婚約破棄? ああ、結構です。それより慰謝料の小切手、桁が一つ足りなくてよ?

恋の箱庭

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公爵邸での生活が一ヶ月を過ぎ、季節は初夏を迎えようとしていた。

私の「業務改善」は留まるところを知らず、今やアイゼンハルト公爵領の財政はV字回復を遂げていた。

無駄な経費の削減、遊休資産(ガラクタ)の売却、そして新たな特産品(サツマイモ羊羹)の開発。

全てが順調に回り、私の預金通帳の残高も右肩上がりだ。

そんなある日の朝食時。

いつものように「栄養効率重視」の山盛りサラダを食べていると、ジェラルドが何気ない調子で言った。

「キャンディ。来週の週末、空いているか?」

「空いていません」

私は即答した。

「来週は『羊羹』の販路拡大のために、領内の商店街を視察する予定です。一分一秒が惜しいので、デートの誘いならお断りします」

「デートではない。仕事だ」

ジェラルドは苦笑しながら、一枚の封筒をテーブルに滑らせた。

金色の箔押しがされた、重厚な封筒。

王家の紋章が入っている。ただし、我が国の物ではない。

「……隣国の、ガルディア王国?」

「ああ。隣国の王太子殿下の誕生祝賀パーティーが開かれる。私も招待されているのだが、パートナーが必要でね」

ジェラルドは優雅にコーヒーを飲んだ。

「君に、私のパートナーとして同行してほしい」

その瞬間。

私の脳内で、警報サイレンが鳴り響いた。

ビーッ! ビーッ! 危険信号! コスト過多の警告!

私はフォークを置き、真顔でジェラルドを見つめた。

「お断りします」

「……即答だな」

「当然です。夜会? パーティー? あんなもの、この世で最も生産性の低いイベントですわ」

私は指を折りながら、夜会のデメリットを列挙し始めた。

「第一に、拘束時間が長い。移動を含めれば半日が潰れます。その間の私の時給はどうなるのですか?」

「第二に、衣装代がかかる。たった数時間のために、二度と着ないような派手なドレスを仕立てるなんて、ドブに金を捨てるようなものです」

「第三に、精神的苦痛(ストレス)。『ごきげんよう、オホホ』と意味のない愛想笑いを繰り返し、中身のない会話に付き合う……考えるだけで胃に穴が開きそうです」

私は深々とため息をついた。

「よって、不参加です。私はその時間で、羊羹のパッケージデザインを考えたいのです」

「……そこまで嫌がるか」

ジェラルドは呆れたように肩をすくめた。

だが、彼は引かなかった。

むしろ、獲物を前にした狩人のような、楽しげな目をしている。

「交渉しよう、キャンディ」

「交渉?」

「君の言い分はもっともだ。夜会は退屈で非効率だ。私も同感だよ」

「では、欠席すればよろしいのでは?」

「そうもいかない。隣国とは貿易の取引がある。顔を出しておかないと、今後の関税交渉で不利になるんだ」

ジェラルドは身を乗り出した。

「つまり、これは『外交』という名のビジネスだ。そして君は、私のビジネスパートナーだろう?」

「……ビジネス、と言われましても。私の担当は領内の経理です。外交は管轄外です」

「そう言うな。……報酬は弾むぞ?」

ピクリ。

私の眉が反応した。

「報酬?」

「ああ。まず、今回の夜会への参加は『休日出勤』扱いとする。時給は平時の五割増しだ」

「……五割増し」

悪くない響きだ。

「次に、衣装代。これは全額、公爵家の経費で落とす。君の懐は痛まない。むしろ、夜会が終わったらそのドレスは君の所有物だ。売ってもいいぞ」

「売却益まで保証!?」

心が揺れる。一度しか着ていないブランド物のドレスなら、古着市場でも高値で売れる。

「さらに」

ジェラルドはトドメとばかりに、指を三本立てた。

「『危険手当』として、金貨三十枚を支給する」

「さ、三十枚!?」

私は思わず椅子から立ち上がった。

金貨三十枚。

それは、平民なら一年遊んで暮らせる金額だ。

たった一晩、愛想笑いをするだけで?

「どうだ? これでも『生産性が低い』と言うか?」

ジェラルドがニヤリと笑う。

私はゴクリと唾を飲み込んだ。

脳内のソロバンが激しく弾かれる。

(時給五割増し+ドレス売却益+金貨三十枚……トータルで見れば、羊羹のデザイン料の百倍近い利益……!)

これは、断る理由がない。

いや、断れば経営者としての資質を疑われるレベルの優良案件だ。

「……ジェラルド様」

私は居住まいを正し、キリッとした表情で彼に向き直った。

「喜んでお供させていただきます。私の愛想笑いは、王都でもトップクラスの品質を保証いたしますわ」

「ははっ! 現金なやつだ」

ジェラルドは満足げに頷いた。

「契約成立だな。……ああ、それともう一つ、君に伝えておくべきメリットがある」

「まだあるのですか?」

「隣国の王家は、食通で有名でね。パーティーのビュッフェには、世界中から集められた珍味や高級食材が並ぶそうだ」

「!!」

「キャビア、トリュフ、最高級のチーズ……食べ放題だぞ」

その瞬間、私の瞳孔が開いた。

「行きます!! 今すぐ行きましょう!! 出発はいつですか!?」

「来週だと言っただろう。落ち着け」

ジェラルドは笑いながら私をなだめた。

「だが、問題が一つある」

「問題?」

「ドレスだ。君は『動きやすさ』と『汚れにくさ』ばかり重視するが、今回は王太子の祝賀会だ。それなりの格好をしてもらわないと、私のパートナーとして恥をかく」

「ああ……」

私は自分の服装を見下ろした。

今日も今日とて、動きやすい紺色の木綿のワンピースだ。

確かに、これで王宮に行けば門前払いだろう。

「分かりました。経費で落ちるなら、最高級のものをあつらえましょう。ただし、条件があります」

「条件?」

「デザインの選定権は私にください。レースひらひら、リボンごてごてのような、防御力の低いドレスは着ませんよ」

「防御力……?」

ジェラルドは首を傾げたが、私は真剣だった。

夜会は戦場だ。

足を踏まれるかもしれないし、ワインをかけられるかもしれない。

何より、ビュッフェで戦うためには、可動域の広いドレスでなければならない。

「任せておいてください。機能美とコストパフォーマンスを両立させた、最強の戦闘服(ドレス)を用意してみせます!」

「……一抹の不安はあるが、まあいい。デザイナーを呼んでおこう」

こうして。

私の「隣国への出張(夜会参加)」が決まった。

その日の午後。

屋敷に呼び出された王都の一流デザイナーと、私との壮絶な「ドレス選びバトル」が勃発することになるのだが……それはまた、別の話。

(待ってらっしゃい、隣国の富裕層たち! そして高級食材たち! このキャンディ・ヴァイオレットが、骨の髄までしゃぶり尽くしてあげますわ!)

私は執務室の窓から隣国の方角を見つめ、不敵な笑みを浮かべた。

その背中を見て、アンナが「お嬢様、顔が山賊になっています」と呟いたのを、私は聞こえないふりをした。
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