婚約破棄? ああ、結構です。それより慰謝料の小切手、桁が一つ足りなくてよ?

恋の箱庭

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ロナルド王子の乱入事件から一夜明けても、公爵邸の空気はピリピリと張り詰めていた。

原因は、当主であるジェラルド・アイゼンハルト公爵だ。

彼はいつもの飄々とした笑顔を消し、氷のような無表情で屋敷中の警備体制を見直していた。

「門番を倍に増やせ。敷地内の巡回ルートも変更だ。蟻一匹通すな」

「は、はいっ!」

「それと、キャンディの護衛には精鋭騎士を二人つけろ。彼女がトイレに行く時以外は片時も離れるな」

「かしこまりました!」

執務室で指示を飛ばすジェラルドは、まさに「氷の公爵」の異名通り、周囲を凍らせるほどの威圧感を放っている。

私はデスクで紅茶(シビレ苺ジャム入り)を飲みながら、そんな彼を観察していた。

「……ジェラルド様。少々、過剰投資(オーバーコスト)ではありませんか?」

「過剰ではない。昨日、あんな馬鹿の侵入を許したんだ。セキュリティの欠陥だ」

ジェラルドは書類にサインしながら、苛立たしげに言った。

「またあいつが来て、君に何かしたらどうする。……君の手を掴んだり、暴言を吐いたり……思い出すだけで腹が立つ」

バキッ。

彼が持っていた万年筆が、へし折れた。

「ひぃっ!」

控えていた執事が悲鳴を上げる。

私は折れた万年筆を見て、眉をひそめるどころか、感心してしまった。

(……すごい。本気で怒っている)

これまでの彼は、何事も「面白いか、面白くないか」で判断し、余裕を持って笑っていることが多かった。
ロナルドのことも、これまでは「哀れな道化」として嘲笑していた。

けれど、今は違う。
純粋な怒り。
それも、私のために。

「……君を『道具』扱いしたことが、どうしても許せないんだ」

ジェラルドは折れたペンを捨て、新しいペンを取り出した。
その横顔は、鋭利な刃物のように研ぎ澄まされている。
眉間の皺、冷たい瞳、固く結ばれた唇。

(……あら?)

私の胸が、トクンと鳴った。

(今の顔、すごく……イイわね)

いつもの笑顔もいいけれど、この「愛するものを守るために修羅となった男」の顔。
市場価値に換算すれば、ストップ高だ。

(この表情を銅版画にして、『憂いの公爵シリーズ』として限定販売すれば……貴婦人たちが列をなして買うわ。一枚あたり金貨五枚はいける)

