婚約破棄? ああ、結構です。それより慰謝料の小切手、桁が一つ足りなくてよ?

恋の箱庭

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「大変です、キャンディ様! 旦那様が……!」

早朝、私の執務室に血相を変えた執事が飛び込んできた。

「旦那様が、起き上がれないのです!」

「……は?」

私はペンを止めた。

あの「氷の公爵」ことジェラルド・アイゼンハルトが?
先日の刺客襲来でもピンピンしていた、あの体力お化けが?

「まさか、昨夜の夕食に毒でも? 毒見役は機能していなかったのですか?」

「いえ、毒ではありません。……過労と風邪のようです」

「過労?」

私は眉をひそめた。

「熱が三十九度もあり、意識が朦朧とされています。医者は呼びましたが、薬を飲んでも熱が下がらず……」

執事は今にも泣き出しそうだ。
屋敷の大黒柱が倒れたことで、使用人たちはパニックに陥っているらしい。

私はペンを置き、立ち上がった。

「落ち着きなさい。パニックは事態を悪化させるだけです」

私は冷静に指示を出した。

「アンナ、私の『緊急時対応キット(医療用)』を持ってきて。それと、厨房に氷魔法石と、消化の良い食材を用意させて」

「はい、お嬢様!」

「私は現場(寝室)へ向かいます。これは『トップの緊急事態(クライシス)』です。全力で資産(ジェラルド)の修復にあたります!」



ジェラルドの寝室に入ると、そこはサウナのように熱気が籠もっていた。

「……う……ん……」

巨大なキングサイズのベッドに、ジェラルドが沈んでいる。
いつも整っている銀髪は汗で張り付き、顔は赤く上気している。
呼吸も荒い。

「……ひどい有様ですね」

私はベッドサイドに近づき、彼の額に手を当てた。

熱い。ゆで卵ができそうだ。

「キャンディ……か……?」

ジェラルドがうっすらと目を開けた。
焦点が合っていない。

「来るな……うつる……」

「何を言っているのですか。私が風邪ごときに負けるわけがありません。ウイルスも私の計算高さに恐れをなして逃げ出しますよ」

私はテキパキと窓を開けて換気をし(ただし直接風が当たらないように配慮)、アンナに命じて氷枕を用意させた。

「いいですか、ジェラルド様。あなたは当家の最高経営責任者です。あなたが一日寝込むだけで、公爵家の意思決定が遅れ、推定金貨百枚の機会損失が発生します」

私は氷枕を彼の下に敷き込みながら、耳元で囁いた。

「つまり、あなたの体はあなただけのものではありません。私の給与の源泉です。意地でも治していただきます」

「……金貨百枚か……厳しいな……」

ジェラルドは力なく笑おうとしたが、すぐに苦しげに咳き込んだ。

「喋らないでください。カロリーの無駄です」

私は彼の上着を脱がせ、汗を吸い取るタオルケットに交換した。

そして、サイドテーブルに「あるもの」を並べた。

ビーカー、スポイト、そして緑色の液体が入ったフラスコ。

「……なんだ、それは……毒薬か?」

「特製ドリンクです。先日の『シビレ苺』の果汁に、滋養強壮の薬草、蜂蜜、そして卵白を最適な比率で配合した『完全栄養流動食』です」

見た目は魔女の鍋の中身のようだが、栄養価計算は完璧だ。

「さあ、飲んでください。ビタミンCとタンパク質を急速チャージします」

私はスプーンで緑色の液体をすくい、彼の口元へ運んだ。

ジェラルドは怯えた目でそれを見たが、抵抗する気力もないようだった。
観念して口を開ける。

パクッ。

「……ん?」

彼の目が少し開いた。

「……美味い?」

「当然です。不味いものを食べさせるとストレス値が上がり、免疫力が低下しますからね。味の調整にもコストをかけています」

「甘酸っぱくて……飲みやすい……」

「でしょう。さあ、どんどん飲んでください。あなたの体重と体温から計算して、あと五百ミリリットルは必要です」

私はまるで機械のように、一定のリズムで彼に栄養を補給し続けた。

続いて、冷却フェーズだ。

「脇の下と首筋、鼠径部(そけいぶ)を冷やします。太い血管を冷やすのが最も熱交換効率が良いのです」

私は氷魔法石を包んだタオルを、的確なポイントに配置していく。

「……冷たくて、気持ちいい……」

「ええ。熱暴走したサーバー(頭脳)を冷却しているのと同じです」

私の手際は完璧だった。
無駄な動きは一切ない。
汗を拭き、水分を補与し、室温を調整する。

全ては「早期復旧」のためだ。

だが。
熱に浮かされたジェラルドの目には、この事務的な作業が全く別のものに見えていたらしい。

「……キャンディ……」

彼が熱い手で、私の手首を掴んだ。

「ん? どうしました? 脈拍に異常でも?」

私はすぐに彼の脈を確認しようとした。

「……違う……そばに、いてくれ……」

ジェラルドの瞳が、潤んで揺れている。
普段の強気な公爵様の面影はない。
ただの、弱った一人の青年がそこにいた。

「君は……優しいな……」

「はい? 優しくはありません。合理的判断に基づき……」

「何も言わず……ずっと、俺の世話をしてくれて……」

彼は私の手を頬に押し当てた。
私の手の冷たさが心地よいのだろう。

「……君が、天使に見えるよ……」

「眼科検診をお勧めします。私は天使ではなく、ただの経理係です」

「ふふ……口が悪い天使だ……」

ジェラルドは安心して目を閉じた。

「……ありがとう……」

そのまま、彼は穏やかな寝息を立て始めた。

掴まれた手首は、離れない。

「……やれやれ」

私は溜息をついた。
振りほどこうと思えばできるが、そうすればまた彼が起きてしまい、睡眠導入コストが無駄になる。

(仕方がないわね。この拘束時間は『残業』として計上しましょう)

私はベッドサイドの椅子に座り直し、彼の手を握ったまま、反対の手で帳簿を開いた。

「早く治してくださいね、ボス。……あなたがいないと、決裁印が押せなくて仕事が進まないんですから」

私は小さく呟いた。

窓から差し込む朝陽が、彼の寝顔を照らしている。
無防備なその顔は、悔しいくらいに整っていた。

(……それにしても、顔がいいわね。寝顔のブロマイドを撮って売れば、かなりの利益が出るんじゃ……)

不謹慎なビジネスプランが一瞬頭をよぎったが、さすがにそれは却下した。
この無防備な姿は、独占契約を結んでいる私だけの特権(非公開資産)としておいてあげよう。

私はアンナが持ってきてくれた新しい氷タオルを手に取り、彼のおでこに乗せ直した。

「おやすみなさい、ジェラルド様。明日の朝には、いつもの皮肉屋な公爵様に戻ってくださいね」

私の懸命な(そして計算高い)看病のおかげか、あるいは「天使の幻覚」のおかげか。
翌朝、ジェラルドは奇跡的な回復を見せることになる。

そして、「熱にうなされていた時に見た天使」の正体が、ガスマスクのような防護布をつけて緑色の液体を調合していた私だったという事実を、彼はまだ知らない。
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