婚約破棄? ああ、結構です。それより慰謝料の小切手、桁が一つ足りなくてよ?

恋の箱庭

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隣国ガルディア王国の王宮。

その大広間は、まさに「夢の世界」と呼ぶにふさわしい光景だった。

天井には数千のクリスタルが輝くシャンデリア。

壁には金箔をふんだんに使った装飾。

そして、床を埋め尽くす着飾った貴族たちと、芳醇な料理の香り。

「……確認しました。三時の方角にローストビーフの山、九時の方角に海鮮タワー、そして中央正面奥にデザートビュッフェの要塞があります」

ジェラルドのエスコートで会場に入場した私は、扇で口元を隠しながら、鋭い目つきで戦場(会場)をスキャンしていた。

「素晴らしい配置です。動線が確保されています。これなら、挨拶回りの合間を縫って効率よく『補給』が可能です」

「……君な、入場した瞬間に食べ物の配置を確認する令嬢は君だけだぞ」

ジェラルドが呆れたように囁く。

今日の彼は、いつもの黒い軍服風の正装ではなく、白を基調とした夜会服に身を包んでいる。

その姿は「氷の公爵」というより「白馬の王子様」そのもので、入場した瞬間から周囲の令嬢たちの熱っぽい視線を独り占めしていた。

「あら、ジェラルド様。周囲をご覧ください。令嬢たちが貴方を『獲物』を見る目で狙っていますよ。私のドレスのポケットに隠れてはいかがです?」

「遠慮する。それより、私のパートナーとして堂々としていろ。君だって注目されているんだ」

言われて周囲を見渡すと、確かに私に向けられる視線も多かった。

ただし、それは熱視線というよりは、「あの氷の公爵が女性を連れている!?」「どこの令嬢だ?」という好奇の目だ。

「ふん。見世物ではありませんよ。視線でお腹は膨れません」

私は鼻を鳴らし、目的の場所――まずは前菜コーナーへと足を向けようとした。

その時だった。

「……おい。あれを見ろよ」

「まさか……嘘だろう?」

「なんで『あの二人』がここにいるんだ?」

周囲のざわめきが、急速に変わった。

好奇心から、困惑へ。そして、失笑へ。

人々が道を開け、視線の先に「ある集団」が現れた。

私はピタリと足を止めた。

「……あちゃー」

思わず、そんな言葉が漏れた。

そこにいたのは、我が国の第一王子ロナルドと、その婚約者(?)リリィ男爵令嬢だったからだ。

ロナルドは、金糸で派手な刺繍が入った真っ赤なスーツを着ており、まるで歩く還暦祝いのようだった。

隣のリリィは、フリルとリボンを過剰にあしらったピンクのドレスで、まるで巨大な綿菓子のようだ。

二人は腕を組み、周囲の冷ややかな視線に気づく様子もなく、自分たちの世界に入り込んでいた。

「ロナルド様ぁ、この国の夜会も素敵ですけど、やっぱりロナルド様の輝きには勝てませんわぁ」

「ははは、よせよリリィ。君こそ、この会場のどの花よりも可憐だよ。僕たちの『真実の愛の旅』にふさわしい舞台だ」

「んもう、ロナルド様ったらぁ!」

バシッ。リリィがロナルドの肩を叩く。

「あははは!」

「うふふふ!」

……寒気がした。

会場の気温が五度くらい下がった気がする。

「……ジェラルド様。帰ってもいいですか? 視覚と聴覚への公害です」

「待て。今帰ったら敵前逃亡だ。それに、まだローストビーフを食べていないだろう」

「っ……! 痛いところを!」

私が葛藤していると、不運にもロナルドがこちらに気づいてしまった。

彼の目が、私とジェラルドを捉え、大きく見開かれる。

「……なっ!? き、貴様らは!!」

ロナルドが大声を上げたため、周囲の注目が一気に集まった。

彼はズカズカとこちらに歩み寄ってくる。金魚のフンのようにリリィもついてくる。

「キャンディ! それにジェラルド公爵! なぜ貴様らがここにいる!?」

「なぜ、とは異なことを仰いますね」

私は扇をパチリと閉じた。

「招待状を頂いたからです。ロナルド殿下こそ、公務を放り出して『愛の逃避行』中と伺っておりましたが、こんなところで油を売っていてよろしいのですか?」

「と、逃避行ではない! これは『民間外交』だ! 将来の国王として、諸外国の見聞を広めるための視察旅行だ!」

