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病み上がり。
私は、窓から差し込む穏やかな朝日に目を細めながら、深く、深いため息をついた。
「……お嬢様。そんなに朝から景気よくため息をつくと、幸せが逃げますよ。まあ、お嬢様の場合は、逃げてほしいのは『王子の愛』なのでしょうけれど」
アンナが着替えを準備しながら、毒のある軽口を叩く。
「そうなのよ、アンナ。もう、疲れ果ててしまいましたわ。悪事を働けば働くほど評価が上がり、病気になれば国が止まりかける。私、悪役令嬢としての才能が絶望的にないのではないかしら……」
「今更の気づきですね」
鏡に映る私の顔は、看病のおかげですっかり艶やかになり、健康そのものだ。
このままでは、今日という日も「嫌がらせ」を考えては空振りし、殿下に愛でられて終わるだけ。
私は決意した。今日一日だけは、白旗を上げよう。
「……アンナ。今日のデート、私は『悪役』をお休みしますわ」
「お休み、ですか?」
「ええ。普通の令嬢として、普通に殿下と過ごしますの。いわば、作戦を練り直すための『休戦日』ですわ」
私は動きやすい軽やかなドレスを選び、迎えに来たレオンハルト殿下のもとへ向かった。
「おはよう、マリア! 顔色が良くなって本当によかった。今日は無理をさせないように、君を繭(まゆ)の中に閉じ込めておこうかと思っていたんだ」
「殿下、おはようございます。……今日は繭は結構ですわ。その代わり、お願いがありますの」
私は真っ直ぐに殿下を見上げた。
いつもならここで「フンッ」と鼻で笑うところだが、今日は努めて穏やかに。
「今日は『悪役令嬢』はお休みです。わがままも言いませんし、意地悪もしません。ただの、あなたの婚約者のマリアとして、一緒に過ごさせていただけますか?」
レオンハルト殿下は、一瞬だけ鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「……マリア。それは、どういう高度な戦術だい? 僕を油断させておいて、最後にとてつもない落とし穴に突き落とすという……」
「違いますわ。ただの、休日です。お嫌……ですか?」
私が少し不安になって首を傾げると、殿下の瞳がみるみるうちに熱を帯びていった。
「嫌なわけがないだろう!! むしろ、ご褒美すぎて怖いよ! ケイン、聞いたか! 今日はマリアが僕のマリアでいてくれるそうだ!」
「殿下、日本語が不自由になっていますよ。マリア様は最初からあなたの婚約者です。……まあ、お嬢様が正気を取り戻されたのなら、私の胃も今日一日は安泰そうですね」
ケイン様が、心底ホッとしたように胸をなでおろした。
こうして、私たちの「普通のデート」が始まった。
王宮を抜け出し、下町の市場を歩く。
いつもなら「こんな汚い場所、歩けませんわ!」と叫ぶところだが、今日は殿下の腕にそっと手を添えて、並んでいる果物や雑貨を眺めた。
「見てください、殿下。あの木彫りのクマ、なんだか殿下の側近に似ていませんこと?」
「ふふ、確かに。ケインが不機嫌な時の顔にそっくりだ。マリア、君は観察眼が鋭いね」
「あら、褒めても何も出ませんわよ。……今日は『悪役』じゃないので、今の言葉は素直に受け取っておきますわ」
私はクスクスと笑った。
殿下は、そんな私の横顔を、まるでもう二度と見られない宝物を見るかのような、切ないほど優しい眼差しで見つめている。
「……どうしましたの? 殿下。私の顔に、何か付いていて?」
「いや。ただ、君が笑ってくれるのが嬉しくてね。……ああ、神よ、感謝します。今日という日を永遠に閉じ込めてしまいたい」
「大げさですわ」
私たちは屋台で買った安価な焼き菓子を半分こにし、公園のベンチで食べた。
高級シェフの料理ではないけれど、太陽の下で食べるそれは、驚くほど美味しかった。
