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「……尊い」
王宮の庭園、その片隅に生い茂る立派な植え込み。
美しく剪定された緑の葉の隙間から、私はじっと息を潜めていた。
視線の先にあるのは、ガラス張りのコンサバトリーだ。
柔らかな午後の陽光が差し込むその場所で、一人の青年が書類に目を通している。
「ああっ、いま羽ペンを置く仕草! 指先の角度が完璧すぎませんこと!? 国宝……いいえ、世界遺産に登録すべき美しさだわ……!」
私は口元を両手で覆い、身悶えするのを必死に堪えた。
私の名前はラヴィニア・クロック。
由緒あるクロック公爵家の長女であり、あそこで執務をしているフリードリヒ王太子の婚約者だ。
世間一般では、次期王妃として羨望の眼差しを向けられる立場にある。
だが、私にとって彼はただの婚約者ではない。
「生ける芸術品。至高の存在。我が人生の推し……ッ!」
そう、私は重度の『フリード殿下オタク』なのである。
彼、フリードリヒ殿下は完璧だ。
太陽の光を糸にしたような金色の髪、深い知性を宿したアイスブルーの瞳。
すらりと伸びた長身はどんな騎士服も着こなし、その頭脳は若くして国政の一部を担うほど聡明。
冷徹と噂されることもあるが、それは彼が優秀すぎて凡人がついていけないだけのこと。
そんな雲の上の存在と婚約してしまった私の心労を、誰が理解できるだろうか。
「無理……あんな光り輝く存在の隣に並ぶなんて、目が潰れるわ」
私は震える手で、懐からオペラグラスを取り出した。
婚約者なのだから、堂々と側に行ってお茶でも楽しめばいい。
そう思うだろう。
しかし、オタクというのは『推し』を至近距離で見ると死ぬ生き物なのだ。
こうして物陰から、適度な距離(ソーシャルディスタンス)を保って拝ませていただくのが一番心臓に優しい。
「あら? 殿下がこめかみを押さえていらっしゃるわ」
レンズ越しに見える殿下の眉間に、わずかな皺が寄っている。
憂いを帯びた表情もまた、絵画のように美しい。
「お疲れなのかしら……。ああ、私が癒やしの魔法でも使えればいいのに。でも私が近づいたら、私の不敬な呼吸で殿下の周囲の空気が汚れてしまうかもしれないし」
ブツブツと呟きながら、私はさらに身を乗り出した。
その時である。
「……何をしているんですか、ラヴィニア嬢」
頭上から降ってきた呆れ声に、私は「ひっ」と短く悲鳴を上げた。
バサバサと植え込みをかき分けて顔を出すと、そこには仁王立ちした近衛騎士団長、アレク様がいた。
「あ、あ、アレク様……! 奇遇ですわね、このような場所で」
「奇遇も何も、ここは王太子の執務室の正面です。そして貴方は、頭に葉っぱを乗せたまま、王族を盗み見ています」
アレク様は私の頭から枯れ葉をつまみ上げ、深いため息をついた。
「婚約者なんですから、普通に会いに行けばいいでしょう。殿下もお待ちですよ」
「滅相もない!」
私は全力で首を横に振った。
「今の殿下は執務モード、つまり『ON』の状態です! そのような神聖な時間に、私がノコノコと顔を出して集中力を乱すなど、万死に値します!」
「……そうですか。ですが、そこから熱視線を送り続けるほうが、よほど集中力を乱すと思いますが」
「気配は消しております! 私は空気! 私は塵芥(ちりあくた)!」
「公爵令嬢が自分をゴミ呼ばわりしないでください」
アレク様との問答が聞こえたのか、コンサバトリーの中にいた殿下がふと顔を上げた。
そのアイスブルーの瞳が、真っ直ぐにこちらを射抜く。
――目が、合った。
「!!!」
私は心臓が跳ね上がるのを感じた。
遠目でも分かる、その破壊力。
視線が絡んだだけで、体中の血液が沸騰しそうだ。
殿下は私を見つけると、ふわりと優雅に微笑み、手招きをした。
その仕草一つで、周囲に花が咲き乱れるような幻覚が見える。
「ら、ラヴィニア嬢? 顔が真っ赤ですが」
「む、無理です……!」
私はガタガタと震え出した。
「あのような笑顔(ファンサービス)を直撃されたら、私の貧弱な心臓は持ちません! 本日はこれにて失礼いたします!」
「えっ、待ちなさい! 殿下が呼んで――」
「ごきげんよう!」
私はドレスの裾をたくし上げると、脱兎のごとくその場から逃げ出した。
背後でアレク様の「あいつ、また逃げたのか……」という疲れた声が聞こえたが、振り返る余裕などない。
