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「……なんだその、ドブ川の底から掬ってきたような物体は!」
『白薔薇の離宮』の寝室。
ワゴンに乗せられたスープを見た第一王子アレクセイが、悲鳴に近い声を上げた。
無理もない。
銀の器に波打っているのは、紫色と緑色がマーブル模様を描き、時折ボコッ……と不穏な泡を吹く液体だ。
そこから漂う匂いは、強烈なニンニク臭と、鼻の奥をツンと刺す野生の獣臭。
バラの香りで満たされていた令嬢の寝室は、一瞬にして魔物の巣窟のような空気に変わった。
「失礼な。これは『地獄からの帰還(リザレクション)・スペシャルスープ』ですわ」
メリアナは平然と言い放ち、スープをスプーンでかき混ぜた。
中から、ドロリと溶けたマンドラゴラの根っこ(人の顔の形が残っている)が顔を出す。
「ひぃっ! 顔!? 今、鍋の中で何かが笑ったぞ!?」
「幻覚です。マンドラゴラは煮込まれると笑顔になるんです」
「嘘をつけ! 貴様、やはりリリィにとどめを刺す気か!」
アレクセイが腰の剣に手をかけた。
しかし、それより早くギルバートが前に立ち塞がった。
「……退け、アレクセイ」
「兄上! 正気か!? あんな劇物を飲ませたら、リリィは死ぬぞ!」
「死なない。むしろ、今の彼女に必要なのは『毒を以て毒を制す』……いや、『圧倒的暴力(カロリー)』による蘇生だ」
ギルバートは絶対の信頼を込めて言い切った。
「私はこのスープを飲んだ部下たちが、瀕死の状態からドラゴンを殴り倒せるほど回復するのを何度も見ている」
「どんな臨床試験だそれは!」
アレクセイのツッコミは無視された。
「さあ、リリィ様。お口を開けてくださいな~」
メリアナはベッドの脇に座り、意識の朦朧としているリリィの上半身を優しく抱き起こした。
「うぅ……」
リリィは焦点の合わない目で宙を彷徨っている。
その鼻先に、スプーンを近づける。
クンッ。
リリィの鼻がピクリと動いた。
「……あ……」
彼女の口が、無意識に開く。
本能が嗅ぎつけたのだ。かつて自分の体を満たしていた、あの懐かしい「力の源」の匂いを。
「ダメだリリィ! 飲んではいけない!」
アレクセイが叫ぶ。
しかし、メリアナは構わずスプーンを口に突っ込んだ。
「はい、アーン」
パクッ。
ゴクリ。
静寂が流れた。
アレクセイ、侍医、そして護衛騎士たちが、固唾を飲んで見守る。
即死か、それとも苦しみ出すか。
しかし。
カッッッ!!!
リリィの目が、限界まで見開かれた。
濁っていた瞳に、急激に光が戻る。
「……ッ!!!」
彼女の喉が大きく動いた。
そして、ガバッ! とメリアナの腕を掴んだ。
「……もっと」
「え?」
「もっと……よこせ……ッ!!」
「リリィ!?」
アレクセイが仰天する中、リリィは獣のような速さでメリアナの手からスプーンを奪い取り、自らスープ皿に突っ込んだ。
ガツガツガツッ! ズルズルズルッ!
