこんな場所に泊まっていたのか?」

馬車の窓が開き、ジェラルド公爵が顔を覗かせた。

その表情は、呆れを通り越して感心しているように見える。

「ええ。一泊銅貨五枚。朝食の堅焼きパンと、泥のようなコーヒー付きです。コストパフォーマンスは最高でしたわ」

「泥のようなコーヒーを最高と言う令嬢は君くらいだ」

「味ではなく、安さが最高なのです。さあアンナ、荷物を積んで!」

私の指示で、メイドのアンナが御者と協力してトランクを積み込む。

私はジェラルドのエスコート(というより、手を引っ張られる形)で、馬車の中へと乗り込んだ。

車内はふかふかのクッションと、ほのかに香る白檀の香りに満ちていた。

「座り心地はいかがかな?」

「素晴らしいですわ。このスプリングの反発係数……特注品ですね? 製造コストは一台あたり金貨二百枚といったところでしょうか」

座席に座るなり、お尻で感触を確かめながら原価計算を始める私に、ジェラルドは苦笑した。

「相変わらずだな。昨夜、実家と絶縁してきたとは思えない元気の良さだ」

「絶縁ごときで落ち込んでいる暇はありません。あ、そうだ閣下。これをご確認いただけますか?」

私はハンドバッグから、一枚の紙を取り出した。

昨夜書き上げた「請求書」の写しだ。

「なんだこれは?」

「ロナルド殿下への請求書の控えです。今朝一番で、アンナに頼んで王宮のポストへ投函してきました。文面に不備がないか、法的な観点からチェックをお願いしたくて」

ジェラルドは怪訝そうな顔で紙を受け取った。

そして、読み始めた。

最初こそ、彼は眉をひそめて真面目に読んでいた。

「ふむ……王妃教育費、衣装代……ここまでは妥当だな」

しかし、中盤に差し掛かったあたりで、彼の肩が小刻みに震え始めた。

「……『項目:ロナルド殿下の自作ポエム朗読会への強制参加に対する慰謝料(聴覚への損害)』……?」

「ええ。あれは酷いものでした。『君の瞳はマスカット』だの『愛の海で溺れるカナヅチになりたい』だの、三時間聞かされるこちらの身にもなってください。耳鼻科の診察代も上乗せしています」

「ぶっ……くく……」

ジェラルドが口元を手で覆う。

だが、私は真剣だ。

「次も重要です。『項目:殿下の浮気現場を目撃した際の、驚きによる心拍数上昇に伴う寿命短縮リスク代』」

「寿命短縮……リスク代……?」

「はい。心臓に負担がかかりましたので。医学的根拠はありませんが、請求するのはタダですので」

「……は、ははっ!」

「そして最後。『青春プレミアム損失補填』。これに関しては昨夜説明した通り、私の貴重な十代を捧げたことへの対価です。金利はトイチ(十日で一割)で計算しております」

バンッ!!

ジェラルドが馬車の壁を叩いた。

怒ったのではない。

笑いすぎて、苦しんでいるのだ。

「あっははははは!! トイチだと!? 王族相手に闇金のような金利をふっかける令嬢がどこにいる!!」

「ここにいますわ。契約書がない以上、こちらの言い値が相場です」

「ひいぃ、腹が……腹が痛い……! 『カナヅチになりたい』で耐えきれなかったのに、トイチでトドメを刺された……!」

「氷の公爵」と恐れられる男が、涙を流して爆笑している。

その姿は、ただの笑い上戸な青年にしか見えなかった。

私はキョトンとして彼を見た。

「そんなに笑うことでしょうか? これは正当な商取引の提案ですが」

「商取引……くくっ、そうだな、君にとってはそうなんだろうな」

ジェラルドはひとしきり笑った後、涙を拭いながら深呼吸をした。

乱れた銀髪をかき上げる仕草には、悔しいほどの色気がある。

「いや、すまない。ここ数年、こんなに笑ったのは初めてだ。やはり私の目に狂いはなかった」

彼は改めて、楽しそうな瞳で私を見据えた。

「君は最高だ、キャンディ。その請求書、もし王家が踏み倒そうとしたら私が顧問弁護士を雇ってやろう」

「本当ですか!? 公爵家の顧問弁護士なら百人力ですわ! 成功報酬は取り立て額の一割でいかがでしょう?」

「二割だ」

「……一・五割で手を打ちましょう」

「よかろう。交渉成立だ」

ジェラルドはニヤリと笑い、私に手を差し出した。

私たちは馬車の中でガッチリと握手を交わした。

ロマンスの欠片もない、利益と利益の結託。

しかし、不思議と嫌な気分ではなかった。

「さて、そろそろ私の領地、アイゼンハルト公爵領へ向かうが……その前に一つ、君に伝えておくことがある」

ジェラルドの表情が、ふっと真面目なものに変わった。

空気が少し引き締まる。

「なんでしょう? まさか、給与の減額交渉なら応じませんよ?」

「違う。私の屋敷のことだ」

彼は少し言い淀んだ後、苦い顔をした。

「私の屋敷には、少々……いや、かなり厄介な『古参』がいる。君の前任の経理係も、その者に追い出されたようなものでな」

「古参? お局様ですか?」

「似たようなものだ。筆頭メイド長のマーガレット。私が幼い頃から屋敷を取り仕切っている完璧主義者でね。『公爵家の品格』や『伝統』を重んじるあまり、新しい風を嫌う。君のような……合理的すぎる人間とは、間違いなく衝突するだろう」

なるほど。

伝統を盾に改革を阻む抵抗勢力。

どの組織にも必ず存在する、旧態依然とした管理職タイプか。

私はニヤリと笑った。

「ご心配なく、閣下。私、そういう『伝統』という言葉で思考停止している相手を論破するのが、三度の飯より(飯は別腹ですが)好きなんです」

「……君ならそう言うと思ったよ。だが、手加減はしてやってくれ。彼女も悪気があるわけではないんだ」

「善処します。効率化の邪魔をしなければ、ですが」

馬車は石畳の道を抜け、街道へと走り出した。

窓の外を流れる景色を見ながら、私は新たな戦場(職場)へと思いを馳せる。

待っていろ、公爵家の帳簿。

そしてメイド長。

私の行く手に立ちふさがる「無駄」は、すべて利益に変えてやる。

「ああ、楽しみですわ! 公爵家の経費、どれほどの無駄が埋蔵されているのか……! 想像するだけでご飯三杯はいけます!」

「君、本当にたくましいな……」

ジェラルドの呆れた声をBGMに、私たちの乗った馬車は一路、アイゼンハルト公爵領へとひた走るのだった。
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