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「ううっ……い、痛い……!」
王城の廊下の片隅で、か細い悲鳴が上がった。
声の主はミナだ。
彼女は手すりにしがみつき、生まれたての子鹿のように足をプルプルと震わせていた。
「あだだだ……腹筋が……千切れそうですぅ……」
「頑張りなさい、ミナ。筋肉は裏切らないわ。痛いのは筋肉が成長している証拠よ」
私は通りがかりに声をかけ、彼女の背中(筋肉痛がない部分)をペシッと叩いた。
「ひゃうっ! テ、テレナ様ぁ……! スクワット百回は……さすがにキツすぎました……」
「あら、もう弱音? 『最強の女』になるんじゃなかったの?」
「な、なりますぅ! 私、負けません……!」
ミナは涙目でガッツポーズをした。
その健気な姿に、私は満足げに頷く。
私のスパルタ指導により、ミナは毎朝の筋トレを日課にしていた。
まだ三日目だが、全身が悲鳴を上げているらしい。
だが、その瞳から「玉の輿」という邪念が消え、「フィジカル」という新たな光が宿り始めているのは良い傾向だ。
「その調子よ。プロテインの手配もしておいたから、後で取りに来なさい」
「はいっ! ありがとうございますぅ!」
私は手を振り、そのまま宰相執務室へと向かった。
だが。
この微笑ましい(?)師弟のやり取りを、柱の陰からじっと見つめる、不穏な影があったことに、私は気づいていなかった。
「……ミナ……!」
血走った目で唇を噛み締める、金髪の男。
レイド・アークライト殿下である。
「なんてことだ……! あんなに震えて、泣きそうな顔をして……!」
殿下のフィルターを通すと、今の光景はこう変換されていた。
『悪女テレナが、無垢なミナに激しい暴行を加え、痛みで動けなくしている』
「許せない……! よくも僕のミナを……!」
殿下は拳を握りしめ、ギリギリと歯ぎしりをした。
「先日の逃亡失敗も、ミナが僕を拒絶したのも、きっとテレナのせいだ! あいつが裏でミナを脅して、僕から引き離そうとしたに違いない!」
完全なる被害妄想。
そして、責任転嫁。
自分の魅力不足と経済力のなさを棚に上げ、全ての元凶を「悪役令嬢」に押し付ける。これこそが、レイド殿下の真骨頂である。
「待っていてくれ、ミナ! 僕が必ず、君をあの悪女の手から救い出して見せる!」
殿下は決意に燃える瞳で、その場を走り去った。
向かう先は、自分の部屋ではない。
悪友であり、取り巻きの一人である、キース男爵の元だった。
◇
「――というわけだ、キース! テレナの悪事を暴き、今度こそ完全に失脚させる!」
薄暗い一室。
レイド殿下は、友人のキース男爵に熱弁を振るっていた。
キース男爵は、小太りで眼鏡をかけた、いかにも「虎の威を借る狐」といった風貌の男だ。
「なるほど……。それは酷い話ですね、殿下。ミナ嬢を暴力で支配するとは」
キースは適当に相槌を打った。
彼は内心、『いや、それは筋トレの筋肉痛では?』と思っていたが、口には出さない。殿下のご機嫌を取っておけば、甘い汁が吸えるからだ。
「で、どうするんです? 前の婚約破棄宣言は失敗しましたよ?」
「前回は準備不足だった。証拠が足りなかったんだ」
殿下はニヤリと笑った。
「だが、今回は違う。僕には完璧な作戦がある」
「作戦?」
「これだ」
殿下は懐から、一冊の帳簿を取り出した。
それは、以前テレナが管理していた、王太子宮の出納帳……の、偽造品だった。
「テレナが僕の予算を管理していた時期の帳簿だ。ここの数字を書き換えて、あいつが『国庫金を横領していた』という証拠にする!」
「お、横領ですか! それは重罪ですね!」
「だろう? あいつは金に汚いからな。誰もが信じるはずだ!」
殿下は目を輝かせた。
「具体的には、孤児院への寄付金を着服し、自分の宝石やドレス代に充てていたことにする。そして、その罪をミナになすりつけようとした……というストーリーだ!」
「おお、完璧なシナリオです!」
キースは手を叩いて称賛した。
しかし、心の中では冷や汗をかいていた。
(……相手はあのテレナ嬢だぞ? 数字の悪魔だぞ? そんな子供騙しの偽造帳簿で勝てるのか?)
だが、ここで水を差せば、殿下の怒りの矛先が自分に向くかもしれない。
「で、殿下。その書き換え作業は誰が?」
「お前がやれ」
「えっ」
「僕は字が汚いからな。お前の字なら、テレナの筆跡に似せられるだろう?」
「む、無茶ですよ! 私だってそんな器用なこと……」
「やれ! 命令だ! 成功したら、お前の借金を僕が肩代わりしてやる!」
「……!」
借金。
その言葉に、キースの目が眩んだ。彼もまた、ギャンブル好きで多額の負債を抱えていたのだ。
「わ、分かりました……やります! テレナ嬢を地獄に落としましょう!」
「よし、その意気だ! 次の夜会……三日後の『建国記念祝賀会』が決行日だ!」
悪巧みをする二人の笑い声が、部屋に響いた。
だが、彼らは知らなかった。
この部屋の通気口の裏に、小さな魔法具――盗聴用の魔石が仕掛けられていることを。
そして、その音声がリアルタイムで、宰相執務室に届けられていることを。
◇
「……だ、そうです」
宰相執務室。
私は魔石から流れる音声を止め、呆れたように溜息をついた。
「低レベルすぎて、コメントに困りますね」
「全くだ」
セリウス閣下も、書類から目を離さずに冷たく言った。
「横領の濡れ衣? しかも、私の管理下にある帳簿を偽造して? ……死にたいのか、あいつらは」
「死にたいのでしょう。あるいは、思考回路が腐っているか」
私はコーヒーを啜った。
数日前、レイド殿下の周囲に不穏な動きがあることを察知した私は、あらかじめ殿下の交友関係者の部屋に盗聴器を仕掛けておいたのだ。
それが早速、役に立った。
「キース男爵……。ああ、先月、違法賭博で大負けした方ですね。借金総額は金貨三百枚。首が回らない状態ですか」
私は手元のブラックリストを確認する。
「金に困った人間は、判断力が鈍る。殿下の甘言に乗ってしまったようね」
「どうする、テレナ。今すぐ拘束するか?」
閣下が物騒なことを言う。
「いえ、泳がせましょう」
私は悪戯っぽく笑った。
「現行犯が一番、言い逃れできませんから。それに、中途半端に潰しても、殿下はまた別の悪さを考えつくでしょう。一度、完膚なきまでに叩き潰して、二度と私に逆らおうと思わせないほどのトラウマを植え付ける必要があります」
「……君、本当に『悪役令嬢』だな」
「最高の褒め言葉です」
私は立ち上がり、窓の外を見た。
「三日後の夜会。……楽しみですね。殿下がどんな『完璧な偽造帳簿』を作ってくるのか、添削して差し上げましょう」
「赤ペンを用意しておけ」
「ええ。真っ赤に染めてやりますわ」
◇
そして迎えた、運命の三日後。
「建国記念祝賀会」の会場は、華やかな雰囲気に包まれていた。
国王陛下は病気療養中のため欠席だが、王族代表としてレイド殿下、そして宰相であるセリウス閣下が出席している。
私は当然、閣下のパートナーとして、黒のシックなドレスに身を包んで隣に立っていた。
「……来ますよ、閣下」
「ああ」
会場の空気が変わった。
壇上に上がったレイド殿下が、高らかに声を上げたのだ。
「皆様! 静粛に! 今宵、このめでたい席で、私はある『巨悪』を告発せねばなりません!」
ざわめきが広がる。
またか、という空気と、今度は何だ、という好奇心が混ざり合う。
殿下はビシッと私を指差した。
「そこにいるテレナ・フォン・ベルベット! 貴様だ!」
スポットライトが私に当たる。
私は扇子で口元を隠し、優雅に小首を傾げた。
「……あら、また私ですの? 殿下も懲りない方ですわね」
「黙れ! 今度こそ言い逃れはさせんぞ!」
殿下はドヤ顔で、一冊の分厚い帳簿を掲げた。
「これが証拠だ! 貴様が王太子宮の予算を管理していた時の裏帳簿を入手した!」
「ほう」
セリウス閣下が、低く呟く。