「う、美味い……! これよ……私が待っていたのは、この刺激よぉぉッ!」
聖女とは思えない速度でスープを吸引していく。
飲むたびに、彼女の頬に赤みが差し、枯れ木のようだった肌に潤いが戻っていくのが目に見えて分かった。
「す、凄い……」
「みるみる生気が……!」
侍医たちが腰を抜かす。
「ははは! いい飲みっぷりですわ!」
メリアナは嬉しそうに、おかわりを注いだ。
「焦らなくていいですよ。鍋ごと持ってきましたから」
「うめぇ! マジで五臓六腑に染み渡る! ハラショー!」
リリィはスープの中に浮いていた『コカトリスの心臓』を丸呑みし、恍惚の表情を浮かべた。
「ああ……体が熱い! 力が湧いてくる! 今なら素手で岩を砕けそう!」
「な、なんだこれは……」
アレクセイは呆然と立ち尽くしていた。
彼の知っている「可憐で儚い聖女リリィ」はそこにはいなかった。
いるのは、丼を抱えて野獣のように食事をする、元気すぎる女性だ。
「……言っただろう」
ギルバートが弟の肩に手を置いた。
「彼女の料理は、人を幸せにする。……少々、副作用(ハイテンション)が強いがな」
三分後。
鍋は空になっていた。
「ぷはーッ! ご馳走様!」
リリィは満足げに腹をさすり、ゲフッとおっさん臭いゲップをした。
そして、ハッと我に返った。
「あ……私、何を……?」
彼女は慌てて口元を拭い、猫を被った聖女モードに戻った。
「こ、コホン。……メリアナ様。ありがとう。おかげで命拾いしましたわ」
「どういたしまして。顔色が良くなって何よりです」
メリアナはニッコリと笑った。
「それで、殿下」
彼女はアレクセイに向き直った。
「これで証明されましたわね? リリィ様の病気の原因は『毒』ではなく『栄養不足(スタミナ切れ)』だったということが」
「う……うむ……」
アレクセイは認めざるを得なかった。
目の前で、死にかけていた婚約者が完全復活したのだから。
「しかし、納得がいかん! なぜだ? なぜ王宮の最高級料理ではなく、あんなゲテモノ料理でなければ治らないんだ?」
「失礼ですね。ゲテモノではありません。『愛』です」
メリアナは真顔で訂正した。
「愛、だと?」
「ええ。殿下、あのスープを作るのにどれだけの手間がかかっているか、ご存知ですか?」
メリアナは指を折りながら説明し始めた。
「マンドラゴラは、満月の夜に収穫したものしか薬効がありません。しかも、下処理で一ミリでも皮が残っていると、激しい腹痛を起こします。私はそれを、虫眼鏡を使ってピンセットで取り除いているんです」
「……ピンセット?」
「沼地ウナギもそうです。一匹ずつ丁寧にマッサージをしてストレスを取り除き、血抜きは一滴も残さず行う。コカトリスの心臓に至っては、私の魔力で結界を張りながら毒腺を除去する……。この作業だけで、丸二日はかかります」
メリアナは胸を張った。
「ただ鍋に放り込んでいるわけではありません。食べる人の健康を考え、副作用が出ないギリギリのラインを見極め、美味しくなるように『命』と向き合っているのです」
「……」
「王宮の料理人たちが作るのは『技術』の料理。私が作るのは『覚悟』の料理。その違いが、リリィ様の体に届いたのですわ」
アレクセイは言葉を失った。
彼はメリアナのことを、ただの「奇行に走る迷惑な女」だと思っていた。
だが、その奇行の裏には、狂気的なまでの情熱と、計算された努力があったのだ。
「……そうよ、殿下」
リリィが口を開いた。
「私、メリアナ様のスープが大好きだったの。見た目は怖いけど、飲むと体がポカポカして、私が私らしくいられる気がしたの」
「リリィ……」
「でも、殿下が『あんなものは毒だ』って言うから……我慢してたの。ごめんなさい」