全速力で庭園を駆け抜け、王宮の回廊を曲がり、ひと気のないバルコニーまで辿り着いてようやく足を止める。
「はあ、はあ、はあ……」
呼吸を整えながら、私は胸を押さえた。
心臓が早鐘を打っている。
「危なかった……。あと五秒あそこにいたら、尊死(とうとし)していたわ」
冷たい石の手すりに額を押し付け、熱くなった頬を冷やす。
これだ。いつもこれなのだ。
殿下のことは大好きだ。愛していると言ってもいい。
けれど、それは崇拝に近い感情であって、対等なパートナーとしての愛ではない気がする。
あんなに完璧な方の隣に、私のような挙動不審な女がいていいはずがない。
「殿下には、もっと相応しい方がいるはずよ」
たとえば、聖女のように慈悲深く、太陽のように明るく、そして何より――殿下の前でも奇声を上げずに微笑んでいられるような女性が。
私は自身のドレスの胸元をぎゅっと握りしめた。
「私が身を引けば、殿下はもっと素晴らしい女性と結ばれる」
それは、オタクとしての究極の愛の形。
推しの幸せこそが、私の幸せなのだから。
「そうよ。そのためには、ただ婚約破棄を申し出るだけじゃ駄目ね」
殿下は義理堅い方だ。
理由のない婚約破棄など、家同士の関係を考えても承諾しないだろう。
ならば、どうするか。
私の方から『愛想を尽かされる』しかない。
「私が悪女になればいいのよ」
名案が閃いた、と私は顔を上げた。
殿下が眉をひそめるような、最悪な悪役令嬢。
嫉妬深く、傲慢で、周囲を困らせるような女になれば、さすがの殿下も私を捨てるはずだ。
そうすれば、殿下は自由になり、真のヒロインと結ばれるハッピーエンドが待っている!
「決めたわ。私は今日から悪役令嬢になる!」
握り拳を突き上げ、高らかに宣言する。
その声が思いのほか響き渡り、近くを通りかかった侍女たちがギョッとしてこちらを見ていたが、今の私には些細なことだった。
私の脳内ではすでに、壮大な『推しへの恩返し計画』が始動していたのだから。
「待っていてください、フリード殿下。貴方のために、私は最高の悪役を演じてみせますから……!」
その決意が、後に国中を巻き込む大騒動、そして殿下との壮大なすれ違いラブコメディの幕開けになるとは、今の私は知る由もなかった。
王宮の庭園、その片隅に生い茂る立派な植え込み。
美しく剪定された緑の葉の隙間から、私はじっと息を潜めていた。
視線の先にあるのは、ガラス張りのコンサバトリーだ。
柔らかな午後の陽光が差し込むその場所で、一人の青年が書類に目を通している。
「ああっ、いま羽ペンを置く仕草! 指先の角度が完璧すぎませんこと!? 国宝……いいえ、世界遺産に登録すべき美しさだわ……!」
私は口元を両手で覆い、身悶えするのを必死に堪えた。
私の名前はラヴィニア・クロック。
由緒あるクロック公爵家の長女であり、あそこで執務をしているフリードリヒ王太子の婚約者だ。
世間一般では、次期王妃として羨望の眼差しを向けられる立場にある。
だが、私にとって彼はただの婚約者ではない。
「生ける芸術品。至高の存在。我が人生の推し……ッ!」
そう、私は重度の『フリード殿下オタク』なのである。
彼、フリードリヒ殿下は完璧だ。
太陽の光を糸にしたような金色の髪、深い知性を宿したアイスブルーの瞳。
すらりと伸びた長身はどんな騎士服も着こなし、その頭脳は若くして国政の一部を担うほど聡明。
冷徹と噂されることもあるが、それは彼が優秀すぎて凡人がついていけないだけのこと。
そんな雲の上の存在と婚約してしまった私の心労を、誰が理解できるだろうか。
「無理……あんな光り輝く存在の隣に並ぶなんて、目が潰れるわ」
私は震える手で、懐からオペラグラスを取り出した。
婚約者なのだから、堂々と側に行ってお茶でも楽しめばいい。
そう思うだろう。
しかし、オタクというのは『推し』を至近距離で見ると死ぬ生き物なのだ。
こうして物陰から、適度な距離(ソーシャルディスタンス)を保って拝ませていただくのが一番心臓に優しい。
「あら? 殿下がこめかみを押さえていらっしゃるわ」
レンズ越しに見える殿下の眉間に、わずかな皺が寄っている。
憂いを帯びた表情もまた、絵画のように美しい。
「お疲れなのかしら……。ああ、私が癒やしの魔法でも使えればいいのに。でも私が近づいたら、私の不敬な呼吸で殿下の周囲の空気が汚れてしまうかもしれないし」
ブツブツと呟きながら、私はさらに身を乗り出した。
その時である。