「ここには、貴様が孤児院への寄付金を横領し、私腹を肥やしていた記録が克明に記されている! その額、なんと金貨一万枚!」
会場から「おおっ」とどよめきが上がる。
金貨一万枚。国家予算レベルの巨額横領だ。もし事実なら、即刻処刑ものの重罪である。
「さらに! 貴様はその罪を隠蔽するため、ミナを脅し、口止め料代わりに暴力を振るっていたな!」
「暴力?」
「しらばっくれるな! ミナは今、貴様の暴力のせいでまともに歩けない体になっているんだぞ!」
殿下は大げさに嘆いてみせた。
「可哀想なミナ……! 僕が必ず仇を討ってやる!」
周囲の視線が私に突き刺さる。
「まさか、横領なんて……」
「でも、あのテレナ様ならやりかねないかも……金にうるさいし」
「ミナ様へのいじめも本当だったのか?」
疑念の雲が広がり始めた。
完璧な演出だ。キース男爵も、群衆の中でニヤニヤしているのが見える。
だが。
私は扇子の裏で、にんまりと笑った。
(……詰めが甘いのよ、殿下)
私はゆっくりと、壇上の殿下に向かって歩み出した。
セリウス閣下も、無言で私の後に続く。
「……殿下。それが『証拠』とおっしゃるのですね?」
「そうだ! 恐れ入ったか!」
「拝見してもよろしいですか?」
「ふん、見るがいい! 自分の罪の深さに震えるんだな!」
殿下は帳簿を私に投げつけた。
私はそれをキャッチし、パラパラとめくる。
一ページ。二ページ。
……ふむ。
「……プッ」
私は思わず吹き出した。
「な、何がおかしい!」
「いえ……あまりにもお粗末でしたので」
私は帳簿を閉じた。
「殿下。この帳簿を作ったのはどなたですか? キース男爵かしら?」
「なっ、なぜそれを……いや、これは本物だ!」
「いいえ、偽物です。それも、出来の悪い」
私はバッと帳簿を開き、観衆に見えるように掲げた。
「まず第一に。この紙質。これは市販の安物の羊皮紙ですわね。王家の公文書に使われるのは、透かし入りの最高級羊皮紙のみ。手触りが全然違います」
「っ……!」
キース男爵の顔が引きつる。予算がなくて安い紙を使ったのがバレたらしい。
「第二に。この筆跡。私の字に似せようと努力した跡は見えますが……『5』の書き方が独特ですね。下の丸い部分が潰れています。これはキース男爵の癖字そのものです」
私はキース男爵の方をチラリと見た。彼は滝のような汗を流している。
「そして第三に。これが決定的です」
私はあるページを指差した。
「ここの日付。『二月三十日』と書いてあります」
「……は?」
会場が静まり返る。
「二月は二十八日までしかありません。うるう年でも二十九日です。……存在しない日付に横領をするなんて、私は時空魔法使いか何かですか?」
「あっ……」
殿下の顔色が真っ白になった。
キース男爵が頭を抱える。
会場からは、「ぷっ」「バカだ……」「二月三十日って……」という失笑が漏れ始めた。
「さらに言えば、計算も合っていません。収入の合計と支出の合計が、金貨五百枚もズレています。横領するなら、もっと綺麗に帳尻を合わせますわよ、私なら」
私は帳簿をパタンと閉じた。
「……以上。これは、小学生の落書きレベルの偽造品です。論ずるに値しません」
完全論破。
ぐうの音も出ないとはこのことだ。
「そ、そんな……キース! 話が違うじゃないか!」
殿下は慌ててキース男爵の方を向いた。
キースは「ひいっ!」と悲鳴を上げて逃げ出そうとしたが、既にセリウス閣下の配下の騎士たちに取り押さえられていた。
「ま、待て! 横領は嘘かもしれないが、暴力は本当だ! ミナは傷ついているんだぞ!」
殿下は最後の砦、ミナへの同情論にすがった。
「ミナ! 出てきてくれ! そして皆に真実を話してくれ! テレナに何をされたのかを!」
殿下の呼びかけに応えるように、会場の扉が開いた。