リリィは俯いた。
「そ、そうだったのか……。私は、君のためを思って……」
アレクセイはショックを受けていた。
自分の「常識」や「善意」が、逆に愛する人を追い詰めていたという事実に。
「……分かった」
アレクセイは深いため息をつき、メリアナを見た。
「私の負けだ、メリアナ。……礼を言う。リリィを救ってくれて」
「お礼なんて結構ですわ。私は料理人として、お腹を空かせた人を放っておけなかっただけですから」
「だが、これで問題が解決したわけではないぞ」
アレクセイは急に真剣な顔になった。
「リリィがそのスープなしでは生きられない体になっているのなら……やはり、お前には王都に戻ってもらわねば困る」
「は?」
「専属料理人として王宮に住め。給金は弾む。食材も好きなだけ用意しよう」
アレクセイなりの最大の譲歩だった。
毒殺未遂の罪は不問にし、高待遇で迎えるという提案。
しかし。
「お断りします」
メリアナは即答した。
食い気味だった。
「なっ……なぜだ!? 名誉回復もできるのだぞ!?」
「だって、王都には『アイアン・ボア』も『キング・バジリスク』もいませんもの」
「……は?」
「私は辺境で、毎日新鮮な魔物を追いかけ回して、それを美味しく調理するのが生き甲斐なんです。冷凍された食材が届くのを待つだけの生活なんて、耐えられません!」
メリアナは力説した。
「それに、私にはもう『専属契約』を結んだ相手がいますから」
彼女は隣に立つギルバートを見上げ、嬉しそうに左手の指輪を見せた。
「……え?」
アレクセイの視線が、二人の薬指にあるお揃いの指輪に釘付けになる。
「ぎ、兄上……? まさか本当に……?」
ギルバートはニヤリと笑い、メリアナの腰を抱き寄せた。
「そういうことだ、アレクセイ。彼女はヴォルグ辺境伯家の『内儀(ないぎ)』となる。王家の料理人として雇うなど、身分が許さんぞ」
「な、ななな……ッ!?」
アレクセイは目を剥いた。
あの「氷の将軍」が、女性を、しかもあのメリアナを抱き寄せている。天地がひっくり返るような光景だ。
「そ、そんな馬鹿な! 兄上は女嫌いで有名だったじゃないか!」
「彼女は別だ。……彼女の料理がない人生など、考えられん」
「(意訳:彼女の作る角煮丼が食べられない人生など考えられん)」
二人の間には、強固な信頼(と食欲)の絆が見えた。
アレクセイは敗北感を噛み締めた。
「だ、だが! リリィの食事はどうするんだ! メリアナがいなくなれば、またリリィは……!」
「ご安心ください」
メリアナがレシピノートを取り出した。
「リリィ様用の『簡易版スープ』のレシピを書いてきました。これなら、王宮の料理人でも(頑張れば)作れます」
「ほ、本当か!」
「ただし!」
メリアナは人差し指を立てた。
「材料の下処理は手を抜かないこと。そして、料理長以下のプライドをへし折って、一から叩き直す必要がありますわね」
「……分かった。私が責任を持って監督する」
アレクセイは決意の表情で頷いた。
愛するリリィのためなら、料理人たちに鬼軍曹として君臨する覚悟を決めたようだ。
「それと、もう一つ条件があります」
メリアナはニヤリと悪い顔をした。
「条件?」
「今回の治療費として……王宮の宝物庫に眠っているという伝説の調理器具、『炎竜のフライパン』を頂けませんか?」
「ぶっ!?」
アレクセイが吹き出した。
「あ、あれは国宝だぞ!?」
「命の恩人への対価としては安いものですわ。ねぇ、リリィ様?」
「ええ、殿下。あげちゃいましょうよ。私、もっと元気になりたいな♡」
リリィが媚びるように上目遣いをする。
