婚約破棄? ああ、結構です。それより慰謝料の小切手、桁が一つ足りなくてよ?

恋の箱庭

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『恋のシビレジャム』のヒットにより、アイゼンハルト公爵領は空前の好景気に沸いていた。

私の執務室には、毎日山のような注文書と、提携を申し込む商人たちからの手紙が届く。

「……ふう。手が痛いです」

私は万年筆を置き、手首を回した。
嬉しい悲鳴だが、事務処理が追いつかない。

「アンナ、腱鞘炎の治療費を経費で申請します。労災認定してください」

「はいはい。マッサージ師を呼びますか?」

平和な午後。
窓の外では、小鳥がさえずっている。

そんな穏やかな空気を、一人の使用人の叫び声が切り裂いた。

「だ、旦那様ーっ! キャンディ様ーっ! 大変です! 不審者が! 不審者が門を突破しました!」

「不審者?」

私は眉をひそめた。
公爵邸の警備は厳重だ。野良犬一匹通さないはずだが。

「ち、違うんです! 不審者というか……その……!」

使用人が言い淀んでいる間に、ドタドタという足音が廊下から近づいてきた。
そして、執務室のドアがバーン!と乱暴に開けられた。

「キャンディ! キャンディはどこだ!」

入ってきた男を見て、私は思わず「うわぁ」と声を漏らした。

そこにいたのは、我が国の第一王子、ロナルド・アークライト……の成れの果てだった。

かつて金ピカだった衣装は薄汚れ、あちこち解れている。
髪はボサボサで、目の下には濃いクマ。
そして何より、以前のような傲慢な輝きはなく、代わりに焦燥と貧乏神のようなオーラを纏っていた。

「……ロナルド殿下? ハロウィンの仮装にはまだ早い時期ですが」

私が冷静に指摘すると、ロナルドは私に駆け寄り、デスクに手をついた。
バンッ!

