赤の他人ということでよろしいですね?婚約破棄、承りました。

恋の箱庭

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「――最終収支報告です。建国記念祭における西エリア(宰相府管轄)の純利益は、金貨三百五十万枚となりました」

「素晴らしい数字だ。過去最高益だな」

祭りの翌日。

宰相執務室にて、私は誇らしげに報告書を提出した。

ギルバート王太子の東エリアが歴史的な大赤字を叩き出したのに対し、私たちの西エリアは廃材利用と薄利多売戦略が功を奏し、莫大な黒字を生んだのだ。

「これで私のボーナスも弾んでいただけますね?」

「ああ、約束通り利益の十%を君に支給しよう。……それと」

アレクセイ閣下は書類を受け取ると、ふいに立ち上がり、私の隣まで歩いてきた。

そして、私の頭にポンと手を置く。

「よくやった、リーナ。君のその、一円たりとも無駄にしない徹底した守銭奴ぶり……実に愛おしい」

「……閣下。褒め言葉のチョイスがおかしいのですが」

「褒めているさ。君が電卓を叩く時の真剣な眼差し、コストカットのために鬼のような形相で業者を値切る姿……すべてが私の心を鷲掴みにする」

閣下の青い瞳が、熱っぽく私を見つめている。

その距離、わずか三十センチ。

いつもの「氷の宰相」としての冷徹なオーラはどこへやら、今の彼はまるで春の日差しのように温かい(というか暑苦しい)。

「……恐縮です。ですが、業務中ですので離れてください」

「嫌だ」

「は?」

「今の私は、君の勝利に酔いしれている。しばらくこのまま、君の優秀さを成分として摂取させてくれ」

アレクセイ閣下はそう言うと、私の肩に額を押し付けてきた。

グリグリ。

「ちょ、閣下!? 重いです! それに、まだ部下たちが……!」

私は慌てて周囲を見渡した。

執務室には、数名の文官たちが控えている。

彼らは全員、見なかったことにして必死に書類に顔を埋めているが、その肩は小刻みに震えていた。

(こ、公私混同甚だしい……!)

