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「……メリアナ様。少し、よろしいですか?」
王城のメインキッチンへと向かう廊下で、後ろから袖を引かれた。
振り返ると、すっかり顔色が良くなった聖女リリィが、モジモジと指を絡ませて立っていた。
「あら、リリィ様。まだ安静にしておかなくて大丈夫ですの?」
「ええ。貴女のスープのおかげで、今は魔力が溢れすぎて、じっとしていられないの」
リリィは周囲をキョロキョロと見回し、誰もいないことを確認すると、コソッと言った。
「……あのね。ごめんなさい」
「はい?」
「私、ずっと嘘をついていたの。『苦い』とか『不味い』とか言って、貴女を悪者にして……本当は、貴女が一生懸命作ってくれていたこと、知っていたのに」
リリィは俯いた。その耳は真っ赤だ。
「王子や周りの人たちが『公爵令嬢の料理なんて毒だ』って言うから、空気に流されて……貴女を庇えなかった。それで追放までさせてしまって……本当にごめんなさい!」
彼女の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
メリアナは少し驚き、そして優しく微笑んだ。
「いいんですよ、リリィ様」
「え?」
「貴女が私のスープを完食してくれた。それが一番の答えですから。料理人にとって、お皿を空にしてもらうこと以上の喜びはありませんわ」
メリアナはハンカチを取り出し、リリィの涙を拭った。
「それに、結果的に私は辺境で素晴らしい食材たちに出会えました。今の私は、王都にいた頃よりずっと幸せなんです」
「メリアナ様……」
リリィは潤んだ瞳でメリアナを見つめ、そしてギュッと彼女の手を握った。
「私、お詫びがしたい! これからの料理対決、私に助手をさせて!」
「助手を? 聖女様がか?」
横で聞いていたギルバートが驚きの声を上げる。
「ええ! 私、こう見えても浄化魔法が得意なの。泥付き野菜の洗浄なら誰にも負けないわ! ……それに、もう二度と貴女を一人にはさせないって決めたから」
リリィの瞳には、強い決意の光が宿っていた。
かつての守られるだけの聖女ではない。共に戦うパートナーとしての顔だ。
「ふふ。頼もしいですわね」
メリアナは嬉しそうに頷いた。
「では採用です! リリィ様には『食材洗浄チーフ』を任命しますわ。ただし、私の厨房は戦場ですから、ドレスは汚れますわよ?」
「望むところよ! 一番動きやすい服に着替えてくる!」
リリィはパッと笑顔になり、脱兎の如く走り去っていった。
「……変わったな、彼女も」
ギルバートが感心したように呟く。
「ええ。美味しいものを食べて元気になれば、人は前向きになれるんです」
メリアナはニヤリと笑った。
「さあ閣下。私たちも行きましょう。ステファン料理長が、包丁を研いで待っているはずですわ」
***
王宮の大広間。
普段は舞踏会や式典に使われるこの場所が、今日は異様な熱気に包まれていた。
中央には二つの巨大な調理台が設置され、その周りを数百人の貴族や王宮関係者が取り囲んでいる。
「おい、聞いたか? あの『毒殺令嬢』が王宮料理長に勝負を挑んだらしいぞ」
「なんたる無謀な……」
「しかし、聖女様を治したのは彼女のスープだという噂もある」
「まさか。あんなゲテモノ料理で?」
ざわめきの中、ファンファーレが鳴り響いた。
審査員席の中央には、第一王子アレクセイが座っている。彼は複雑な表情で、二人の対決者を見下ろした。
「これより、特別料理対決を行う! テーマは『王子の食欲を取り戻す、至高の一皿』だ!」
アレクセイの声が響く。
「先攻、王宮料理長ステファン! 後攻、ヴォルグ辺境伯領内儀(予定)、メリアナ・ベルトル!」
「おおーっ!!」
歓声と共に、ステファンが一歩前に出た。