「仮装ではない! やつれ果てたのだ! お前のせいでな!」

「私のせい? 言いがかりはおやめください。私はあなたに一指も触れていません。請求書を送っただけです」

「それが原因だ! あの請求書のせいで、父上が激怒して……『借金を返すまで王宮の敷居を跨ぐな』と追い出されたんだ!」

「それは教育的指導というものです。国王陛下は賢明ですね」

私は感心して頷いた。
獅子は我が子を千尋の谷に落とすというが、国王陛下は馬鹿息子を借金の谷に突き落としたらしい。

「で? 何の用ですか? 借金の無心ならお断りしますよ。当家は金融業のライセンスを持っておりませんので」

「違う! 金ではない……いや、金も大事だが……!」

ロナルドは血走った目で私を見つめた。
そして、急にガバッと私の手を取った。

「キャンディ! 戻ってきてくれ!」

「……はい?」

「やはり、僕にはお前が必要なんだ! リリィではダメだ! あいつは金を使うことしか知らん! 計算もできない、書類も読めない、ただの無能だ!」

ロナルドは唾を飛ばしながら捲し立てた。

「だが、お前は違う! お前がいれば、借金の返済計画も立てられる! 領地の経営も立て直せる! 僕のスケジュール管理も完璧だ!」

「……」

「気づいたんだ、これが『真実の愛』だと! 僕はお前の『事務処理能力』を愛していたんだ!」

シーン……。

部屋の空気が凍りついた。
アンナがゴミを見るような目でロナルドを見ている。

私は、掴まれた手をゆっくりと、しかし力強く引き抜いた。

「……殿下。一つ質問しても?」

「な、なんだ? 復縁の条件か? いいぞ、王妃教育は免除してやろう!」

「いえ、条件ではありません。確認です」

私はハンカチで入念に手を拭きながら(除菌)、冷ややかに言った。

「あなたは私に求婚しているのですか? それとも、事務員(ジムイン)の求人募集をしているのですか?」

「え? そ、それは……両方というか……」

「もし求婚なら、あなたの市場価値(スペック)は現在、大暴落中です。借金まみれ、実家(王家)からの絶縁、そして浮気性の前科持ち。ストップ安もいいところです」

「ぐっ……」

「もし求人なら、条件が悪すぎます。給与未払い、ブラック労働確定、上司(あなた)が無能。誰が応募するんですか?」

私は電卓を叩いた。

「結論。あなたとの復縁による私のメリットは、金貨一枚どころか、マイナス無限大です。却下します」

「そ、そんな……!」

ロナルドが愕然として膝をつく。

「頼む! 助けてくれ! このままでは僕は……借金取りにマグロ漁船に乗せられてしまう!」

「いってらっしゃいませ。マグロは高く売れますから、国の経済に貢献できますよ」

私が冷酷に突き放すと、ロナルドは逆上した。

「き、貴様ぁぁぁ! この僕が下手に出ればつけあがりやがって! 元はと言えば、お前が可愛げのない女だから僕がリリィに走ったんだろうが!」

彼は立ち上がり、腰の剣に手をかけた。

「無理やりにでも連れ帰ってやる! お前を王命で縛り付けて、一生、僕の金庫番として……!」

「――ほう?」

その時。
地獄の底から響くような、低く、ドスの効いた声が聞こえた。

部屋の温度が、一気に氷点下まで下がった気がした。

「誰の金庫番にするだと?」

入り口に、ジェラルドが立っていた。
いつもの笑顔はない。
表情筋が完全に死滅した、能面のような顔。
だが、その青い瞳の奥には、青白い炎がめらめらと燃え盛っていた。

「……ジェラルド様」

「げっ、氷の公爵……!」

ロナルドがビクッと震える。

ジェラルドはゆっくりと、一歩ずつ歩み寄ってきた。
カツ、カツ、カツ。
足音が死刑執行へのカウントダウンのように響く。

「私の執務室に土足で踏み込み、私の婚約者に暴言を吐き、あまつさえ『道具』扱いしたな?」

「い、いや、これは……元婚約者同士の痴話喧嘩というか……」

「痴話喧嘩? これが?」

ジェラルドは私の隣に立つと、私を背に庇った。

「彼女は道具ではない。私の最愛のパートナーであり、この領地の宝だ。彼女の価値は、貴様ごときには一生かかっても理解できまい」

「うっ……!」

「貴様には、マグロ漁船すら生温い。……私が直々に、地獄の底へ案内してやろうか?」

シャキン。
ジェラルドが腰の剣を少しだけ抜いた。
その切っ先から放たれる殺気は、本物だった。

「ひ、ひいいぃぃ!」

ロナルドは腰を抜かし、這うようにして後ずさった。

「お、覚えてろ! 父上に言いつけてやる! 僕をいじめたと!」

「言いつけるがいい。その前に、貴様の借金がさらに増えることになるがな」

「えっ?」

「不法侵入、脅迫未遂、器物破損(ドアの修理費)。……慰謝料に上乗せして請求しておく。精々、マグロをたくさん釣ることだな」

「ぎゃあああああ!」

ロナルドは悲鳴を上げて逃げ出した。
廊下で何度か転ぶ音が聞こえ、やがて静かになった。

「……ふぅ」

ジェラルドは剣を納め、深く息を吐いた。
そして、私の方を振り返った。

「……怪我はないか? キャンディ」

その声は、先ほどまでの冷徹さが嘘のように優しかった。

「はい、平気です。……ただ、少し驚きました」

「驚いた? 彼があまりに馬鹿でか?」

「いいえ」

私はジェラルドを見上げた。

「あなたが、あんなに怒るなんて。……いつもなら笑って流すのに」

ジェラルドは少しバツが悪そうに視線を逸らした。

「……笑えないさ。あいつが君を『事務処理能力』としか見ていないのが、腹立たしくてな」

彼は私の髪をそっと撫でた。

「君の能力が素晴らしいのは事実だ。だが、それだけじゃない。君の強さも、優しさも、変なところでケチなところも……全部ひっくるめて君なんだ」

「変なところ……」

「それを『道具』扱いするなんて、許せるわけがないだろう」

ジェラルドの言葉が、じんわりと胸に染み込む。
ああ、これは。
この感覚は、損得勘定では説明がつかない。

「……ありがとうございます、ジェラルド様。最高の『用心棒代』をお支払いしなくてはなりませんね」

私が照れ隠しに言うと、彼はニッと笑った。

「ああ。高くつくぞ? ……とりあえず、晩飯のデザートは俺の分も君にあげるよ」

「交渉成立です!」

こうして、元王子の乱入劇は、ジェラルドの激怒によってあっけなく幕を閉じた。
だが、これで終わりではない。
逃げ帰ったロナルドが、このまま大人しく引き下がるとは思えない。
そして、姿を見せなかったリリィの動向も気になるところだ。

嵐の前の静けさ――いや、すでに嵐の中にいるのかもしれない。
私は甘いデザート(予定)に思いを馳せながら、ふと窓の外を見た。
夏空に入道雲が湧き上がっていた。
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