そこには、ドレスを着たミナの姿があった。
彼女は、確かによろよろと、ぎこちない歩き方で入ってきた。
「見ろ! あの痛々しい姿を!」
殿下は勝ち誇った。
ミナはゆっくりと壇上に近づき、私の隣に並んだ。
そして、マイクに向かって口を開いた。
「……あの、殿下」
「さあ、言ってやるんだミナ! テレナに酷いことをされたと!」
「……違います」
「え?」
ミナは深呼吸をして、キッパリと言った。
「これは、筋肉痛です」
「……は?」
「テレナ様のご指導の下、最強の肉体を手に入れるためのトレーニングをした結果です。いじめじゃありません。自己研鑽です!」
ミナは痛みに顔をしかめながらも、力強くガッツポーズをした。
「見てください、このふくらはぎ! 少し硬くなってきました! テレナ様のおかげです!」
「……」
会場中が、本日二度目の静寂に包まれた。
「き、筋肉……?」
殿下はパクパクと口を開閉させた。
愛しのミナが、まさか筋トレに目覚めていたとは。彼の脳内シナリオにはなかった展開だ。
「そういうことです、殿下」
私はトドメを刺すように言った。
「貴方の妄想劇場は、これにて閉幕です。……さて」
私は冷ややかな笑みを深めた。
「偽造帳簿による冤罪工作。並びに公衆の面前での名誉毀損。……高くつきますよ?」
「ひ、ひぃぃっ……!」
殿下は後ずさり、壇上から足を踏み外して転がり落ちた。
セリウス閣下が、ゆっくりと近づいていく。
その手には、本物の王家の帳簿(殿下の無駄遣いリスト)が握られていた。
「……レイド。覚悟はいいな?」
氷の宰相の宣告が、死刑判決のように響き渡った。
王城の廊下の片隅で、か細い悲鳴が上がった。
声の主はミナだ。
彼女は手すりにしがみつき、生まれたての子鹿のように足をプルプルと震わせていた。
「あだだだ……腹筋が……千切れそうですぅ……」
「頑張りなさい、ミナ。筋肉は裏切らないわ。痛いのは筋肉が成長している証拠よ」
私は通りがかりに声をかけ、彼女の背中(筋肉痛がない部分)をペシッと叩いた。
「ひゃうっ! テ、テレナ様ぁ……! スクワット百回は……さすがにキツすぎました……」
「あら、もう弱音? 『最強の女』になるんじゃなかったの?」
「な、なりますぅ! 私、負けません……!」
ミナは涙目でガッツポーズをした。
その健気な姿に、私は満足げに頷く。
私のスパルタ指導により、ミナは毎朝の筋トレを日課にしていた。
まだ三日目だが、全身が悲鳴を上げているらしい。
だが、その瞳から「玉の輿」という邪念が消え、「フィジカル」という新たな光が宿り始めているのは良い傾向だ。
「その調子よ。プロテインの手配もしておいたから、後で取りに来なさい」
「はいっ! ありがとうございますぅ!」
私は手を振り、そのまま宰相執務室へと向かった。
だが。
この微笑ましい(?)師弟のやり取りを、柱の陰からじっと見つめる、不穏な影があったことに、私は気づいていなかった。
「……ミナ……!」
血走った目で唇を噛み締める、金髪の男。
レイド・アークライト殿下である。
「なんてことだ……! あんなに震えて、泣きそうな顔をして……!」
殿下のフィルターを通すと、今の光景はこう変換されていた。
『悪女テレナが、無垢なミナに激しい暴行を加え、痛みで動けなくしている』
「許せない……! よくも僕のミナを……!」
殿下は拳を握りしめ、ギリギリと歯ぎしりをした。
「先日の逃亡失敗も、ミナが僕を拒絶したのも、きっとテレナのせいだ! あいつが裏でミナを脅して、僕から引き離そうとしたに違いない!」
完全なる被害妄想。
そして、責任転嫁。
自分の魅力不足と経済力のなさを棚に上げ、全ての元凶を「悪役令嬢」に押し付ける。これこそが、レイド殿下の真骨頂である。