私が宰相府に来てから数週間。

当初は「冷酷無比な上司」と「悪名高い元婚約者」という緊張感ある関係だったはずが、最近のアレクセイ閣下は、タガが外れたように私を甘やかしてくる。

それも、衆人環視の中で堂々と。

「……閣下。そこまでになさってください。次の会議の時間が迫っております」

私が冷静に告げると、閣下はようやく顔を上げた。

「……チッ。邪魔な会議だ」

「国の根幹に関わる予算会議ですが」

「君とのスキンシップの方が国益に適うと思うのだが」

「思いません。さあ、行きますよ」

私は駄々をこねる子供(見た目は最強の美形)をあやすように促し、会議室へと向かった。

***

「――以上が、今回の王太子の失態に関する報告です」

大会議室。

重苦しい空気の中、私は淡々とプレゼンを行っていた。

出席者は各省の大臣たち。そして、末席には小さくなっているギルバート王太子と、なぜか同席を許されたミミアの姿があった。

「王太子の独断による予算超過、及び、環境汚染(泥水問題)の清掃費用。これらは王家が私財で補填することで合意が取れております」

私が説明すると、ギルバートが涙目で反論した。

「ま、待ってくれリーナ……! 私財と言っても、私の小遣いはもうゼロだ! これ以上取られたら、ミミアに新しいドレスも買ってやれない!」

「では、ミミア様がご自分で働いて稼げばよろしいのでは?」

「ええっ!? 私、働いたことなんてありませんしぃ、手荒れしちゃいますぅ」

ミミアが嫌そうに手を振る。

「では、お二人で仲良く節約生活をお楽しみください。……さて、次の議題ですが」

私が冷たく切り捨て、次の資料を配ろうとした時だった。

「待て、リーナ」

上座に座っていたアレクセイ閣下が口を開いた。

「なんだ、その手は」

「え? 資料ですが……」

「違う。指先だ。……少し赤くなっているぞ」

閣下は席を立つと、会議中にも関わらず私の元へ歩み寄ってきた。

そして、私の右手を取り、しげしげと観察する。

「これは……昨日の祭りで、串焼きのタレが跳ねた火傷か?」

「いえ、ただのささくれです」

「なんと! ささくれだと!? 一大事ではないか!」

アレクセイ閣下が血相を変えた。

大臣たちが「えっ、ささくれで?」とざわめく。

「すぐに軍医を呼べ! いや、私が治癒魔法をかける!」

「閣下、落ち着いてください。ただの乾燥です。ハンドクリームを塗れば治ります」

「ならん! 君の指は、国宝級の計算を生み出す『黄金の指』だ。万が一にも機能不全になっては国の損失だ」

閣下は真剣な顔でそう言うと、懐から高そうな小瓶を取り出した。

「これは隣国から取り寄せた、最高級の保湿バームだ。私が塗ってやろう」

「自分で塗ります」

「じっとしていろ。……これは業務命令だ」

閣下は私の指を一本一本、丁寧にマッサージしながらクリームを塗り込み始めた。

会議室の中央で。

大臣たちと、元婚約者の前で。

「……ん、どうだ? 気持ちいいか?」

「……くすぐったいです」

「君の指は細くて綺麗だな。この指があの凄まじい速度で電卓を叩くとは、誰も思うまい」

閣下はうっとりとした表情で、私の指先に口づけを落としかけた。

「……閣下!!」

私が反射的に手を引っ込めると、彼は残念そうに目を細めた。

「……すまない。あまりに愛らしくて、つい」

シーン……。

会議室が凍りついている。

いや、正確には「熱気」で茹だっている。

あのアレクセイ閣下が、「愛らしい」と発言したのだ。

天地がひっくり返るような衝撃に、老齢の大臣の一人が「ほぅ……」とため息をついて卒倒しかけた。

「み、見せつけやがって……!」

ギルバートがギリギリと歯ぎしりをする音が聞こえる。

「僕だってミミアの手くらい握れるぞ! おいミミア、手を出せ!」

「やですぅ、ギルバート様の手、汗ばんでるんですもの」

「なんだと!?」

低レベルな争いを繰り広げる元婚約者カップルを尻目に、私は咳払いをして場を修正した。

「……コホン。閣下、席にお戻りください。福利厚生はありがたいですが、TPOをわきまえていただかないと、私が『セクハラ手当』を請求することになりますよ」

「手当? いくらだ? 金貨一億枚でも払おう」

「……お金で解決しようとするのはやめてください」

私が頭を抱えると、閣下は楽しそうに笑って席に戻った。

「失礼した。あまりに部下が優秀で可愛らしいもので、自慢したくなってしまった。……続けてくれ」

彼が座ると、再び「氷の宰相」の冷徹な顔に戻る。

その切り替えの早さに、周囲は戦慄した。

(この人……私以外には本当に興味がないのね)

ある意味、清々しいほどの塩対応だ。

会議が終わり、大臣たちが退室していく。

ギルバートは去り際に、私を睨みつけて捨て台詞を吐いた。

「勘違いするなよ、リーナ! 叔父上は一時的に血迷っているだけだ! お前のような可愛げのない女、すぐに飽きられるに決まっている!」

「ご心配には及びません。飽きられたら、退職金をたっぷり頂いて隠居しますので」

私が言い返すと、ギルバートは悔しそうに顔を歪めて出て行った。

「……飽きる、か」

アレクセイ閣下が、ポツリと呟いた。

「ありえんな。君を知れば知るほど、底なし沼のように惹かれていく」

「それは泥沼ということですか?」

「愛の沼だ」

閣下は立ち上がり、私に一枚の封筒を差し出した。

「ところで、リーナ。君に追加の業務命令だ」

「なんでしょう。これ以上、指のマッサージは勘弁してくださいね」

「違う。……招待状だ」

私が封筒を受け取り、中身を確認する。

そこには、金箔の縁取りがされた豪華なカードが入っていた。

『隣国・ランベール王国主催 友好親善記念舞踏会』

「隣国……? この間のガルディア帝国ではなく?」

「ああ。ランベールは西の隣国だ。我が国とは長い付き合いだが、最近、王位継承を巡ってきな臭い噂がある」

閣下の目が、鋭い為政者のものに戻る。

「今回の舞踏会には、各国の要人が招かれている。帝国のクリス皇子も来るようだ」

「またあの赤毛の皇子ですか。しつこいですね」

「そこでだ、リーナ。君には私のパートナーとして同行し、私の『婚約者』として振る舞ってもらいたい」

「……はい?」

私は計算の手を止めた。

「婚約者、ですか? 補佐官ではなく?」

「補佐官では、ダンスのパートナーとして独占する大義名分が弱い。婚約者という既成事実を作れば、クリスのような害虫も寄り付かん」

「……なるほど。防虫対策としての婚約者役ですね」

「まあ、そういうことにしておこう」

閣下は不敵に笑った。

「もちろん、特別手当は弾む。ドレスも宝石も、君の言い値で用意させよう。……受けてくれるか?」

「言い値……」

その甘美な響き。

断る理由は、どこにもない。

「承りました。その役、完璧に演じてみせましょう」

「演じる、か。……まあいい。本気にさせてみせるさ」

閣下の最後の呟きは、私には聞こえなかった。

こうして私は、再び煌びやかな戦場――夜会へと赴くことになった。

だが、私はまだ知らなかった。

その夜会で、かつてないほどの「大番狂わせ」が待ち受けていることを。

そして、アレクセイ閣下が用意したドレスが、単なる衣装ではなく、ある「重大な意味」を持つものであることを。
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