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「……ここが公爵邸、ですか」
馬車から降りたイロハは、目の前の光景に絶句した。
そこには、威風堂々とした外観とは裏腹に、どんよりとした負のオーラを放つ巨大な屋敷が鎮座していた。
門番は居眠りをし、庭の芝生は伸び放題。
何より、出迎えた執事やメイドたちの目が死んでいる。
「閣下、お戻り……あ、あれ? その横にいるお嬢様は……新しい生贄ですか?」
「失礼なことを言うな、セバス。今日からここで働くイロハ嬢だ」
シルヴィスは涼しい顔で、イロハを屋敷の中へと促す。
一歩足を踏み入れた瞬間、イロハの鼻を突いたのは、埃の匂いと――「赤字」の臭いだった。
「待ってください、閣下。中に入る前に、まずは先ほどの契約の最終確認を。はい、これ」
イロハは歩きながら、馬車の中で書き上げたばかりの書類を差し出した。
「なんだ、これは。……『債権譲渡に伴う特別清算契約書』?」
「ええ。カイル殿下への請求権を閣下に譲渡する以上、その対価の支払い条件を明確にする必要があります。二十億ゴールドのうち、十億は私の自由口座へ。残りの十億は、この屋敷の運用資金として『投資』扱いにしてください」
「ほう、自分の懐に入れる分を削って、この屋敷に投資すると?」
シルヴィスが面白そうに目を細める。
「投資ではありません。この惨状を見るに、まともな職場環境が整っていないと判断しました。まずは環境を整えないと、私の労働効率が下がります。これは先行投資という名の自己防衛です」
イロハは、廊下の隅に溜まった埃を指先でなぞり、冷徹に告げた。
「ちなみに、この契約書には『税抜』と明記してあります。贈与税、所得税、及びその他の諸税はすべて閣下の負担となりますので、あしからず」
「くくっ、どこまでも徹底しているな。いいだろう、サインしてやる」
シルヴィスが執務室でさらさらとサインを書く。
その横で、イロハは早くも屋敷の帳簿(のような雑多な紙束)を手に取り、高速でめくり始めた。
「……ひどい。これはひどすぎます」
「何がだ?」
「経理の体を成していません。備品購入の領収書がパンの耳で代用されているのはなぜですか? あと、この『不明金:いっぱい』という項目は何ですか?」
「さあな。前の会計係が、あまりの激務に発狂して逃げ出したからな」
シルヴィスは事もなげに言うが、イロハの眉間には深い皺が刻まれていた。
「……閣下。一つ提案があります」
「なんだ?」
「私の役職は『専属管理官』とのことでしたが、範囲を拡大させていただきます。本日より、私はこの公爵家の『最高財務責任者(CFO)』兼『人事部長』を兼任いたします」
イロハは計算機を高く掲げた。
「この屋敷に溜まった『無駄』という名の脂肪を、すべて削ぎ落として差し上げます。覚悟してください」
「おもしろい。やってみろ」
シルヴィスが不敵に微笑んだ、その時。
バタン! と大きな音を立てて、執務室の扉が開いた。
「シルヴィス兄様! 大変です! カイル様が、カイル様が大変なことに……!」
飛び込んできたのは、なぜか目を真っ赤に腫らしたマリアだった。
「マリア嬢? なぜここに。カイル殿下はどうされました?」
イロハが冷静に問いかけると、マリアはイロハにすがりつくように叫んだ。
「イロハ様! 助けてください! カイル様が、さっきの二十億ゴールドを工面するために……王家の家宝を勝手にオークションに出そうとして、国王陛下に捕まってしまったんです!」
「……」
イロハは、無言で計算機を叩いた。
「計算が出ました」
「な、何がですか?」
「カイル殿下の知能指数が、私の予想をさらに下回っていたことに対する、精神的損害の追加請求額です。……一億ゴールド追加ですね」
「お金の話じゃなくて、助けてあげてくださいっ!」
「お断りします。私はもう公爵家の人間ですので。他校の生徒の不祥事に関わる義理はありません」
冷たく言い放つイロハの背後で、シルヴィスが満足げに頷いていた。
「聞いたか、マリア。イロハは忙しいんだ。お前も、そのバカな王子を助けたいなら、自分の足で走れ。……ただし、この屋敷の床を汚したら、掃除代を請求されるから気をつけろよ」
「そんなあ……!」
泣きながら走り去るマリアを見送り、イロハは深くため息をついた。
「閣下、一つ忠告を。今後、あのような非効率なトラブルを持ち込む来客には、入場料を徴収すべきです」
「くはは! お前を雇って本当に正解だった。これからの生活が楽しみで仕方ない」
シルヴィスの熱い視線がイロハを射抜くが、彼女は全く気づかない。
「それより、この『不明金』の追及を始めます。全従業員をホールに集めてください。一人につき三秒で尋問を終わらせます」
イロハの戦いは、まだ始まったばかりだった。
馬車から降りたイロハは、目の前の光景に絶句した。
そこには、威風堂々とした外観とは裏腹に、どんよりとした負のオーラを放つ巨大な屋敷が鎮座していた。
門番は居眠りをし、庭の芝生は伸び放題。
何より、出迎えた執事やメイドたちの目が死んでいる。
「閣下、お戻り……あ、あれ? その横にいるお嬢様は……新しい生贄ですか?」
「失礼なことを言うな、セバス。今日からここで働くイロハ嬢だ」
シルヴィスは涼しい顔で、イロハを屋敷の中へと促す。
一歩足を踏み入れた瞬間、イロハの鼻を突いたのは、埃の匂いと――「赤字」の臭いだった。
「待ってください、閣下。中に入る前に、まずは先ほどの契約の最終確認を。はい、これ」
イロハは歩きながら、馬車の中で書き上げたばかりの書類を差し出した。
「なんだ、これは。……『債権譲渡に伴う特別清算契約書』?」
「ええ。カイル殿下への請求権を閣下に譲渡する以上、その対価の支払い条件を明確にする必要があります。二十億ゴールドのうち、十億は私の自由口座へ。残りの十億は、この屋敷の運用資金として『投資』扱いにしてください」
「ほう、自分の懐に入れる分を削って、この屋敷に投資すると?」
シルヴィスが面白そうに目を細める。
「投資ではありません。この惨状を見るに、まともな職場環境が整っていないと判断しました。まずは環境を整えないと、私の労働効率が下がります。これは先行投資という名の自己防衛です」
イロハは、廊下の隅に溜まった埃を指先でなぞり、冷徹に告げた。
「ちなみに、この契約書には『税抜』と明記してあります。贈与税、所得税、及びその他の諸税はすべて閣下の負担となりますので、あしからず」
「くくっ、どこまでも徹底しているな。いいだろう、サインしてやる」
シルヴィスが執務室でさらさらとサインを書く。
その横で、イロハは早くも屋敷の帳簿(のような雑多な紙束)を手に取り、高速でめくり始めた。
「……ひどい。これはひどすぎます」
「何がだ?」
「経理の体を成していません。備品購入の領収書がパンの耳で代用されているのはなