婚約破棄された「毒殺未遂」の悪役令嬢ですが、それ滋養強壮スープですけど?

恋の箱庭

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丑三つ時。
月明かりすらない闇夜に紛れ、一人の男がヴォルグ辺境伯邸の屋根を疾走していた。


王家直属の密偵、コードネーム『黒猫(シャノワール)』。
本名クラウス。
隠密行動のエキスパートであり、これまで数々の要人暗殺や情報収集を成功させてきた凄腕だ。


(……警備がザルだな)


クラウスは屋根から中庭を見下ろし、呆れたように鼻を鳴らした。


本来なら厳重な警戒が敷かれているはずの騎士団の詰め所からは、緊張感のかけらもない寝息と、幸せそうな寝言が聞こえてくる。


「むにゃ……もう食えん……」
「隊長……その肉は俺のです……」


(たるんでいる。これが『氷の将軍』の軍隊か? 完全に腑抜けているではないか)


クラウスは音もなくテラスに着地し、窓の鍵をピッキングで開けた。


今回の任務は二つ。
一つ、メリアナ・ベルトルが隠し持つ『解毒剤(スープ)』のレシピを奪取すること。
二つ、彼女が反乱を企てていないか監視し、少しでも不穏な動きがあれば即座に始末すること。


(毒殺未遂の悪女め。辺境の兵士たちを薬物か何かで洗脳し、自らの傀儡(くぐつ)にしている可能性が高い)


クラウスは油断なく周囲を警戒しながら、屋敷の奥へと進んだ。


目指すは厨房、もしくは食料庫だ。
毒(スープ)の材料があるならそこだろう。


廊下を歩くにつれ、クラウスの鼻がピクリと動いた。


(……なんだ、この匂いは?)


昼間の宴会の残り香ではない。
もっと新しく、そして心を落ち着かせるような、芳醇な出汁(だし)の香り。


冷え切った体に染み渡るような、温かい匂いが厨房の方から漂ってくる。


(罠か? ……いや、確認する必要がある)


クラウスは気配を完全に消し、厨房の扉を少しだけ開けた。


そこには、信じがたい光景があった。


カンテラの薄暗い明かりの中、エプロン姿のメリアナ・ベルトルが、一人で椅子に座り、湯気を立てる丼を啜っていたのだ。


「ん~っ……! これよこれ。宴会の後の〆(シメ)は、やっぱりラーメンに限るわ」


ズルズルッ! と豪快な音が響く。


(……ラーメン? なんだその呪文のような料理は)


クラウスが眉をひそめた、その時。


「――そこにいるのは誰?」


メリアナが箸を止め、扉の方を見た。


(ッ!? 気づかれた!?)


クラウスは戦慄した。
『気配遮断』のスキルは完璧だったはずだ。並の騎士なら絶対に気づかない。


「隠れていないで出てらっしゃい。……貴方、お腹が空いているんでしょう?」


「……は?」


クラウスは思わず声を出してしまった。
殺気を感じ取られたのではない。「空腹」を感知されたのだ。


彼は短剣の柄に手をかけたまま、ゆっくりと姿を現した。
全身黒ずくめの衣装。顔は黒い布で覆われている。どう見ても不審者だ。


だが、メリアナの反応は予想外だった。


「あら、やっぱり。見ない顔ね……新入りの夜警さんかしら? それとも、お腹を空かせた迷子の忍びさん?」


彼女は少しも動じることなく、むしろ慈愛に満ちた目で彼を見た。


「まあ、どっちでもいいわ。こんな夜更けに厨房を覗くなんて、よほどひもじかったのね」


「い、いや、私は……」


「座って。今、貴方の分も作ってあげるから」


メリアナは立ち上がり、手際よく麺(手打ち)を茹で始めた。


「ちょ、待て! 私は怪しい者だぞ!?」


「怪しい者が『グゥ~』なんて可愛いお腹の音を鳴らしますか?」


「ッ!?」


クラウスは赤面した。
確かに、あの匂いを嗅いだ瞬間、プロの矜持とは裏腹に、胃袋が正直な反応を示してしまっていたのだ。


「ちょうど、昨日のスタンピードで獲れた『コカトリス』のガラで取った極上の鶏白湯(トリパイタン)があるの。麺はコシの強いちぢれ麺。トッピングはボアのチャーシューと煮卵よ」


メリアナは歌うように説明しながら、丼にスープを注いだ。


「さあ、お待ちどうさま! 『特製・深夜の背徳鶏白湯ラーメン』です!」


ドンッ!


クラウスの目の前に、黄金色に輝くスープの海が現れた。
表面に浮いた鶏油(チーユ)がキラキラと光り、濃厚な香りが鼻腔を蹂躙する。


「毒見なら私が済ませてあるわ。……それとも、私が信用できない?」


メリアナが小首をかしげる。


クラウスはゴクリと唾を飲んだ。
任務だ。これは任務の一環だ。対象が何を作っているのか、その成分を分析する必要がある。


「……いただく」


彼は震える手で箸を手に取り、麺を持ち上げた。


ズルッ。


「……!!!」


衝撃が走った。


(な、なんだこれは……ッ!)


