婚約破棄に歓喜で高飛びしたいのに、逃してくれません

恋の箱庭

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「――到着だ。最短ルート、五十八秒」

セリウス閣下は、私を抱きかかえたまま寝室の扉を足で開け、そのまま天蓋付きのキングサイズベッドへと私を下ろした。

ふかふかの羽毛布団に身体が沈み込む。

部屋には、すでにムード満点のキャンドルが灯され、ほのかに薔薇の香りが漂っていた。
マダム・ボヌールの仕業だろう。余計な気を利かせている。

「さて、テレナ」

閣下は上着を脱ぎ捨て、ネクタイを緩めながら、獲物を狙う肉食獣のような瞳で私を見下ろした。

「邪魔者はいない。時間制限もない。……覚悟はいいか?」

ゴクリ、と私の喉が鳴る。

いよいよだ。
公爵夫人としての最初の大仕事。
そして、一人の女性としての未知の領域。

心臓が早鐘を打っている。
体温が上昇しているのが分かる。

だが、私はテレナ・フォン・ベルベット(今日からアークライトだが)。
ただ流されるだけの女ではない。

「……待ってください、閣下」

私は掛け布団を盾にするように引き寄せ、片手を突き出して制止した。

「業務(これ)に取り掛かる前に、確認すべき事項があります」

「……なんだ、この期に及んで」

閣下の手が、シャツのボタンにかかっている。
その指の動きがセクシーすぎて直視できないので、私は視線を少し逸らして言った。

「今後の『人生設計(ライフプラン)』についてです」

私は枕の下に隠しておいた(朝のうちに仕込んでおいた)羊皮紙の束を取り出した。

「こちらをご覧ください。私が作成した『アークライト家・中期経営計画書』です」

「……は?」

閣下の動きが止まった。

「ベッドの上で、経営会議をする気か?」

「重要です。家族が増えれば、支出も増えます。子供の養育費、教育費、社交費……これらを事前にシミュレーションし、予算を確保しておく必要があります」

私は羊皮紙を広げ、指差した。

「計画では、第一子は三年後。性別は問いませんが、帝王学と経営学を叩き込むための家庭教師代として、年間金貨五百枚を計上しています。第二子は五年後、第三子は……」

「テレナ」

「また、私の産休中の業務代行者リストも作成済みです。さらに、老後の隠居資金については……」

バサッ。

私の手から、羊皮紙が取り上げられた。
そして、無造作にベッドの下へ放り投げられた。

「ああっ!? 私の傑作プランが!」

「そんなものは後でいい」

閣下はベッドに片膝をつき、覆いかぶさるようにして私を閉じ込めた。

「三年後? 悠長なことを言うな」

「で、ですが、計画性が……」

「私は待てないと言ったはずだ」

閣下の顔が近づく。
その瞳は、熱を孕んで揺らめいている。

「子供など、授かりものだ。計算通りになどいくものか」

「確率論で言えば、排卵日と体調を管理すればある程度の予測は……」

「……君は本当に、ムードというものを知らないな」

閣下は苦笑し、私の唇を指で塞いだ。

「黙りなさい、私の可愛いCEO」

「んぐっ……」

「今夜は、数字も計算も忘れろ。……私のことだけを考えろ」

封じられた唇に、閣下の唇が重ねられる。
今までのどのキスよりも深く、甘く、そして情熱的な口づけ。

思考回路がショートする。
脳内の電卓が弾け飛び、数字がバラバラに崩れていく。

「……んっ、ぁ……」

「……やっと静かになった」

唇を離した閣下は、満足げに微笑んだ。

「君のその、理屈っぽい口を塞ぐには、これが一番効率的だな」

「……ずるいです、閣下」

私は息も絶え絶えに抗議した。

「これは……論理的議論の放棄です……」

「愛に論理など不要だ」

閣下の手が、私のドレスの背中に回る。
ジジジ……とファスナーが下ろされる音が、静かな部屋に大きく響いた。

肌が空気に触れ、そしてすぐに閣下の熱い掌に覆われる。

「っ……!」

「震えているな」

「……寒さのせいです」

「室温は適温だ。……怖いか?」

閣下の動きが止まり、優しい眼差しが私を包み込む。
その気遣いが、逆に胸を締め付ける。

私は観念して、小さく頷いた。

「……怖くはありません。ただ……計算できない事態が、不安なだけです」

私は正直に告白した。

「私はこれまで、全てを計算し、予測し、リスクを回避してきました。でも……この状況は、変数が多すぎます。私の制御を超えています」

「そうだな」

閣下は私の髪を優しく撫でた。

「だが、人生は計算通りにいかないから面白い。……私もそうだ」

「閣下も?」

「ああ。君と出会って、私の計算は狂いっぱなしだ。まさか、悪役令嬢と呼ばれた君に惚れ込み、公爵家の当主として迎え入れるなど、一年前の私には予測不可能だった」

閣下は私の額にキスをした。

「だが、今の私は、その『計算外』を最高に愛おしく思っている」

「……」

「テレナ。身を委ねてくれ。……私が君を、幸せという名の未知の領域へ連れて行く」

その言葉は、どんな完璧な事業計画書よりも、私を安心させてくれた。

「……分かりました」

私はゆっくりと、閣下の首に腕を回した。

「ただし、条件があります」

「まだあるのか?」

閣下は呆れつつも、愛おしげに笑った。

「どうぞ、おっしゃってください、奥様」

「……優しくしてください。痛いのは、非効率的ですので」

「善処する」

「それと……明日の朝、私が起きられなかったら、起こさないでください。公務は休みます」

「許可する」

「最後に……」

私は顔を赤く染めながら、閣下の耳元で囁いた。

「……大好きです、セリウス」

「……ッ」

閣下の喉が大きく動いた。
理性の糸がプツンと切れる音が、聞こえた気がした。

「……もう、喋るな」

閣下は低く唸り、私を強く抱きしめた。
そこから先は、言葉はいらなかった。

計算高い悪役令嬢の、最後の抵抗(プレゼン)はあえなく却下され。
私はただ、一人の愛される女性として、甘美な夜の波に飲み込まれていった。

          ◇

翌朝。

チュンチュン、という小鳥の声で目が覚めた。
カーテンの隙間から、眩しい朝日が差し込んでいる。

「……ううっ」

私は呻き声を上げて寝返りを打とうとし――全身の激痛に固まった。

「……痛い」

腰が。背中が。足が。
全身が筋肉痛だ。いや、それ以上だ。
まるで、ミナの特訓(スクワット五百回)を受けた翌日のような疲労感。

(……話が違うじゃない)

私は隣でスヤスヤと眠る、銀髪の男を睨みつけた。

「『善処する』って言ったくせに……全然優しくなかった……」

昨夜の閣下は、まさに野獣だった。
私の「人生設計書」など紙屑同然に吹き飛ばし、何度も何度も、私が「もう無理です、計算不能です!」と泣きを入れるまで愛を注いできたのだ。

「……詐欺だわ」

私は溜息をついたが、その口元は自然と緩んでいた。

ふと、サイドテーブルを見ると、昨夜閣下が投げ捨てた羊皮紙が拾い上げられ、置かれていた。
そこには、閣下の流麗な筆跡で、書き込みがされていた。

『計画書、承認。ただし、子供の数は修正を求む。野球チームが作れるくらい欲しい』

「……はあ!?」

私は思わず叫んだ。
野球チーム? 九人?
この男、私を産む機械か何かだと思っているのか。

「……却下よ、却下! 断固拒否します!」

私が枕を投げつけると、セリウスが目を覚ました。

「……ん? おはよう、テレナ。朝から元気だな」

彼は寝ぼけ眼で、しかし満足げに微笑んだ。
その笑顔があまりにも無防備で、幸せそうで。

私は脱力して、ベッドに倒れ込んだ。

「……おはようございます、あなた」

これからの結婚生活。
私の計算通りには、何一つ進みそうにない。
予測不能なトラブルと、過剰な愛と、そして終わらない攻防戦が待っているのだろう。

でも。

(……ま、それも悪くないかしら)

私は自分の薬指に光る指輪を見つめ、小さく笑った。

赤字覚悟の結婚生活。
でも、その収支決算は、きっと「プライスレスな幸せ」で黒字になるはずだ。

「……さて、二回戦といこうか?」

「行きません! 仕事です! 起きてください!」

「今日は休みだろう?」

「家事という名の業務があります! ほら、シーツを洗濯しますよ!」

私は強引に彼をベッドから引きずり出した。
新しい朝が始まる。
騒がしくて、愛おしい、私たちの日常が。
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