彼は真っ白なコックコートに身を包み、自信に満ちた表情で髭を撫でた。
「ふん。小娘ごときに、王宮料理の歴史と伝統が敗れるはずがない。……見せてやろう、真の美食というものを」
彼の背後には、選りすぐりのエリートコックたちが控えている。
用意された食材は、最高級の霜降り牛、フォアグラ、トリュフ、キャビア……。
王都の財力を結集したような豪華ラインナップだ。
対するメリアナ側の調理台。
「……おい、あれを見ろ」
「なんだあの食材は……」
観客たちがざわつく。
メリアナのテーブルに並べられていたのは、泥だらけの巨大な根菜、紫色の肉塊、そして見たこともない巨大な卵(怪鳥ロックの卵)だった。
「ふふふ。やっぱり王都の市場にはないものばかりね」
メリアナは腕まくりをした。
その隣には、動きやすいパンツスタイルに着替えた聖女リリィが、なぜかデッキブラシを構えて立っている。
「準備万端よ、メリアナ様! 泥でも血でもどんと来いよ!」
「リリィ様、キャラが変わっていましてよ」
ギルバートは調理台の脇で、腕を組んで護衛(兼・味見係)として控えている。その姿だけで、周囲の貴族への牽制は十分だ。
「では、両者構え!」
アレクセイが手を振り上げた。
「調理開始ッ!!」
ゴングが鳴った瞬間、会場の空気が一変した。
「ハッ!!」
ステファン側の動きは洗練されていた。
流れるようなナイフ捌き。無駄のない連携。
瞬く間に野菜が飾り切りされ、肉が焼ける芳醇な香りが漂い始める。
「素晴らしい……これぞ芸術だ」
「香りだけでワインが飲めるぞ」
貴族たちがうっとりとため息をつく。
一方、メリアナ側。
「リリィ様! 『アイアン・ポテト』の泥を落として!」
「了解! 『浄化(ピュリフィケーション)』ッ!!」
カッ!!
リリィが魔法を放つと、岩のようにゴツゴツしていた芋が一瞬でピカピカになった。
「ナイスです! 次は私が!」
メリアナは『オークの肩ロース』をまな板に乗せると、ミートハンマーを振り上げた。
ドゴォッ! バギィッ!
「ヒィッ!」
貴族たちが悲鳴を上げる。
調理音ではない。解体現場、あるいは処刑場の音だ。
「スジを断ち切り、繊維をほぐす! これこそが肉への愛!」
メリアナは鬼気迫る表情で肉を叩き続ける。
「愛が重い……!」
「あれは料理なのか!?」
会場がドン引きする中、ただ一人、アレクセイ王子だけが身を乗り出していた。
(……なんだ、この高揚感は)
ステファンの料理からは、上品で安心できる香りがする。
だが、メリアナの調理台からは、何か野性的で、本能を揺さぶるような熱気が伝わってくるのだ。
(私は……どっちを食べたいんだ?)
一時間はあっという間に過ぎた。
「そこまでッ!!」
終了の鐘が鳴る。
「まずはステファン料理長、実食!」
ステファンが恭しく皿を差し出した。
「『仔牛のフィレ肉のソテー ~黒トリュフと赤ワインのソース~』でございます。付け合わせは、王室農園で採れた有機野菜のテリーヌです」
見た目は完璧だった。
宝石箱のように美しく、ソースの艶も素晴らしい。
審査員たちがナイフを入れる。
「柔らかい……!」
「口の中でとろけるようだ」
「さすが料理長、文句のつけようがない」
高評価が続く。
アレクセイも一口食べ、頷いた。
「うむ。美味い。……いつも通りの、完璧な味だ」
「ありがとうございます!」
ステファンは勝利を確信し、メリアナを見下した。
どうだ、これがお前に出せるか、と。
「続いて、メリアナ・ベルトル!」
メリアナがワゴンを押して進み出る。
そこには、大きな土鍋が一つだけ乗っていた。
「……なんだそれは?」
アレクセイが尋ねる。
「はい。『辺境風・魔物肉のスタミナ定食』のメインディッシュ、『オークとロック鳥の親子煮込み ~特製スパイス地獄仕立て~』ですわ!」
メリアナが蓋を開けた。
ドワァァァァッ!!!