スープで覚醒した彼女は、以前よりも図太く(たくましく)なっていた。
「ぐぬぬ……わ、分かった。持っていけ!」
「ありがとうございます! 商談成立ですわ!」
メリアナはガッツポーズをした。
こうして、再会と対決は、メリアナの完全勝利で幕を閉じた。
聖女は復活し、王宮には新たなスープ(激マズ激ウマ)の文化が根付くことになる。
だが、まだ終わりではない。
「さて、殿下。次は『公開料理対決』ですわよ」
「は? まだ何かあるのか?」
「ええ。厨房でステファン料理長に喧嘩を売ってきましたから。王宮料理人の皆さんに、私の『辺境メシ』の実力を分からせてあげないと、レシピを渡しても正しく作れませんもの」
メリアナの瞳には、まだ戦いの炎が消えていなかった。
むしろ、ここからが本番と言わんばかりだ。
「食育の時間ですわ、王都の皆さん」
恐怖の(美味しい)料理教室が、今始まろうとしていた。
『白薔薇の離宮』の寝室。
ワゴンに乗せられたスープを見た第一王子アレクセイが、悲鳴に近い声を上げた。
無理もない。
銀の器に波打っているのは、紫色と緑色がマーブル模様を描き、時折ボコッ……と不穏な泡を吹く液体だ。
そこから漂う匂いは、強烈なニンニク臭と、鼻の奥をツンと刺す野生の獣臭。
バラの香りで満たされていた令嬢の寝室は、一瞬にして魔物の巣窟のような空気に変わった。
「失礼な。これは『地獄からの帰還(リザレクション)・スペシャルスープ』ですわ」
メリアナは平然と言い放ち、スープをスプーンでかき混ぜた。
中から、ドロリと溶けたマンドラゴラの根っこ(人の顔の形が残っている)が顔を出す。
「ひぃっ! 顔!? 今、鍋の中で何かが笑ったぞ!?」
「幻覚です。マンドラゴラは煮込まれると笑顔になるんです」
「嘘をつけ! 貴様、やはりリリィにとどめを刺す気か!」
アレクセイが腰の剣に手をかけた。
しかし、それより早くギルバートが前に立ち塞がった。
「……退け、アレクセイ」
「兄上! 正気か!? あんな劇物を飲ませたら、リリィは死ぬぞ!」
「死なない。むしろ、今の彼女に必要なのは『毒を以て毒を制す』……いや、『圧倒的暴力(カロリー)』による蘇生だ」
ギルバートは絶対の信頼を込めて言い切った。
「私はこのスープを飲んだ部下たちが、瀕死の状態からドラゴンを殴り倒せるほど回復するのを何度も見ている」
「どんな臨床試験だそれは!」
アレクセイのツッコミは無視された。
「さあ、リリィ様。お口を開けてくださいな~」
メリアナはベッドの脇に座り、意識の朦朧としているリリィの上半身を優しく抱き起こした。
「うぅ……」
リリィは焦点の合わない目で宙を彷徨っている。
その鼻先に、スプーンを近づける。
クンッ。
リリィの鼻がピクリと動いた。
「……あ……」
彼女の口が、無意識に開く。
本能が嗅ぎつけたのだ。かつて自分の体を満たしていた、あの懐かしい「力の源」の匂いを。
「ダメだリリィ! 飲んではいけない!」
アレクセイが叫ぶ。
しかし、メリアナは構わずスプーンを口に突っ込んだ。
「はい、アーン」
パクッ。
ゴクリ。
静寂が流れた。
アレクセイ、侍医、そして護衛騎士たちが、固唾を飲んで見守る。
即死か、それとも苦しみ出すか。
しかし。
カッッッ!!!
リリィの目が、限界まで見開かれた。
濁っていた瞳に、急激に光が戻る。
「……ッ!!!」
彼女の喉が大きく動いた。
そして、ガバッ! とメリアナの腕を掴んだ。
「……もっと」
「え?」
「もっと……よこせ……ッ!!」
「リリィ!?」
アレクセイが仰天する中、リリィは獣のような速さでメリアナの手からスプーンを奪い取り、自らスープ皿に突っ込んだ。
ガツガツガツッ! ズルズルズルッ!