「……何をしているんですか、ラヴィニア嬢」
頭上から降ってきた呆れ声に、私は「ひっ」と短く悲鳴を上げた。
バサバサと植え込みをかき分けて顔を出すと、そこには仁王立ちした近衛騎士団長、アレク様がいた。
「あ、あ、アレク様……! 奇遇ですわね、このような場所で」
「奇遇も何も、ここは王太子の執務室の正面です。そして貴方は、頭に葉っぱを乗せたまま、王族を盗み見ています」
アレク様は私の頭から枯れ葉をつまみ上げ、深いため息をついた。
「婚約者なんですから、普通に会いに行けばいいでしょう。殿下もお待ちですよ」
「滅相もない!」
私は全力で首を横に振った。
「今の殿下は執務モード、つまり『ON』の状態です! そのような神聖な時間に、私がノコノコと顔を出して集中力を乱すなど、万死に値します!」
「……そうですか。ですが、そこから熱視線を送り続けるほうが、よほど集中力を乱すと思いますが」
「気配は消しております! 私は空気! 私は塵芥(ちりあくた)!」
「公爵令嬢が自分をゴミ呼ばわりしないでください」
アレク様との問答が聞こえたのか、コンサバトリーの中にいた殿下がふと顔を上げた。
そのアイスブルーの瞳が、真っ直ぐにこちらを射抜く。
――目が、合った。
「!!!」
私は心臓が跳ね上がるのを感じた。
遠目でも分かる、その破壊力。
視線が絡んだだけで、体中の血液が沸騰しそうだ。
殿下は私を見つけると、ふわりと優雅に微笑み、手招きをした。
その仕草一つで、周囲に花が咲き乱れるような幻覚が見える。
「ら、ラヴィニア嬢? 顔が真っ赤ですが」
「む、無理です……!」
私はガタガタと震え出した。
「あのような笑顔(ファンサービス)を直撃されたら、私の貧弱な心臓は持ちません! 本日はこれにて失礼いたします!」
「えっ、待ちなさい! 殿下が呼んで――」
「ごきげんよう!」
私はドレスの裾をたくし上げると、脱兎のごとくその場から逃げ出した。
背後でアレク様の「あいつ、また逃げたのか……」という疲れた声が聞こえたが、振り返る余裕などない。
全速力で庭園を駆け抜け、王宮の回廊を曲がり、ひと気のないバルコニーまで辿り着いてようやく足を止める。
「はあ、はあ、はあ……」
呼吸を整えながら、私は胸を押さえた。
心臓が早鐘を打っている。
「危なかった……。あと五秒あそこにいたら、尊死(とうとし)していたわ」
冷たい石の手すりに額を押し付け、熱くなった頬を冷やす。
これだ。いつもこれなのだ。
殿下のことは大好きだ。愛していると言ってもいい。
けれど、それは崇拝に近い感情であって、対等なパートナーとしての愛ではない気がする。
あんなに完璧な方の隣に、私のような挙動不審な女がいていいはずがない。
「殿下には、もっと相応しい方がいるはずよ」
たとえば、聖女のように慈悲深く、太陽のように明るく、そして何より――殿下の前でも奇声を上げずに微笑んでいられるような女性が。
私は自身のドレスの胸元をぎゅっと握りしめた。
「私が身を引けば、殿下はもっと素晴らしい女性と結ばれる」
それは、オタクとしての究極の愛の形。
推しの幸せこそが、私の幸せなのだから。
「そうよ。そのためには、ただ婚約破棄を申し出るだけじゃ駄目ね」
殿下は義理堅い方だ。
理由のない婚約破棄など、家同士の関係を考えても承諾しないだろう。
ならば、どうするか。
私の方から『愛想を尽かされる』しかない。
「私が悪女になればいいのよ」
名案が閃いた、と私は顔を上げた。
殿下が眉をひそめるような、最悪な悪役令嬢。
嫉妬深く、傲慢で、周囲を困らせるような女になれば、さすがの殿下も私を捨てるはずだ。
そうすれば、殿下は自由になり、真のヒロインと結ばれるハッピーエンドが待っている!
「決めたわ。私は今日から悪役令嬢になる!」
握り拳を突き上げ、高らかに宣言する。
その声が思いのほか響き渡り、近くを通りかかった侍女たちがギョッとしてこちらを見ていたが、今の私には些細なことだった。
私の脳内ではすでに、壮大な『推しへの恩返し計画』が始動していたのだから。
「待っていてください、フリード殿下。貴方のために、私は最高の悪役を演じてみせますから……!」
その決意が、後に国中を巻き込む大騒動、そして殿下との壮大なすれ違いラブコメディの幕開けになるとは、今の私は知る由もなかった。
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