湯気とともに、会場全体を飲み込むような強烈な香りが爆発した。
ニンニク、ショウガ、そして数十種類のスパイスが複雑に絡み合った香り。
そこに、濃厚な醤油と肉の脂の甘い匂いが混ざり合う。
「なッ……!?」
貴族たちが鼻を押さえるどころか、逆に鼻をひくつかせた。
「なんだこの匂いは……腹が……急に腹が減ってきたぞ!?」
「さっき昼食を食べたばかりなのに、唾液が止まらん!」
ステファンの繊細なフレンチの香りが、一瞬にしてメリアナの「飯テロ臭」にかき消された。
「さあ、殿下。どうぞ」
メリアナは茶碗に白米をよそい、その上に煮込みをドサッとかけた。
茶色い。圧倒的に茶色い。
彩りなど、申し訳程度に乗ったネギの緑だけだ。
しかし、その茶色は黄金に輝いていた。
煮崩れた肉、味が染み込んだ豆腐、トロトロの半熟卵。
アレクセイの手が震えた。
目の前の「茶色い山」が、どんな宝石よりも魅力的に見えたからだ。
「……い、いただく」
彼はスプーンですくい、口に運んだ。
パクッ。
一秒後。
ガタンッ!!
アレクセイが椅子から立ち上がった。
「……!!!」
言葉が出ない。
ただ、目を見開き、口元を押さえて震えている。
「で、殿下!?」
「もしや毒が!?」
側近たちが慌てる。
「ち、違う……」
アレクセイは呻くように言った。
「思い出したんだ……」
「は?」
「生きるということは……食べるとは、こういうことだったんだ……ッ!!」
アレクセイの目から涙が溢れた。
上品なソースでは決して埋められなかった心の隙間。
それを、この荒々しくも温かい煮込みが、ガツンと埋めてくれたのだ。
「うおおおおッ!! 美味いッ!! 箸が止まらんッ!!」
アレクセイは王子としての品位をかなぐり捨て、丼をかっこみ始めた。
「あ、熱っ! でも止まらん! ハフハフッ!」
「殿下!? あのアレクセイ様が丼飯を!?」
会場は騒然となった。
他の審査員たちも、恐る恐る口をつけ、そして全員が同じ反応をした。
「なんというコクだ……」
「辛い! でも卵がマイルドで……米が進む!」
「おかわり! 誰かおかわりを!」
審査員席が、大衆食堂と化した。
ステファンは呆然と立ち尽くしていた。
「ば、馬鹿な……。あんな、見た目も悪いごった煮が……私のフィレ肉より上だと言うのか……?」
彼は信じられない思いで、残った煮込みの鍋に近づいた。
「……毒見だ。毒見をさせろ」
彼は震える手で、鍋の底に残った汁を舐めた。
「……ッ!!」
電流が走った。
脳裏に浮かんだのは、若き日の自分。
まだ見習いだった頃、忙しい厨房の片隅で、余った食材を煮込んで食べた賄い飯の味。
形は悪くても、仲間と笑いながら食べた、あの最高に美味しかった記憶。
「あ……あぁ……」
ステファンはその場に崩れ落ちた。
「忘れていた……。私は、いつの間にか『料理』ではなく『作品』を作ろうとしていた……」
彼は涙を流しながら、メリアナを見上げた。
「……私の負けだ。完敗だ」
会場が静まり返る。
そして、ワァァァァッ!! と割れんばかりの拍手が巻き起こった。
「勝者、メリアナ・ベルトルーーッ!!」
アレクセイが(口の周りに米粒をつけたまま)高らかに宣言した。
メリアナは、隣でガッツポーズをするリリィとハイタッチを交わし、そしてギルバートに抱きついた。
「やりましたわ、閣下! 完全勝利です!」
「ああ。……誇らしいよ、メリアナ」
ギルバートは優しく彼女の頭を撫でた。
「これで、王都の食卓も少しはマシになるだろう」
「ええ。これからは、もっと美味しいものが食べられますわよ!」
メリアナは会場を見渡し、ニッコリと笑った。