「待っていてくれ、ミナ! 僕が必ず、君をあの悪女の手から救い出して見せる!」
殿下は決意に燃える瞳で、その場を走り去った。
向かう先は、自分の部屋ではない。
悪友であり、取り巻きの一人である、キース男爵の元だった。
◇
「――というわけだ、キース! テレナの悪事を暴き、今度こそ完全に失脚させる!」
薄暗い一室。
レイド殿下は、友人のキース男爵に熱弁を振るっていた。
キース男爵は、小太りで眼鏡をかけた、いかにも「虎の威を借る狐」といった風貌の男だ。
「なるほど……。それは酷い話ですね、殿下。ミナ嬢を暴力で支配するとは」
キースは適当に相槌を打った。
彼は内心、『いや、それは筋トレの筋肉痛では?』と思っていたが、口には出さない。殿下のご機嫌を取っておけば、甘い汁が吸えるからだ。
「で、どうするんです? 前の婚約破棄宣言は失敗しましたよ?」
「前回は準備不足だった。証拠が足りなかったんだ」
殿下はニヤリと笑った。
「だが、今回は違う。僕には完璧な作戦がある」
「作戦?」
「これだ」
殿下は懐から、一冊の帳簿を取り出した。
それは、以前テレナが管理していた、王太子宮の出納帳……の、偽造品だった。
「テレナが僕の予算を管理していた時期の帳簿だ。ここの数字を書き換えて、あいつが『国庫金を横領していた』という証拠にする!」
「お、横領ですか! それは重罪ですね!」
「だろう? あいつは金に汚いからな。誰もが信じるはずだ!」
殿下は目を輝かせた。
「具体的には、孤児院への寄付金を着服し、自分の宝石やドレス代に充てていたことにする。そして、その罪をミナになすりつけようとした……というストーリーだ!」
「おお、完璧なシナリオです!」
キースは手を叩いて称賛した。
しかし、心の中では冷や汗をかいていた。
(……相手はあのテレナ嬢だぞ? 数字の悪魔だぞ? そんな子供騙しの偽造帳簿で勝てるのか?)
だが、ここで水を差せば、殿下の怒りの矛先が自分に向くかもしれない。
「で、殿下。その書き換え作業は誰が?」
「お前がやれ」
「えっ」
「僕は字が汚いからな。お前の字なら、テレナの筆跡に似せられるだろう?」
「む、無茶ですよ! 私だってそんな器用なこと……」
「やれ! 命令だ! 成功したら、お前の借金を僕が肩代わりしてやる!」
「……!」
借金。
その言葉に、キースの目が眩んだ。彼もまた、ギャンブル好きで多額の負債を抱えていたのだ。
「わ、分かりました……やります! テレナ嬢を地獄に落としましょう!」
「よし、その意気だ! 次の夜会……三日後の『建国記念祝賀会』が決行日だ!」
悪巧みをする二人の笑い声が、部屋に響いた。
だが、彼らは知らなかった。
この部屋の通気口の裏に、小さな魔法具――盗聴用の魔石が仕掛けられていることを。
そして、その音声がリアルタイムで、宰相執務室に届けられていることを。
◇
「……だ、そうです」
宰相執務室。
私は魔石から流れる音声を止め、呆れたように溜息をついた。
「低レベルすぎて、コメントに困りますね」
「全くだ」
セリウス閣下も、書類から目を離さずに冷たく言った。
「横領の濡れ衣? しかも、私の管理下にある帳簿を偽造して? ……死にたいのか、あいつらは」
「死にたいのでしょう。あるいは、思考回路が腐っているか」
私はコーヒーを啜った。
数日前、レイド殿下の周囲に不穏な動きがあることを察知した私は、あらかじめ殿下の交友関係者の部屋に盗聴器を仕掛けておいたのだ。
それが早速、役に立った。
「キース男爵……。ああ、先月、違法賭博で大負けした方ですね。借金総額は金貨三百枚。首が回らない状態ですか」
私は手元のブラックリストを確認する。
「金に困った人間は、判断力が鈍る。殿下の甘言に乗ってしまったようね」
「どうする、テレナ。今すぐ拘束するか?」