ロナルドが顔を真っ赤にして反論する。

要するに、公費を使った新婚旅行(未婚だが)ということだ。

「それにしてもキャンディ……! 貴様、まさか僕を追ってここまで来たのか!?」

「はい?」

「素直になれよ。婚約破棄されたのがよほど悔しかったんだな? 僕にもう一度振り向いてほしくて、ストーカーまがいの真似をして……」

ロナルドはニヤリと気持ちの悪い笑みを浮かべた。

「だが無駄だぞ。僕の心はリリィだけのものだ。いくら着飾って気を引こうとしても……ん?」

彼はそこで、私のドレスをまじまじと見た。

「……なんだそのドレスは? ずいぶんと地味だな。金がないのか?」

「地味?」

私は眉をひそめた。

マダム・セシルの最高傑作を地味呼ばわりとは、やはり見る目がない。

「これは『機能美』です。殿下の着ていらっしゃるその……ええと、唐辛子のようなスーツよりは、TPO(時と場所と場合)を弁えているつもりですが」

「と、唐辛子だと!?」

「ええ。目に染みる赤ですね。闘牛なら興奮して突進してくるところですわ」

「ぷっ」

横でジェラルドが噴き出した。

「き、貴様……!」

ロナルドが激昂しようとしたその時、リリィが前に出てきた。

彼女は上目遣いで私を見上げ、ハンカチを目元に当てた。

「ひどいですわ、キャンディ様……! わざわざ隣国まで来て、私たちの幸せを邪魔するなんて……! そんなに私が憎いのですか?」

「……えっと、誰でしたっけ?」

私は本気で首を傾げた。

「なっ……!?」

「ああ、失礼。思い出しました。手紙の裏紙が計算用紙として大変役に立ちました。紙質のセレクトだけは褒めて差し上げます」

「け、計算用紙……!?」

リリィが絶句して後ずさる。

彼女の『可哀想なヒロイン』の演技が、私の『事務的な対応』の前に滑って空回りしている。

「いい加減にしたまえ」

それまで黙って笑っていたジェラルドが、一歩前に出た。

その瞬間、場の空気がピリッと張り詰める。

彼は私を背に庇うように立ち、冷ややかな瞳でロナルドを見下ろした。

「ロナルド殿下。彼女は私の正式なパートナーとして、ガルディア王家から招待されている。ストーカー呼ばわりは、私への侮辱と受け取ってよろしいか?」

「うっ……じ、ジェラルド公爵……」

ロナルドが怯む。

腐っても公爵、しかも「氷の公爵」の威圧感は伊達ではない。

「そ、そういえば貴様、キャンディを拾ったそうだな。……ふん、お似合いだよ。『氷の公爵』と『氷の魔女』。冷血同士、せいぜい仲良くやればいい!」

ロナルドは捨て台詞を吐くと、リリィの手を引いた。

「行こうリリィ。こんな空気の悪い場所にいたら、君の美肌に悪い」

「は、はい、ロナルド様! ……ふんだ! 負け惜しみ乙ですわ!」

二人は逃げるように会場の奥へと消えていった。

周囲からは「あれが噂の……」「随分と残念な王子ね」という失笑が漏れている。

「……やれやれ。ビュッフェの前にとんだ『前菜(トラブル)』が出ましたね」

私はため息をついた。

「全くだ。気分を害したか?」

ジェラルドが心配そうに覗き込んでくる。

「いいえ。むしろ食欲が増しました。ストレスはカロリー消費を促しますからね。さあ、行きましょうジェラルド様! ローストビーフが私を呼んでいます!」

「……君のメンタルは鋼鉄製か」

ジェラルドは苦笑しながら、私の手を引いてくれた。

しかし。

この時の私はまだ気づいていなかった。

ロナルドとリリィが、ただ逃げただけではないことを。

彼らが会場の隅で、何やら怪しげな男――いかにも胡散臭い宝石商のような人物と、密談していることを。

そして、その男の手元には、どう見ても偽物っぽい輝きを放つ「巨大なダイヤ」があることを。

嵐の予感は、まだ去っていなかったのだ。

(待ってらっしゃい、お肉! ……ん? あの二人、何をしているのかしら? まあいいわ、今は肉が優先よ!)

私はポケットの中で「お持ち帰り用ジップロック(特注)」を握りしめ、戦場へと足を踏み入れた。
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