その笑顔は、かつて「毒殺令嬢」と呼ばれた女のものではない。
この国の食文化を変える、「革命家」の顔だった。
しかし。
一件落着かと思われたその時。
「……待たれよ」
会場の入り口から、重々しい声が響いた。
現れたのは、豪奢な王冠を被った初老の男性――国王その人だった。
「ち、父上!?」
アレクセイが慌てて姿勢を正す。
国王はゆっくりと歩み寄り、メリアナの前で立ち止まった。
「そなたが、噂のメリアナか」
「はい、陛下」
メリアナは優雅にカーテシーをした。
「その料理……余も一口、食べてみたいのだが」
国王の目が、残った鍋(ほぼ空)に釘付けになっていた。
どうやら、匂いに釣られて執務室から出てきてしまったらしい。
「あ、あの、もうほとんど残っていないのですが……」
「汁だけでいい! 米にかけてくれ!」
まさかの国王からのおねだり。
メリアナは苦笑しながら、最後の「汁かけ飯」を作って差し出した。
国王はそれを一口食べ、そして目を見開いて言った。
「……この味、どこかで……」
国王の表情が、懐かしさと驚きに染まっていく。
「そうか……これは、余が若き日に辺境遠征で食べた、あの『冒険の味』だ……!」
国王までもが陥落した瞬間だった。
「メリアナよ。そなたに頼みがある」
国王は真剣な眼差しで言った。
「この料理を、王宮の正式メニューに加えたい。……いや、そなたを『王室料理顧問』に任命する!」
「えっ?」
「王都に留まり、この味を広めてくれぬか?」
再びの引き抜き勧誘。
アレクセイだけでなく、国王までもが彼女の才能(胃袋)に惚れ込んでしまったのだ。
しかし、メリアナは揺るがなかった。
彼女はギルバートの手をギュッと握り、堂々と答えた。
「光栄なお話ですが、お断りいたします」
「な、なぜだ?」
「私の『厨房』は、ヴォルグ辺境伯領にありますから」
彼女はキッパリと言い放った。
「それに……私は王宮の飾り物になるより、毎日泥だらけになって食材を追いかける方が性(しょう)に合っているんです」
その言葉に、ギルバートは目元を緩めた。
「……だ、そうだ。父上」
ギルバートが国王に進み出る。
「彼女は、私が貰い受けます。誰にも渡す気はありません」
王と王子の前で、堂々の「お持ち帰り宣言」。
国王はしばらく二人を見つめ、やがて豪快に笑った。
「ハハハ! そうかそうか! ギルバートがそこまで言うなら仕方あるまい!」
国王は諦めたように、しかし満足げに頷いた。
「だが、条件がある」
「条件?」
「年に一度……いや、月に一度でいい。この『煮込み』を王都に送ってくれ。クール便で頼む」
「……承知いたしました」
こうして、メリアナの「王都凱旋・料理対決」は、王家をも巻き込んだ大団円で幕を閉じた。
毒殺の汚名は完全に雪(すす)がれ、彼女の名は「美食の聖女」として王都に刻まれることになったのだ。
「さあ、閣下。帰りましょう!」
「ああ。……辺境が待っている」
メリアナとギルバート、そして一行は、多くの人々に見送られながら王都を後にした。
馬車の中で、メリアナはリリィから貰った手紙を開いた。
そこには、汚い字で一言だけ書かれていた。
『また食べに行くから、覚悟しててね!』
「ふふ。……楽しみですわ」
メリアナは窓の外、北の空を見上げた。
そこには、まだ見ぬ未知の食材たちが待っているはずだ。
「お腹が空いてきましたわ!」
彼女の冒険(食欲)は、まだまだ終わらない。
王城のメインキッチンへと向かう廊下で、後ろから袖を引かれた。
振り返ると、すっかり顔色が良くなった聖女リリィが、モジモジと指を絡ませて立っていた。
「あら、リリィ様。まだ安静にしておかなくて大丈夫ですの?」
