赤の他人ということでよろしいですね?婚約破棄、承りました。

恋の箱庭

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「……閣下。確認ですが、これはドレスですか? それとも美術館の展示品ですか?」

私は目の前に置かれたトルソーを見上げ、呆然と呟いた。

そこにあるのは、ドレスという概念を超えた芸術品だった。

夜空を切り取ったような深い藍色のシルク。

そこに散りばめられているのは、ガラス玉やビーズではない。本物のダイヤモンドとサファイアだ。

動くたびに星々のように瞬き、見る者の視線を釘付けにする。

「気に入らないか?」

アレクセイ閣下が、子供のように不安げな顔で問いかける。

「気に入るも何も……これ、おいくらですか?」

「値段? 気にするな。王家の宝物庫に眠っていた『伝説の織り子』の作品だ。金で買えるものではない」

「非売品……つまり、時価測定不能(プライスレス)ということですね」

私は頭を抱えた。

「こんなものを着て、もしワインをこぼしたら? 裾を踏んで破いたら? 私の生涯年収でも弁償できませんよ」

「弁償などいらん。汚れたらまた新しいのを織らせればいい」

「その『新しいの』を作る職人がもういないから伝説なのでしょう!?」

私が抗議すると、閣下はクスクスと笑って私に近づき、そっとドレスの布地に触れた。

「リーナ。このドレスの色は『アークライト・ブルー』。我が公爵家の瞳の色と同じだ」

「はあ。確かに、閣下の瞳と同じ綺麗な色ですね」

「我が家では代々、この色のドレスを贈る相手には特別な意味を持たせる。……『私の全てを捧げる』という契約の証だ」

閣下の青い瞳が、私を射抜く。

契約。

その言葉に、私の職業病(ビジネス脳)が反応した。

「なるほど。つまり、このドレス着用中は『公爵家の所有物』としての独占権を行使される、ということですね?」

「……まあ、そういう解釈でもいい」

閣下は少しだけ肩を落としたようだが、すぐに気を取り直した。

「とにかく、今夜の舞踏会ではこれを着てくれ。隣国の連中に、君が誰のものかを知らしめる旗印だ」

「承知しました。動く広告塔として、完璧に着こなしてみせます」

私は覚悟を決めた。

このドレスを着る以上、私は「国一番の宝石」として振る舞わねばならない。

それが、この高価な衣装への礼儀であり、プロの仕事だ。

***

一方その頃、王城の一角にある王太子の部屋。

「なんでだ! なんで予算が下りないんだ!」

ギルバート王太子が空の金庫を叩いて叫んでいた。

「殿下……前回の建国記念祭での赤字補填で、王家予算は凍結されております」

側近が申し訳なさそうに告げる。

「だ、だが、今夜は隣国ランベールの舞踏会だぞ! 私も招待されているんだ! みすぼらしい格好で行けるか!」

「しかし、無い袖は振れません。……あるもので何とかしてください」

「あるものだと!?」

ギルバートはクローゼットをひっくり返した。

出てくるのは、流行遅れの礼服や、サイズが合わなくなった古い服ばかり。

そこに、ミミアが泣きながら飛び込んできた。

「ギルバート様ぁ! 私のドレスがありませんぅ!」

「なんだと? 先月買ったばかりだろう!」

「あれは質に入れちゃいましたぁ! おやつのケーキ代が足りなくてぇ!」

「ば、馬鹿者!」

ギルバートは頭を抱えた。

今夜の舞踏会は、隣国の次期国王候補も来る重要な外交の場。

そこで存在感を示せなければ、廃嫡の噂がいよいよ現実味を帯びてくる。

「くそっ……こうなったら、リメイクだ!」

「えっ?」

「ミミア! あの建国記念祭で売れ残った『カーテン生地』があっただろう! あれを巻け!」

「ええっ!? カーテンですかぁ?」

「金色のタッセルがついているから豪華に見えるはずだ! 私だって、学生時代の制服のボタンを付け替えて着ていくんだぞ!」

「そんなぁ……」

二人は薄暗い部屋で、針と糸を手に涙を流した。

その姿は、かつて国一番の栄華を誇った王太子カップルとは程遠い、哀愁漂うものだった。

***

そして、夜会の時刻。

隣国ランベールの迎賓館は、各国の王族や貴族たちで埋め尽くされていた。

シャンデリアが煌めき、オーケストラの生演奏が響く。

「――アルファポリス王国、ギルバート王太子殿下、並びにミミア嬢のご入場です」

衛兵の声と共に、扉が開く。

ざわっ……。

会場に入ってきた二人を見て、人々は一瞬言葉を失い、次いでひそひそと囁き始めた。

「おい、見ろよあれ……」

「王太子殿下、袖がつんつるてんじゃないか?」

「あの令嬢のドレス……あれ、カーテンじゃないか? ほら、裾に『遮光一級』ってタグが見えるぞ」

「ブフッ! マジかよ!」

嘲笑のさざ波が広がる。

ギルバートは顔を真っ赤にして、縮こまったミミアの手を引いて早足で歩いた。

「くそっ、見ろ! みんな僕たちに注目しているぞ! やはり私のオーラは隠せないな!」

「そ、そうですね! みんな笑いかけてくれてますぅ!」

ポジティブ変換しなければ心が折れてしまうのだろう。

二人が会場の隅で小さくなっていると、再び衛兵が高らかに声を上げた。

「――アルファポリス王国宰相、アレクセイ・フォン・アークライト公爵閣下。並びに……」

衛兵が一瞬、息を呑んだ。

「並びに、その婚約者、リーナ・ベルモンド嬢のご入場です!」

重厚な扉が、ゆっくりと開かれる。

その瞬間。