閣下が物騒なことを言う。
「いえ、泳がせましょう」
私は悪戯っぽく笑った。
「現行犯が一番、言い逃れできませんから。それに、中途半端に潰しても、殿下はまた別の悪さを考えつくでしょう。一度、完膚なきまでに叩き潰して、二度と私に逆らおうと思わせないほどのトラウマを植え付ける必要があります」
「……君、本当に『悪役令嬢』だな」
「最高の褒め言葉です」
私は立ち上がり、窓の外を見た。
「三日後の夜会。……楽しみですね。殿下がどんな『完璧な偽造帳簿』を作ってくるのか、添削して差し上げましょう」
「赤ペンを用意しておけ」
「ええ。真っ赤に染めてやりますわ」
◇
そして迎えた、運命の三日後。
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私は当然、閣下のパートナーとして、黒のシックなドレスに身を包んで隣に立っていた。
「……来ますよ、閣下」
「ああ」
会場の空気が変わった。
壇上に上がったレイド殿下が、高らかに声を上げたのだ。
「皆様! 静粛に! 今宵、このめでたい席で、私はある『巨悪』を告発せねばなりません!」
ざわめきが広がる。
またか、という空気と、今度は何だ、という好奇心が混ざり合う。
殿下はビシッと私を指差した。
「そこにいるテレナ・フォン・ベルベット! 貴様だ!」
スポットライトが私に当たる。
私は扇子で口元を隠し、優雅に小首を傾げた。
「……あら、また私ですの? 殿下も懲りない方ですわね」
「黙れ! 今度こそ言い逃れはさせんぞ!」
殿下はドヤ顔で、一冊の分厚い帳簿を掲げた。
「これが証拠だ! 貴様が王太子宮の予算を管理していた時の裏帳簿を入手した!」
「ほう」
セリウス閣下が、低く呟く。
「ここには、貴様が孤児院への寄付金を横領し、私腹を肥やしていた記録が克明に記されている! その額、なんと金貨一万枚!」
会場から「おおっ」とどよめきが上がる。
金貨一万枚。国家予算レベルの巨額横領だ。もし事実なら、即刻処刑ものの重罪である。
「さらに! 貴様はその罪を隠蔽するため、ミナを脅し、口止め料代わりに暴力を振るっていたな!」
「暴力?」
「しらばっくれるな! ミナは今、貴様の暴力のせいでまともに歩けない体になっているんだぞ!」
殿下は大げさに嘆いてみせた。
「可哀想なミナ……! 僕が必ず仇を討ってやる!」
周囲の視線が私に突き刺さる。
「まさか、横領なんて……」
「でも、あのテレナ様ならやりかねないかも……金にうるさいし」
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完璧な演出だ。キース男爵も、群衆の中でニヤニヤしているのが見える。
だが。
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(……詰めが甘いのよ、殿下)
私はゆっくりと、壇上の殿下に向かって歩み出した。
セリウス閣下も、無言で私の後に続く。
「……殿下。それが『証拠』とおっしゃるのですね?」
「そうだ! 恐れ入ったか!」
「拝見してもよろしいですか?」
「ふん、見るがいい! 自分の罪の深さに震えるんだな!」
殿下は帳簿を私に投げつけた。
私はそれをキャッチし、パラパラとめくる。
一ページ。二ページ。
……ふむ。
「……プッ」
私は思わず吹き出した。
「な、何がおかしい!」
「いえ……あまりにもお粗末でしたので」
私は帳簿を閉じた。
「殿下。この帳簿を作ったのはどなたですか? キース男爵かしら?」
「なっ、なぜそれを……いや、これは本物だ!」
「いいえ、偽物です。それも、出来の悪い」
私はバッと帳簿を開き、観衆に見えるように掲げた。