「ええ。貴女のスープのおかげで、今は魔力が溢れすぎて、じっとしていられないの」
リリィは周囲をキョロキョロと見回し、誰もいないことを確認すると、コソッと言った。
「……あのね。ごめんなさい」
「はい?」
「私、ずっと嘘をついていたの。『苦い』とか『不味い』とか言って、貴女を悪者にして……本当は、貴女が一生懸命作ってくれていたこと、知っていたのに」
リリィは俯いた。その耳は真っ赤だ。
「王子や周りの人たちが『公爵令嬢の料理なんて毒だ』って言うから、空気に流されて……貴女を庇えなかった。それで追放までさせてしまって……本当にごめんなさい!」
彼女の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
メリアナは少し驚き、そして優しく微笑んだ。
「いいんですよ、リリィ様」
「え?」
「貴女が私のスープを完食してくれた。それが一番の答えですから。料理人にとって、お皿を空にしてもらうこと以上の喜びはありませんわ」
メリアナはハンカチを取り出し、リリィの涙を拭った。
「それに、結果的に私は辺境で素晴らしい食材たちに出会えました。今の私は、王都にいた頃よりずっと幸せなんです」
「メリアナ様……」
リリィは潤んだ瞳でメリアナを見つめ、そしてギュッと彼女の手を握った。
「私、お詫びがしたい! これからの料理対決、私に助手をさせて!」
「助手を? 聖女様がか?」
横で聞いていたギルバートが驚きの声を上げる。
「ええ! 私、こう見えても浄化魔法が得意なの。泥付き野菜の洗浄なら誰にも負けないわ! ……それに、もう二度と貴女を一人にはさせないって決めたから」
リリィの瞳には、強い決意の光が宿っていた。
かつての守られるだけの聖女ではない。共に戦うパートナーとしての顔だ。
「ふふ。頼もしいですわね」
メリアナは嬉しそうに頷いた。
「では採用です! リリィ様には『食材洗浄チーフ』を任命しますわ。ただし、私の厨房は戦場ですから、ドレスは汚れますわよ?」
「望むところよ! 一番動きやすい服に着替えてくる!」
リリィはパッと笑顔になり、脱兎の如く走り去っていった。
「……変わったな、彼女も」
ギルバートが感心したように呟く。
「ええ。美味しいものを食べて元気になれば、人は前向きになれるんです」
メリアナはニヤリと笑った。
「さあ閣下。私たちも行きましょう。ステファン料理長が、包丁を研いで待っているはずですわ」
***
王宮の大広間。
普段は舞踏会や式典に使われるこの場所が、今日は異様な熱気に包まれていた。
中央には二つの巨大な調理台が設置され、その周りを数百人の貴族や王宮関係者が取り囲んでいる。
「おい、聞いたか? あの『毒殺令嬢』が王宮料理長に勝負を挑んだらしいぞ」
「なんたる無謀な……」
「しかし、聖女様を治したのは彼女のスープだという噂もある」
「まさか。あんなゲテモノ料理で?」
ざわめきの中、ファンファーレが鳴り響いた。
審査員席の中央には、第一王子アレクセイが座っている。彼は複雑な表情で、二人の対決者を見下ろした。
「これより、特別料理対決を行う! テーマは『王子の食欲を取り戻す、至高の一皿』だ!」
アレクセイの声が響く。
「先攻、王宮料理長ステファン! 後攻、ヴォルグ辺境伯領内儀(予定)、メリアナ・ベルトル!」
「おおーっ!!」
歓声と共に、ステファンが一歩前に出た。
彼は真っ白なコックコートに身を包み、自信に満ちた表情で髭を撫でた。
「ふん。小娘ごときに、王宮料理の歴史と伝統が敗れるはずがない。……見せてやろう、真の美食というものを」