「殿下……。私、本当は知っているんですのよ。あなたがどれだけお忙しいか。私のわがままに付き合って、夜遅くまで仕事をしていることも」
「……マリア?」
「ごめんなさい。私、無能なりにあなたの役に立ちたいと思っているのに、結局は困らせてばかりで……」
ポロリと、本音がこぼれた。
悪役を演じることに必死すぎて、忘れていた感情。
私はこの人のことが、嫌いではないのだ。むしろ、その誠実さに、何度も救われてきた。
レオンハルト殿下は、私の肩を抱き寄せ、その広い胸に私を閉じ込めた。
「困ってなんていないよ。君が何をしようと、僕にとってはすべてが愛おしい時間だ。マリア、君が自分を『無能』だと言うたびに、僕は君の良さを一万個書き出したくなるんだ」
「一万個は、流石に重すぎますわ……」
「重くていい。君を繋ぎ止めておけるなら、いくらでも重くなるよ」
殿下の声は甘く、そしてどこまでも誠実だった。
(……ダメ。これじゃ、作戦にならないわ……)
一日「悪役」を休んだだけで、私の心は簡単に彼の方へと傾いてしまう。
休戦日のつもりが、私の防壁がボロボロに崩される「陥落日」になりかけている。
夕暮れ時。王宮に戻る馬車の中で、私は殿下の肩に頭を預けていた。
「……殿下。明日からは、また『悪役令嬢マリア』に戻りますわよ」
「ああ。楽しみだよ。君のどんな『悪事』も、僕が全部愛で受け止めてあげるから」
殿下は私の手を握り、その甲にそっと誓いのキスをした。
幸せすぎて、怖い。
「普通の令嬢」として過ごす一日は、私がどれだけ彼に愛されているか、そして自分がどれだけ彼を求めているかを痛感させる、最も残酷な作戦(自爆)となった。
「(……やっぱり、捨てられるなんて無理。いえ、でも彼の名誉のために……うぅ、心が二つありますわ……!)」
悪役令嬢への道。
休戦という名の「幸せの過剰摂取」によって、マリアの決意はかつてないほどに揺らぎ始めていた。
私は、窓から差し込む穏やかな朝日に目を細めながら、深く、深いため息をついた。
「……お嬢様。そんなに朝から景気よくため息をつくと、幸せが逃げますよ。まあ、お嬢様の場合は、逃げてほしいのは『王子の愛』なのでしょうけれど」
アンナが着替えを準備しながら、毒のある軽口を叩く。
「そうなのよ、アンナ。もう、疲れ果ててしまいましたわ。悪事を働けば働くほど評価が上がり、病気になれば国が止まりかける。私、悪役令嬢としての才能が絶望的にないのではないかしら……」
「今更の気づきですね」
鏡に映る私の顔は、看病のおかげですっかり艶やかになり、健康そのものだ。
このままでは、今日という日も「嫌がらせ」を考えては空振りし、殿下に愛でられて終わるだけ。
私は決意した。今日一日だけは、白旗を上げよう。
「……アンナ。今日のデート、私は『悪役』をお休みしますわ」
「お休み、ですか?」
「ええ。普通の令嬢として、普通に殿下と過ごしますの。いわば、作戦を練り直すための『休戦日』ですわ」
私は動きやすい軽やかなドレスを選び、迎えに来たレオンハルト殿下のもとへ向かった。
「おはよう、マリア! 顔色が良くなって本当によかった。今日は無理をさせないように、君を繭(まゆ)の中に閉じ込めておこうかと思っていたんだ」
「殿下、おはようございます。……今日は繭は結構ですわ。その代わり、お願いがありますの」
私は真っ直ぐに殿下を見上げた。
いつもならここで「フンッ」と鼻で笑うところだが、今日は努めて穏やかに。
「今日は『悪役令嬢』はお休みです。わがままも言いませんし、意地悪もしません。ただの、あなたの婚約者のマリアとして、一緒に過ごさせていただけますか?」
レオンハルト殿下は、一瞬だけ鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「……マリア。それは、どういう高度な戦術だい? 僕を油断させておいて、最後にとてつもない落とし穴に突き落とすという……」