「う、美味い……! これよ……私が待っていたのは、この刺激よぉぉッ!」
聖女とは思えない速度でスープを吸引していく。
飲むたびに、彼女の頬に赤みが差し、枯れ木のようだった肌に潤いが戻っていくのが目に見えて分かった。
「す、凄い……」
「みるみる生気が……!」
侍医たちが腰を抜かす。
「ははは! いい飲みっぷりですわ!」
メリアナは嬉しそうに、おかわりを注いだ。
「焦らなくていいですよ。鍋ごと持ってきましたから」
「うめぇ! マジで五臓六腑に染み渡る! ハラショー!」
リリィはスープの中に浮いていた『コカトリスの心臓』を丸呑みし、恍惚の表情を浮かべた。
「ああ……体が熱い! 力が湧いてくる! 今なら素手で岩を砕けそう!」
「な、なんだこれは……」
アレクセイは呆然と立ち尽くしていた。
彼の知っている「可憐で儚い聖女リリィ」はそこにはいなかった。
いるのは、丼を抱えて野獣のように食事をする、元気すぎる女性だ。
「……言っただろう」
ギルバートが弟の肩に手を置いた。
「彼女の料理は、人を幸せにする。……少々、副作用(ハイテンション)が強いがな」
三分後。
鍋は空になっていた。
「ぷはーッ! ご馳走様!」
リリィは満足げに腹をさすり、ゲフッとおっさん臭いゲップをした。
そして、ハッと我に返った。
「あ……私、何を……?」
彼女は慌てて口元を拭い、猫を被った聖女モードに戻った。
「こ、コホン。……メリアナ様。ありがとう。おかげで命拾いしましたわ」
「どういたしまして。顔色が良くなって何よりです」
メリアナはニッコリと笑った。
「それで、殿下」
彼女はアレクセイに向き直った。
「これで証明されましたわね? リリィ様の病気の原因は『毒』ではなく『栄養不足(スタミナ切れ)』だったということが」
「う……うむ……」
アレクセイは認めざるを得なかった。
目の前で、死にかけていた婚約者が完全復活したのだから。
「しかし、納得がいかん! なぜだ? なぜ王宮の最高級料理ではなく、あんなゲテモノ料理でなければ治らないんだ?」
「失礼ですね。ゲテモノではありません。『愛』です」
メリアナは真顔で訂正した。
「愛、だと?」
「ええ。殿下、あのスープを作るのにどれだけの手間がかかっているか、ご存知ですか?」
メリアナは指を折りながら説明し始めた。
「マンドラゴラは、満月の夜に収穫したものしか薬効がありません。しかも、下処理で一ミリでも皮が残っていると、激しい腹痛を起こします。私はそれを、虫眼鏡を使ってピンセットで取り除いているんです」
「……ピンセット?」
「沼地ウナギもそうです。一匹ずつ丁寧にマッサージをしてストレスを取り除き、血抜きは一滴も残さず行う。コカトリスの心臓に至っては、私の魔力で結界を張りながら毒腺を除去する……。この作業だけで、丸二日はかかります」
メリアナは胸を張った。
「ただ鍋に放り込んでいるわけではありません。食べる人の健康を考え、副作用が出ないギリギリのラインを見極め、美味しくなるように『命』と向き合っているのです」
「……」
「王宮の料理人たちが作るのは『技術』の料理。私が作るのは『覚悟』の料理。その違いが、リリィ様の体に届いたのですわ」
アレクセイは言葉を失った。
彼はメリアナのことを、ただの「奇行に走る迷惑な女」だと思っていた。
だが、その奇行の裏には、狂気的なまでの情熱と、計算された努力があったのだ。
「……そうよ、殿下」
リリィが口を開いた。
「私、メリアナ様のスープが大好きだったの。見た目は怖いけど、飲むと体がポカポカして、私が私らしくいられる気がしたの」
「リリィ……」
「でも、殿下が『あんなものは毒だ』って言うから……我慢してたの。ごめんなさい」
リリィは俯いた。
「そ、そうだったのか……。私は、君のためを思って……」
アレクセイはショックを受けていた。
自分の「常識」や「善意」が、逆に愛する人を追い詰めていたという事実に。
「……分かった」
アレクセイは深いため息をつき、メリアナを見た。
「私の負けだ、メリアナ。……礼を言う。リリィを救ってくれて」
「お礼なんて結構ですわ。私は料理人として、お腹を空かせた人を放っておけなかっただけですから」