彼の背後には、選りすぐりのエリートコックたちが控えている。
用意された食材は、最高級の霜降り牛、フォアグラ、トリュフ、キャビア……。
王都の財力を結集したような豪華ラインナップだ。
対するメリアナ側の調理台。
「……おい、あれを見ろ」
「なんだあの食材は……」
観客たちがざわつく。
メリアナのテーブルに並べられていたのは、泥だらけの巨大な根菜、紫色の肉塊、そして見たこともない巨大な卵(怪鳥ロックの卵)だった。
「ふふふ。やっぱり王都の市場にはないものばかりね」
メリアナは腕まくりをした。
その隣には、動きやすいパンツスタイルに着替えた聖女リリィが、なぜかデッキブラシを構えて立っている。
「準備万端よ、メリアナ様! 泥でも血でもどんと来いよ!」
「リリィ様、キャラが変わっていましてよ」
ギルバートは調理台の脇で、腕を組んで護衛(兼・味見係)として控えている。その姿だけで、周囲の貴族への牽制は十分だ。
「では、両者構え!」
アレクセイが手を振り上げた。
「調理開始ッ!!」
ゴングが鳴った瞬間、会場の空気が一変した。
「ハッ!!」
ステファン側の動きは洗練されていた。
流れるようなナイフ捌き。無駄のない連携。
瞬く間に野菜が飾り切りされ、肉が焼ける芳醇な香りが漂い始める。
「素晴らしい……これぞ芸術だ」
「香りだけでワインが飲めるぞ」
貴族たちがうっとりとため息をつく。
一方、メリアナ側。
「リリィ様! 『アイアン・ポテト』の泥を落として!」
「了解! 『浄化(ピュリフィケーション)』ッ!!」
カッ!!
リリィが魔法を放つと、岩のようにゴツゴツしていた芋が一瞬でピカピカになった。
「ナイスです! 次は私が!」
メリアナは『オークの肩ロース』をまな板に乗せると、ミートハンマーを振り上げた。
ドゴォッ! バギィッ!
「ヒィッ!」
貴族たちが悲鳴を上げる。
調理音ではない。解体現場、あるいは処刑場の音だ。
「スジを断ち切り、繊維をほぐす! これこそが肉への愛!」
メリアナは鬼気迫る表情で肉を叩き続ける。
「愛が重い……!」
「あれは料理なのか!?」
会場がドン引きする中、ただ一人、アレクセイ王子だけが身を乗り出していた。
(……なんだ、この高揚感は)
ステファンの料理からは、上品で安心できる香りがする。
だが、メリアナの調理台からは、何か野性的で、本能を揺さぶるような熱気が伝わってくるのだ。
(私は……どっちを食べたいんだ?)
一時間はあっという間に過ぎた。
「そこまでッ!!」
終了の鐘が鳴る。
「まずはステファン料理長、実食!」
ステファンが恭しく皿を差し出した。
「『仔牛のフィレ肉のソテー ~黒トリュフと赤ワインのソース~』でございます。付け合わせは、王室農園で採れた有機野菜のテリーヌです」
見た目は完璧だった。
宝石箱のように美しく、ソースの艶も素晴らしい。
審査員たちがナイフを入れる。
「柔らかい……!」
「口の中でとろけるようだ」
「さすが料理長、文句のつけようがない」
高評価が続く。
アレクセイも一口食べ、頷いた。
「うむ。美味い。……いつも通りの、完璧な味だ」
「ありがとうございます!」
ステファンは勝利を確信し、メリアナを見下した。
どうだ、これがお前に出せるか、と。
「続いて、メリアナ・ベルトル!」
メリアナがワゴンを押して進み出る。
そこには、大きな土鍋が一つだけ乗っていた。
「……なんだそれは?」
アレクセイが尋ねる。
「はい。『辺境風・魔物肉のスタミナ定食』のメインディッシュ、『オークとロック鳥の親子煮込み ~特製スパイス地獄仕立て~』ですわ!」
メリアナが蓋を開けた。
ドワァァァァッ!!!