「まず第一に。この紙質。これは市販の安物の羊皮紙ですわね。王家の公文書に使われるのは、透かし入りの最高級羊皮紙のみ。手触りが全然違います」
「っ……!」
キース男爵の顔が引きつる。予算がなくて安い紙を使ったのがバレたらしい。
「第二に。この筆跡。私の字に似せようと努力した跡は見えますが……『5』の書き方が独特ですね。下の丸い部分が潰れています。これはキース男爵の癖字そのものです」
私はキース男爵の方をチラリと見た。彼は滝のような汗を流している。
「そして第三に。これが決定的です」
私はあるページを指差した。
「ここの日付。『二月三十日』と書いてあります」
「……は?」
会場が静まり返る。
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「あっ……」
殿下の顔色が真っ白になった。
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会場からは、「ぷっ」「バカだ……」「二月三十日って……」という失笑が漏れ始めた。
「さらに言えば、計算も合っていません。収入の合計と支出の合計が、金貨五百枚もズレています。横領するなら、もっと綺麗に帳尻を合わせますわよ、私なら」
私は帳簿をパタンと閉じた。
「……以上。これは、小学生の落書きレベルの偽造品です。論ずるに値しません」
完全論破。
ぐうの音も出ないとはこのことだ。
「そ、そんな……キース! 話が違うじゃないか!」
殿下は慌ててキース男爵の方を向いた。
キースは「ひいっ!」と悲鳴を上げて逃げ出そうとしたが、既にセリウス閣下の配下の騎士たちに取り押さえられていた。
「ま、待て! 横領は嘘かもしれないが、暴力は本当だ! ミナは傷ついているんだぞ!」
殿下は最後の砦、ミナへの同情論にすがった。
「ミナ! 出てきてくれ! そして皆に真実を話してくれ! テレナに何をされたのかを!」
殿下の呼びかけに応えるように、会場の扉が開いた。
そこには、ドレスを着たミナの姿があった。
彼女は、確かによろよろと、ぎこちない歩き方で入ってきた。
「見ろ! あの痛々しい姿を!」
殿下は勝ち誇った。
ミナはゆっくりと壇上に近づき、私の隣に並んだ。
そして、マイクに向かって口を開いた。
「……あの、殿下」
「さあ、言ってやるんだミナ! テレナに酷いことをされたと!」
「……違います」
「え?」
ミナは深呼吸をして、キッパリと言った。
「これは、筋肉痛です」
「……は?」
「テレナ様のご指導の下、最強の肉体を手に入れるためのトレーニングをした結果です。いじめじゃありません。自己研鑽です!」
ミナは痛みに顔をしかめながらも、力強くガッツポーズをした。
「見てください、このふくらはぎ! 少し硬くなってきました! テレナ様のおかげです!」
「……」
会場中が、本日二度目の静寂に包まれた。
「き、筋肉……?」
殿下はパクパクと口を開閉させた。
愛しのミナが、まさか筋トレに目覚めていたとは。彼の脳内シナリオにはなかった展開だ。
「そういうことです、殿下」
私はトドメを刺すように言った。
「貴方の妄想劇場は、これにて閉幕です。……さて」
私は冷ややかな笑みを深めた。
「偽造帳簿による冤罪工作。並びに公衆の面前での名誉毀損。……高くつきますよ?」
「ひ、ひぃぃっ……!」
殿下は後ずさり、壇上から足を踏み外して転がり落ちた。
セリウス閣下が、ゆっくりと近づいていく。
その手には、本物の王家の帳簿(殿下の無駄遣いリスト)が握られていた。
「……レイド。覚悟はいいな?」
氷の宰相の宣告が、死刑判決のように響き渡った。
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