麺がスープを絡め取り、口の中で踊る。
濃厚な鶏の旨味。しかし、しつこさは全くない。
飲み込んだ後から、ほのかに香る魚介系の風味(隠し味のホタテ粉末)が、味に奥行きを与えている。


「う、うまい……! なんだこの完成度は……!」


「でしょう? 夜中に食べるラーメンは、カロリーが高いほど美味しいのよ」


メリアナが悪魔の囁きをする。


クラウスは止まらなかった。
チャーシューにかぶりつく。ホロホロと崩れる肉。
煮卵を割る。トロリと溢れる黄身。
それらをスープと一緒に流し込む快感。


(私は……王都で何を食べていたんだ? 乾パン? 味のないスープ? あれは食事じゃなかった。ただの作業だ!)


彼の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
暗殺者として感情を殺して生きてきた男が、一杯のラーメンの前で泣いている。


「あらあら、そんなに泣くほど美味しかった?」


メリアナがハンカチを差し出す。


「……貴女は、何者だ」


クラウスはスープを最後の一滴まで飲み干し、掠れた声で尋ねた。


「本当に、あの噂の悪役令嬢なのか?」


「ええ。世間ではそう呼ばれていますわ」


「嘘だ。こんなに優しい味を作る人間が、悪人であるはずがない」


彼は確信を持って言った。
料理は嘘をつかない。作り手の人柄が出るものだ。このラーメンには、食べる人への気遣いと、純粋な食への愛しか入っていない。


「……ふふ。貴方、いい人ね」


メリアナは嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとう。その言葉、最高のスパイスになったわ」


クラウスの胸がドクンと跳ねた。
これは恋か? いや、胃袋を掴まれたことによる吊り橋効果か?


「……ご馳走になった礼はする」


クラウスは立ち上がり、黒頭巾を直した。


「私は……ただの通りすがりの食通だ。今夜のことは忘れてくれ」


「ええ。またお腹が空いたら、いつでもいらっしゃい。裏口の鍵は開けておくわ」


「……甘いな。不用心すぎる」


クラウスは苦笑し、しかしその口調は優しかった。
彼は音もなく窓から姿を消した。


翌朝。


王都の王子アレクセイの元に、密偵からの『第一次調査報告書』が届いた。


「お、来たか! あいつのことだ、メリアナの悪事を暴いてくれたに違いない!」


アレクセイは期待に胸を膨らませ、封蝋を切った。


しかし。
そこに書かれていたのは、予想外の文章だった。


『報告書 No.1


 対象:メリアナ・ベルトル
 場所:ヴォルグ辺境伯領・別邸


 【現状報告】
 対象は、極めて危険な「白い粉(小麦粉)」と「黄金の液体(スープ)」を精製している現場を確認した。
 その効果は絶大であり、摂取した者は一時的に理性を失い、多幸感に包まれる。
 これは一種の精神支配魔法に近い可能性がある。


 【特記事項】
 調査員(私)も試しに摂取(試食)したが、意識が飛びそうになった。
 特に「チャーシュー」と呼ばれる肉片の破壊力は、国家機密レベルである。


 【結論】
 この「白い粉」と「黄金の液体」の謎を解明するためには、さらなる潜入捜査(長期滞在)が必要不可欠である。
 あと、「替え玉」というシステムの解明も急務である。
 
 追伸:ここは天国かもしれない。帰りたくない。』


「……は?」


アレクセイは報告書を持ったまま固まった。


「な、なんだこれは……? 白い粉? 精神支配? やはりメリアナは恐ろしい闇の魔術を……!」


彼は完全に誤読した。
まさか優秀な密偵が、ラーメン一杯で骨抜きにされ、「もっと食べたいから帰りたくない」と言っているだけだとは夢にも思わなかったのだ。


「くそっ、洗脳魔法か! やはり解毒剤は必須だ!」


アレクセイの誤解はさらに深まり、事態は混迷を極めていく。


一方、辺境伯邸。


「~♪」


メリアナは上機嫌で朝食のパンをこねていた。


「昨日の忍びさん、綺麗に完食してくれて嬉しかったわぁ。また来てくれるかしら」


「……メリアナ。独り言か?」


ギルバートが食堂に入ってきた。


「あ、閣下おはようございます! いいえ、昨夜ちょっとしたお客様がいらして」


「客? こんな夜更けにか?」


「ええ。全身黒ずくめで恥ずかしがり屋さんでしたけど、ラーメンを褒めてくれましたの」


「……黒ずくめ?」


ギルバートの目が鋭くなった。
それはどう考えても不審者、あるいは暗殺者だ。


「メリアナ、そいつはどんな特徴だった?」


「うーん、目つきは鋭かったですけど、食べっぷりは良かったです。あ、そういえば帰り際にこれを置いていきましたわ」


メリアナはポケットから一枚の金貨を取り出した。


「『お代だ』って。律儀な方ですよね」


ギルバートは金貨を受け取り、刻印を確認した。
そこには、王家直属の諜報部隊を示す、小さな隠し印が刻まれていた。


(……『黒猫』か。王家一番の手練れが、まさかラーメン代を払って帰ったというのか?)


ギルバートは頭を抱えた。
同時に、安堵の息も漏れた。
あの冷徹な『黒猫』をも懐柔するとは、やはりメリアナの料理は最強の防衛システムかもしれない。


「……閣下? どうされました?」


「いや……なんでもない。その客は、また来るかもしれんな」


「本当ですか? じゃあ、次は『こってり豚骨』を仕込んでおきます!」


メリアナは嬉しそうに笑った。


屋根裏の梁の上で、気配を消してその会話を聞いていたクラウスは、心の中でガッツポーズをした。


(やった! 次は豚骨だ!)


彼はすでに、密偵としてのプライドを捨て、食堂『悪役令嬢』の常連客(ストーカー)としての道を歩み始めていた。
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