湯気とともに、会場全体を飲み込むような強烈な香りが爆発した。
ニンニク、ショウガ、そして数十種類のスパイスが複雑に絡み合った香り。
そこに、濃厚な醤油と肉の脂の甘い匂いが混ざり合う。
「なッ……!?」
貴族たちが鼻を押さえるどころか、逆に鼻をひくつかせた。
「なんだこの匂いは……腹が……急に腹が減ってきたぞ!?」
「さっき昼食を食べたばかりなのに、唾液が止まらん!」
ステファンの繊細なフレンチの香りが、一瞬にしてメリアナの「飯テロ臭」にかき消された。
「さあ、殿下。どうぞ」
メリアナは茶碗に白米をよそい、その上に煮込みをドサッとかけた。
茶色い。圧倒的に茶色い。
彩りなど、申し訳程度に乗ったネギの緑だけだ。
しかし、その茶色は黄金に輝いていた。
煮崩れた肉、味が染み込んだ豆腐、トロトロの半熟卵。
アレクセイの手が震えた。
目の前の「茶色い山」が、どんな宝石よりも魅力的に見えたからだ。
「……い、いただく」
彼はスプーンですくい、口に運んだ。
パクッ。
一秒後。
ガタンッ!!
アレクセイが椅子から立ち上がった。
「……!!!」
言葉が出ない。
ただ、目を見開き、口元を押さえて震えている。
「で、殿下!?」
「もしや毒が!?」
側近たちが慌てる。
「ち、違う……」
アレクセイは呻くように言った。
「思い出したんだ……」
「は?」
「生きるということは……食べるとは、こういうことだったんだ……ッ!!」
アレクセイの目から涙が溢れた。
上品なソースでは決して埋められなかった心の隙間。
それを、この荒々しくも温かい煮込みが、ガツンと埋めてくれたのだ。
「うおおおおッ!! 美味いッ!! 箸が止まらんッ!!」
アレクセイは王子としての品位をかなぐり捨て、丼をかっこみ始めた。
「あ、熱っ! でも止まらん! ハフハフッ!」
「殿下!? あのアレクセイ様が丼飯を!?」
会場は騒然となった。
他の審査員たちも、恐る恐る口をつけ、そして全員が同じ反応をした。
「なんというコクだ……」
「辛い! でも卵がマイルドで……米が進む!」
「おかわり! 誰かおかわりを!」
審査員席が、大衆食堂と化した。
ステファンは呆然と立ち尽くしていた。
「ば、馬鹿な……。あんな、見た目も悪いごった煮が……私のフィレ肉より上だと言うのか……?」
彼は信じられない思いで、残った煮込みの鍋に近づいた。
「……毒見だ。毒見をさせろ」
彼は震える手で、鍋の底に残った汁を舐めた。
「……ッ!!」
電流が走った。
脳裏に浮かんだのは、若き日の自分。
まだ見習いだった頃、忙しい厨房の片隅で、余った食材を煮込んで食べた賄い飯の味。
形は悪くても、仲間と笑いながら食べた、あの最高に美味しかった記憶。
「あ……あぁ……」
ステファンはその場に崩れ落ちた。
「忘れていた……。私は、いつの間にか『料理』ではなく『作品』を作ろうとしていた……」
彼は涙を流しながら、メリアナを見上げた。
「……私の負けだ。完敗だ」
会場が静まり返る。
そして、ワァァァァッ!! と割れんばかりの拍手が巻き起こった。
「勝者、メリアナ・ベルトルーーッ!!」
アレクセイが(口の周りに米粒をつけたまま)高らかに宣言した。
メリアナは、隣でガッツポーズをするリリィとハイタッチを交わし、そしてギルバートに抱きついた。
「やりましたわ、閣下! 完全勝利です!」
「ああ。……誇らしいよ、メリアナ」
ギルバートは優しく彼女の頭を撫でた。
「これで、王都の食卓も少しはマシになるだろう」
「ええ。これからは、もっと美味しいものが食べられますわよ!」