「違いますわ。ただの、休日です。お嫌……ですか?」
私が少し不安になって首を傾げると、殿下の瞳がみるみるうちに熱を帯びていった。
「嫌なわけがないだろう!! むしろ、ご褒美すぎて怖いよ! ケイン、聞いたか! 今日はマリアが僕のマリアでいてくれるそうだ!」
「殿下、日本語が不自由になっていますよ。マリア様は最初からあなたの婚約者です。……まあ、お嬢様が正気を取り戻されたのなら、私の胃も今日一日は安泰そうですね」
ケイン様が、心底ホッとしたように胸をなでおろした。
こうして、私たちの「普通のデート」が始まった。
王宮を抜け出し、下町の市場を歩く。
いつもなら「こんな汚い場所、歩けませんわ!」と叫ぶところだが、今日は殿下の腕にそっと手を添えて、並んでいる果物や雑貨を眺めた。
「見てください、殿下。あの木彫りのクマ、なんだか殿下の側近に似ていませんこと?」
「ふふ、確かに。ケインが不機嫌な時の顔にそっくりだ。マリア、君は観察眼が鋭いね」
「あら、褒めても何も出ませんわよ。……今日は『悪役』じゃないので、今の言葉は素直に受け取っておきますわ」
私はクスクスと笑った。
殿下は、そんな私の横顔を、まるでもう二度と見られない宝物を見るかのような、切ないほど優しい眼差しで見つめている。
「……どうしましたの? 殿下。私の顔に、何か付いていて?」
「いや。ただ、君が笑ってくれるのが嬉しくてね。……ああ、神よ、感謝します。今日という日を永遠に閉じ込めてしまいたい」
「大げさですわ」
私たちは屋台で買った安価な焼き菓子を半分こにし、公園のベンチで食べた。
高級シェフの料理ではないけれど、太陽の下で食べるそれは、驚くほど美味しかった。
「殿下……。私、本当は知っているんですのよ。あなたがどれだけお忙しいか。私のわがままに付き合って、夜遅くまで仕事をしていることも」
「……マリア?」
「ごめんなさい。私、無能なりにあなたの役に立ちたいと思っているのに、結局は困らせてばかりで……」
ポロリと、本音がこぼれた。
悪役を演じることに必死すぎて、忘れていた感情。
私はこの人のことが、嫌いではないのだ。むしろ、その誠実さに、何度も救われてきた。
レオンハルト殿下は、私の肩を抱き寄せ、その広い胸に私を閉じ込めた。
「困ってなんていないよ。君が何をしようと、僕にとってはすべてが愛おしい時間だ。マリア、君が自分を『無能』だと言うたびに、僕は君の良さを一万個書き出したくなるんだ」
「一万個は、流石に重すぎますわ……」
「重くていい。君を繋ぎ止めておけるなら、いくらでも重くなるよ」
殿下の声は甘く、そしてどこまでも誠実だった。
(……ダメ。これじゃ、作戦にならないわ……)
一日「悪役」を休んだだけで、私の心は簡単に彼の方へと傾いてしまう。
休戦日のつもりが、私の防壁がボロボロに崩される「陥落日」になりかけている。
夕暮れ時。王宮に戻る馬車の中で、私は殿下の肩に頭を預けていた。
「……殿下。明日からは、また『悪役令嬢マリア』に戻りますわよ」
「ああ。楽しみだよ。君のどんな『悪事』も、僕が全部愛で受け止めてあげるから」
殿下は私の手を握り、その甲にそっと誓いのキスをした。
幸せすぎて、怖い。
「普通の令嬢」として過ごす一日は、私がどれだけ彼に愛されているか、そして自分がどれだけ彼を求めているかを痛感させる、最も残酷な作戦(自爆)となった。
「(……やっぱり、捨てられるなんて無理。いえ、でも彼の名誉のために……うぅ、心が二つありますわ……!)」
悪役令嬢への道。
休戦という名の「幸せの過剰摂取」によって、マリアの決意はかつてないほどに揺らぎ始めていた。
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