「だが、これで問題が解決したわけではないぞ」
アレクセイは急に真剣な顔になった。
「リリィがそのスープなしでは生きられない体になっているのなら……やはり、お前には王都に戻ってもらわねば困る」
「は?」
「専属料理人として王宮に住め。給金は弾む。食材も好きなだけ用意しよう」
アレクセイなりの最大の譲歩だった。
毒殺未遂の罪は不問にし、高待遇で迎えるという提案。
しかし。
「お断りします」
メリアナは即答した。
食い気味だった。
「なっ……なぜだ!? 名誉回復もできるのだぞ!?」
「だって、王都には『アイアン・ボア』も『キング・バジリスク』もいませんもの」
「……は?」
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メリアナは力説した。
「それに、私にはもう『専属契約』を結んだ相手がいますから」
彼女は隣に立つギルバートを見上げ、嬉しそうに左手の指輪を見せた。
「……え?」
アレクセイの視線が、二人の薬指にあるお揃いの指輪に釘付けになる。
「ぎ、兄上……? まさか本当に……?」
ギルバートはニヤリと笑い、メリアナの腰を抱き寄せた。
「そういうことだ、アレクセイ。彼女はヴォルグ辺境伯家の『内儀(ないぎ)』となる。王家の料理人として雇うなど、身分が許さんぞ」
「な、ななな……ッ!?」
アレクセイは目を剥いた。
あの「氷の将軍」が、女性を、しかもあのメリアナを抱き寄せている。天地がひっくり返るような光景だ。
「そ、そんな馬鹿な! 兄上は女嫌いで有名だったじゃないか!」
「彼女は別だ。……彼女の料理がない人生など、考えられん」
「(意訳:彼女の作る角煮丼が食べられない人生など考えられん)」
二人の間には、強固な信頼(と食欲)の絆が見えた。
アレクセイは敗北感を噛み締めた。
「だ、だが! リリィの食事はどうするんだ! メリアナがいなくなれば、またリリィは……!」
「ご安心ください」
メリアナがレシピノートを取り出した。
「リリィ様用の『簡易版スープ』のレシピを書いてきました。これなら、王宮の料理人でも(頑張れば)作れます」
「ほ、本当か!」
「ただし!」
メリアナは人差し指を立てた。
「材料の下処理は手を抜かないこと。そして、料理長以下のプライドをへし折って、一から叩き直す必要がありますわね」
「……分かった。私が責任を持って監督する」
アレクセイは決意の表情で頷いた。
愛するリリィのためなら、料理人たちに鬼軍曹として君臨する覚悟を決めたようだ。
「それと、もう一つ条件があります」
メリアナはニヤリと悪い顔をした。
「条件?」
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「ぶっ!?」
アレクセイが吹き出した。
「あ、あれは国宝だぞ!?」
「命の恩人への対価としては安いものですわ。ねぇ、リリィ様?」
「ええ、殿下。あげちゃいましょうよ。私、もっと元気になりたいな♡」
リリィが媚びるように上目遣いをする。
スープで覚醒した彼女は、以前よりも図太く(たくましく)なっていた。
「ぐぬぬ……わ、分かった。持っていけ!」
「ありがとうございます! 商談成立ですわ!」
メリアナはガッツポーズをした。
こうして、再会と対決は、メリアナの完全勝利で幕を閉じた。
聖女は復活し、王宮には新たなスープ(激マズ激ウマ)の文化が根付くことになる。
だが、まだ終わりではない。
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「は? まだ何かあるのか?」
「ええ。厨房でステファン料理長に喧嘩を売ってきましたから。王宮料理人の皆さんに、私の『辺境メシ』の実力を分からせてあげないと、レシピを渡しても正しく作れませんもの」
メリアナの瞳には、まだ戦いの炎が消えていなかった。
むしろ、ここからが本番と言わんばかりだ。
「食育の時間ですわ、王都の皆さん」
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