私は無意識のうちに、彼の顔をじっと見つめていた。
ときめきと、商機。
二つの感情が同時に押し寄せてきて、顔が熱くなる。

「……キャンディ? どうした、顔が赤いぞ。熱でもあるのか?」

私の視線に気づいたジェラルドが、ふっと表情を緩めて近づいてきた。

「い、いえ! 平気です! ただ、今のジェラルド様の顔面偏差値が高すぎて、直視すると課金が必要になりそうだなと思っただけです!」

「……君の褒め言葉は、いつも独特だな」

彼が苦笑した、その時だった。

「旦那様! 王宮より使者が参りました!」

執事が封筒を持って駆け込んできた。
王家の紋章が入った、真紅の封筒だ。

「ロナルド殿下からの親書です。『至急、開封されたし』とのことです」

ジェラルドの目が、再び氷点下に戻った。

「……またか。懲りない男だ」

彼は封筒を受け取ると、ペーパーナイフで乱暴に開封した。
中に入っていたのは、一枚の羊皮紙。

ジェラルドはそれに目を通し――。

ゴゴゴゴゴ……。

彼から立ち上る冷気が、目に見えるレベルで濃くなった。

「……ジェラルド様?」

「見てみろ」

彼は吐き捨てるように言い、手紙を私に渡した。

私は文面に目を通した。

『拝啓、氷の公爵ジェラルド殿』

『僕は諦めない。キャンディは僕の未来(と借金返済)に必要な女神だ。彼女を貴様のような冷血漢の元に置いておくわけにはいかない』

『よって、ここに正式に決闘を申し込む』

『三日後、王立闘技場にて。勝者がキャンディ・ヴァイオレットの身柄を貰い受けることとする』

『第一王子 ロナルド・アークライト』

読み終えた私は、呆れてため息をついた。

「……馬鹿ですね」

「ああ、馬鹿だ」

「私が『身柄を貰い受ける』なんていう景品扱いされていることにも腹が立ちますが、それ以前に……」

私は手紙を指で弾いた。

「借金まみれの分際で、決闘なんてしている暇があるなら働くべきです。闘技場の使用料だってタダじゃありませんよ?」

「そういう問題じゃない」

ジェラルドが低く唸った。

「あいつはまだ、君を『モノ』だと思っている。『勝者が貰う』? ふざけるな。君の意志はどうなる? 君はトロフィーじゃない」

彼は手紙をクシャクシャに握りつぶした。
拳が白くなるほど強く。

「許さん。……完膚なきまでに叩き潰してやる」

ジェラルドが顔を上げた。
その瞳には、もはや慈悲の色は一切なかった。
あるのは、敵を殲滅する冷徹な捕食者の色。

「執事! 筆記用具だ。返事を書く」

「は、はい!」

「『承知した。その挑戦、受けて立つ』とな。……ただし」

ジェラルドはニヤリと、凶悪な笑みを浮かべた。

「『負けた方が勝者の要求を無条件で呑む』という条件を追加する。あいつが負けたら、二度と君の前に現れないよう、法的にも物理的にも排除してやる」

「……ジェラルド様」

私は彼の背中を見つめた。
怒りに燃える背中。
私なんかのために、王族相手に喧嘩を売ってくれる背中。

(……ああ、やっぱり)

私は確信した。

(この物件(ひと)は、手放しちゃダメだわ)

損得勘定を超えた、何か熱いものが胸を満たす。
でも、私はそれを素直に言葉にするほど可愛げのある女ではない。

だから、私は私のやり方で、彼を応援することにした。

「ジェラルド様。一つ提案があります」

「ん? 止めても無駄だぞ。俺はもうやる気だ」

「止めません。むしろ、徹底的にやってください」

私はニッコリと笑った。
悪役令嬢らしい、ふてぶてしい笑みで。

「ですが、ただ戦うだけでは非生産的です。せっかく王立闘技場を使うのですから……『興行(イベント)』にしましょう」

「……興行?」

「はい。第一王子と公爵の決闘。世紀のビッグマッチです。観客を入れれば、チケット代だけで莫大な利益が見込めます」

私は電卓を取り出し、高速で叩き始めた。

「S席:金貨十枚、A席:金貨五枚、立ち見席:金貨一枚。さらに、当日は『恋のシビレジャム』の限定販売ブースも設置します。ポップコーンとドリンクのセット販売も必須ですね」

「……」

ジェラルドがポカンとして私を見る。

「さらに、賭け(ブックメーカー)の胴元もやりましょう。オッズはジェラルド様が1.1倍、ロナルド殿下が50倍くらいでしょうか。大穴狙いの客から巻き上げられます」

「……キャンディ」

「はい?」

「君は……本当にブレないな」

ジェラルドが吹き出した。
さっきまでの殺気立った空気が霧散し、いつもの柔らかな笑顔が戻ってきた。

「夫が決闘に行くというのに、チケット代とポップコーンの計算をする妻なんて、世界で君だけだ」

「妻として、家計を支えるのは当然の務めです。……それに」

私は少しだけ顔を背けた。

「あなたが負けるなんて、一ミリも思っていませんから。絶対に勝つ試合なら、収益化しないと損でしょう?」

ジェラルドは目を丸くし、それから優しく目を細めた。

「……そうか。俺を信じてくれているのか」

「信じていますよ。私の『見る目』に狂いはありません」

「ありがとう。……ならば、期待に応えるとしよう」

ジェラルドは私の手を取り、甲にキスをした。

「最高の勝利と、最高の売上を君に捧げよう。……愛しているよ、私の強欲な女神」

「……稼いできてくださいね、私の優良物件」

こうして。
三日後の決闘は、単なる名誉をかけた戦いではなく、アイゼンハルト公爵家主催の「一大エンターテインメント・イベント」へと変貌を遂げたのである。

(待ってらっしゃい、ロナルド殿下。あなたの敗北すらも、私の財布の肥やしにしてあげますわ!)

私は執務室を出て、アンナに叫んだ。

「アンナ! 印刷機の手配を! ポスターとチケットを大量に刷るわよ!」
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