メリアナは会場を見渡し、ニッコリと笑った。
その笑顔は、かつて「毒殺令嬢」と呼ばれた女のものではない。
この国の食文化を変える、「革命家」の顔だった。
しかし。
一件落着かと思われたその時。
「……待たれよ」
会場の入り口から、重々しい声が響いた。
現れたのは、豪奢な王冠を被った初老の男性――国王その人だった。
「ち、父上!?」
アレクセイが慌てて姿勢を正す。
国王はゆっくりと歩み寄り、メリアナの前で立ち止まった。
「そなたが、噂のメリアナか」
「はい、陛下」
メリアナは優雅にカーテシーをした。
「その料理……余も一口、食べてみたいのだが」
国王の目が、残った鍋(ほぼ空)に釘付けになっていた。
どうやら、匂いに釣られて執務室から出てきてしまったらしい。
「あ、あの、もうほとんど残っていないのですが……」
「汁だけでいい! 米にかけてくれ!」
まさかの国王からのおねだり。
メリアナは苦笑しながら、最後の「汁かけ飯」を作って差し出した。
国王はそれを一口食べ、そして目を見開いて言った。
「……この味、どこかで……」
国王の表情が、懐かしさと驚きに染まっていく。
「そうか……これは、余が若き日に辺境遠征で食べた、あの『冒険の味』だ……!」
国王までもが陥落した瞬間だった。
「メリアナよ。そなたに頼みがある」
国王は真剣な眼差しで言った。
「この料理を、王宮の正式メニューに加えたい。……いや、そなたを『王室料理顧問』に任命する!」
「えっ?」
「王都に留まり、この味を広めてくれぬか?」
再びの引き抜き勧誘。
アレクセイだけでなく、国王までもが彼女の才能(胃袋)に惚れ込んでしまったのだ。
しかし、メリアナは揺るがなかった。
彼女はギルバートの手をギュッと握り、堂々と答えた。
「光栄なお話ですが、お断りいたします」
「な、なぜだ?」
「私の『厨房』は、ヴォルグ辺境伯領にありますから」
彼女はキッパリと言い放った。
「それに……私は王宮の飾り物になるより、毎日泥だらけになって食材を追いかける方が性(しょう)に合っているんです」
その言葉に、ギルバートは目元を緩めた。
「……だ、そうだ。父上」
ギルバートが国王に進み出る。
「彼女は、私が貰い受けます。誰にも渡す気はありません」
王と王子の前で、堂々の「お持ち帰り宣言」。
国王はしばらく二人を見つめ、やがて豪快に笑った。
「ハハハ! そうかそうか! ギルバートがそこまで言うなら仕方あるまい!」
国王は諦めたように、しかし満足げに頷いた。
「だが、条件がある」
「条件?」
「年に一度……いや、月に一度でいい。この『煮込み』を王都に送ってくれ。クール便で頼む」
「……承知いたしました」
こうして、メリアナの「王都凱旋・料理対決」は、王家をも巻き込んだ大団円で幕を閉じた。
毒殺の汚名は完全に雪(すす)がれ、彼女の名は「美食の聖女」として王都に刻まれることになったのだ。
「さあ、閣下。帰りましょう!」
「ああ。……辺境が待っている」
メリアナとギルバート、そして一行は、多くの人々に見送られながら王都を後にした。
馬車の中で、メリアナはリリィから貰った手紙を開いた。
そこには、汚い字で一言だけ書かれていた。
『また食べに行くから、覚悟しててね!』
「ふふ。……楽しみですわ」
メリアナは窓の外、北の空を見上げた。
そこには、まだ見ぬ未知の食材たちが待っているはずだ。
「お腹が空いてきましたわ!」
彼女の冒険(食欲)は、まだまだ終わらない。
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