婚約破棄? ああ、結構です。それより慰謝料の小切手、桁が一つ足りなくてよ?

恋の箱庭

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決闘興行の大成功から数時間後。

アイゼンハルト公爵邸では、ささやかな(しかし料理は豪華な)祝勝会が開かれていた。

使用人たちは「旦那様バンザイ!」「キャンディ様バンザイ!」「臨時ボーナスバンザイ!」と大盛り上がりだ。

その喧騒を抜け出し、私は一人、夜風に当たるためにバルコニーに出ていた。

手には、今日の収支決算書。

「……ふふ。完璧だわ」

月明かりの下、私は数字の羅列を眺めてうっとりとしていた。

「チケット収入、グッズ売上、そして賭けのテラ銭……。たった半日で、領地の税収三ヶ月分の純利益。ロナルド殿下には感謝状を送らないといけないわね(着払いだけど)」

私は満足げに決算書を閉じた。

そこへ。

「……ここで何を一人でニヤついているんだ? 主役がいないと場が締まらないぞ」

背後から、ジェラルドの声がした。

振り返ると、グラスを片手に持った彼が立っていた。

決闘の時の殺気立った雰囲気は消え、今は穏やかな、どこか少し照れくさそうな顔をしている。

「ジェラルド様。いえ、少し酔い覚ましを。それに、今日の利益確定作業が終わったので、その余韻に浸っていたところです」

「君らしいな。……隣、いいか?」

「どうぞ。バルコニーの使用料はいただきませんから」

ジェラルドは苦笑しながら、私の隣に並んで手すりに寄りかかった。

眼下には、静まり返った庭園が広がっている。

以前、私が「無駄だ」と指摘した噴水は、今は時間限定稼働になっており、静かに水を湛えている。

「……勝ててよかったな」

ジェラルドがポツリと言った。

「当然です。私のシナリオ通りですから」

「ああ。だが、俺が言いたいのは……賭けに勝ったことじゃない」

彼はグラスを置き、私の方を向いた。

「君を守れたことだ」

真剣な声だった。

「あの時、ロナルドに君を奪われるかもしれないと思ったら……正直、冷静ではいられなかった。金とか、家とか、そんなものはどうでもいい。ただ、君がいなくなることだけが怖かった」

「……ジェラルド様」

「キャンディ。俺は今まで、誰かをこんなに執着したことはなかった。……君が初めてだ」

ジェラルドは一歩近づいてきた。

月光に照らされた彼の瞳は、私がかつて査定したどんな宝石よりも深く、綺麗だった。

「以前、君に『終身雇用(プロポーズ)』を申し込んだ時、俺は条件の話をしたな」

「ええ。福利厚生と退職金の話で盛り上がりましたね」

「あれは取り消す」

「えっ? 契約破棄ですか!?」

私が慌てると、ジェラルドは首を振った。

「違う。……条件付きの契約なんかじゃない。俺が欲しいのは、君そのものだ」

彼は私の両手をそっと包み込んだ。

「君の計算高いところが好きだ。金を見ると目が輝くところが好きだ。ロマンチックな場面を台無しにする現実的な発言も、たくましい食欲も、全部愛おしい」

「……」

「君の強欲さを、俺は愛している。だから……俺の人生の全てを、君に投資させてくれないか?」

今度こそ、ビジネス用語ではない、直球の愛の言葉。

「君が望むなら、世界中の富を集めてこよう。君が笑ってくれるなら、俺はどんな道化にだってなる。だから、キャンディ……」

彼は私の額に、そっと自分の額を合わせた。

「……俺の、妻になってくれ。仕事のパートナーとしてではなく、最愛の女性として」

静寂。
聞こえるのは、二人の心臓の音だけ。

私は、熱くなった顔を隠すこともできず、ただ瞬きを繰り返した。

(……参ったわね)

私の脳内計算機(コンピューター)が、エラーを起こしている。

この言葉の価値を、金銭に換算できない。
プライスレス。
無限大。
そんな、経理係としてはあるまじき「測定不能」な数値が弾き出されている。

「……ジェラルド様」

私は震える声で答えた。

「あなたは、本当に変な人ですね」

「自覚はある」

「私のような、可愛げのない、金に汚い女を好きになるなんて。……投資判断としては最悪のリスク案件ですよ?」

「ハイリスク・ハイリターンだと言ってくれ」

「ふふっ……」

私は笑ってしまった。

そして、彼の手を強く握り返した。

「分かりました。……その投資、お受けします」

「キャンディ……!」

「ただし!」

私は人差し指を立てた。

「返品は不可です。クーリングオフ期間も過ぎています。これから先、私がどんなに強欲に振る舞っても、どんなに奇抜な節約術を強要しても、文句は言わせませんよ?」

「ああ、望むところだ。君の尻に敷かれるのも悪くない」

「それに、私の『愛』は高いですよ? 維持費(メンテナンスコスト)もかかります。美味しいご飯と、ふかふかのベッドと、毎日の『好き』という言葉が必要です」

「安いものだ。毎日でも毎秒でも言おう。……愛している、キャンディ」

ジェラルドは幸せそうに目を細め、ゆっくりと顔を近づけてきた。

そして。

私たちの唇が重なった。

甘い。
最高級の砂糖菓子よりも、シビレ苺のジャムよりも、ずっと甘くて、溶けるようなキスだった。

(……ああ、ダメだわ)

私は目を閉じながら、降伏した。

(この口づけの価値(プライス)……計算できない)

月が雲に隠れるまで、私たちはそのバルコニーで、何度も愛(契約)を確かめ合った。

決算書は風に飛ばされて庭に落ちたが、今の私には、それを拾いに行く気すら起きなかった。

だって、目の前に「世界一の資産」があるのだから。



翌朝。

「……というわけで、正式に結婚式の日取りを決めたいと思います」

朝食の席で、私はキリッと言い放った。

「気が早いな。まあ、俺はいつでもいいが」

ジェラルドがコーヒーを飲みながら答える。

「いいえ、善は急げです。それに、昨日の決闘騒ぎで公爵家の知名度は最高潮に達しています。このタイミングで挙式を行えば、最大のパブリシティ効果が見込めます!」

私は手帳を開き、猛然とプレゼンを始めた。

「まず、招待状は有料制にします」

「……は?」

ジェラルドがカップを取り落としそうになる。

「有料? 結婚式の招待状を?」

「はい。S席、A席、B席とランク分けをして販売します。特に最前列のS席は『二人の誓いのキスを至近距離で見られる権利』付きで、オークション形式にします!」

「やめろ! 見世物じゃないんだぞ!」

「さらに、引き出物は『アイゼンハルト公爵家・記念コイン(純金製)』を作成し、販売価格より少し高い値段で……」

「待て待て待て! 昨夜のロマンチックな雰囲気はどこに行った!」

ジェラルドが頭を抱える。

私はニッコリと笑った。

「あら、言ったはずですよ? 『私がどんなに強欲に振る舞っても文句は言わせない』と」

「……くっ、確かに言ったが……!」

「さあ、ジェラルド様! 愛の力で稼ぎますよ! 私たちの結婚式は、王国史上最大の『黒字イベント』にするんです!」

私は高らかに宣言した。

ジェラルドは深いため息をついた後、諦めたように、しかし愛おしそうに笑った。

「……ああ、分かったよ。俺の負けだ。好きにしてくれ、俺の愛する守銭奴殿」

こうして。
私たちの結婚式に向けた、怒涛の準備期間が幕を開けた。
それは同時に、王国中の貴族たちを巻き込んだ、前代未聞の「課金型ウェディング」の始まりでもあった。
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