会場の照明が、まるでそこだけ明るくなったかのように錯覚した。

現れたのは、夜の支配者と、夜空の女神。

漆黒の礼服を完璧に着こなしたアレクセイ閣下。

そしてその腕に手を添える、星空を纏った私。

「おお……ッ!」

会場中から、感嘆のため息が漏れた。

アークライト・ブルーのドレスは、シャンデリアの光を受けて幻想的な輝きを放っている。

私の黒髪は高く結い上げられ、うなじには大粒のサファイアのネックレス。

計算し尽くされた姿勢、歩き方、そして微笑み。

「……計算通りですね」

私は小声で呟いた。

「ん? 何がだ?」

「照明の角度とドレスの反射率です。この位置で静止することで、最も美しく見えるよう計算しました」

「……君というやつは」

閣下は呆れたように笑ったが、その目は誇らしげだった。

私たちは優雅に会場の中央へ進む。

人々が海が割れるように道を開ける。

その視線の先で、ギルバートとミミアが口をあんぐりと開けていた。

「な、なんだあのドレスは……!」

ギルバートが震える指で指差す。

「あんな高そうなもの……いや、あれは国宝級じゃないか!? なんであいつが着ているんだ!」

「キィーッ! 悔しい! 私のカーテンよりキラキラしてるぅ!」

ミミアが地団駄を踏むが、悲しいかな、遮光カーテンは光を吸い込んで鈍く重たい音を立てるだけだ。

そこへ、一人の青年がワイングラス片手に近づいてきた。

隣国ランベールの第二王子、ルイスだ。

「やあ、アレクセイ公爵。ようこそ我が国へ」

「久しいな、ルイス殿下」

「そちらが噂の?」

ルイス殿下が私を見る。

品定めするような目つきだったが、すぐに感服の色に変わった。

「……なるほど。クリス皇子が一千億出すと言ったのも頷ける。宝石よりも価値のある女性だ」

「お褒めにあずかり光栄です、殿下」

私は完璧なカーテシー(礼)を披露した。

「ふふ、立ち振る舞いも洗練されている。……どうだい? ダンスの予約は空いているかな?」

ルイス殿下が手を差し出す。

しかし、その手は空中で遮られた。

「残念だが、満席だ」

アレクセイ閣下が、私の腰をぐいと引き寄せる。

「今夜の彼女のスケジュールは、秒単位ですべて私が埋めている」

「おや、厳しいね。一曲くらい減価償却させてくれてもいいじゃないか」

「ならん。彼女は私専用の『重要文化財』だ。他国の手垢をつけるわけにはいかない」

閣下の独占欲全開の発言に、周囲のご婦人方が「きゃあ、素敵!」と頬を染める。

私は心の中で電卓を弾いた。

(重要文化財……。維持費が高そうですね。固定資産税はどうなるのでしょうか)

そんな色気のないことを考えていると、会場の音楽が変わった。

ワルツだ。

「行くぞ、リーナ。私に委ねろ」

「はい、閣下。……追加料金は発生しませんのでご安心を」

「フッ、可愛くないことを言う」

閣下が私の手を取り、ダンスフロアへと滑り出す。

私たちは視線を絡ませ、ステップを踏んだ。

その完璧な調和は、言葉など必要ないほどに美しく、会場中の視線を独占した。

一方、その光の輪の外で。

「くっ、くそぉ……! 僕だって!」

ギルバートがミミアの手を引いて踊ろうとした。

しかし。

ビリッ!!

「あっ」

ミミアがドレスの裾を踏んだ瞬間、カーテン生地の耐久限界を超え、背中の縫い目が裂けた。

「きゃあああ! 裂けましたぁ!」

「うわっ、中身が見えてるぞ! 隠せ!」

「ギルバート様のマント貸してくださいぃ!」

「嫌だ! 僕の服まで汚れる!」

ドタバタと騒ぐ二人。

衛兵が飛んできて、「お客様、少々静かに……」とつまみ出そうとする。

その無様な姿は、煌びやかな私たちとは対照的な「喜劇」として、夜会の余興となった。

私は閣下の腕の中で回りながら、その光景を横目で見た。

(……慰謝料五億、安い買い物でしたね)

かつて私を捨てた男の末路。

それは計算するまでもなく、破滅の一途を辿っていた。

だが、夜会はこれで終わりではない。

私たちのダンスが終わった直後、会場の入り口が再びざわめいた。

「――ガルディア帝国、クリス第三皇子のご到着です!」

例の赤毛の皇子が、不敵な笑みを浮かべて現れたのだ。

そして彼は、私とアレクセイ閣下を見つけるなり、真っ直ぐに歩み寄ってきた。

「やあ、僕の女神。そのドレス、最高に似合っているよ。……僕が贈るはずだったエメラルドより美しい」

「クリス……」

アレクセイ閣下の声が低くなる。

「懲りずにまた来たか」

「挨拶くらいさせてくれよ。……それに今日は、ビッグニュースを持ってきたんだ」

クリス皇子はニヤリと笑い、爆弾発言を投下した。

「我が帝国は、アルファポリス王国に対し、正式に『宣戦布告』……いや、訂正。『リーナ争奪戦』を申し込むことにした」

「……は?」

「つまり、武力ではなく、経済力と魅力で彼女を奪い取る。そのための特使として、僕がこの国に駐在することになったんだ」

会場がどよめく。

外交問題、ここに極まれり。

私は頭の中で警報が鳴り響くのを感じた。

(駐在……? つまり、毎日この男が職場に来るということですか?)

「君の執務室の隣に、僕のデスクを用意してね」

ウィンクする皇子。

殺気を放つ宰相。

そして、遠くでつまみ出される元婚約者。

私の優雅な夜会は、新たなトラブルの予感と共に更けていった。
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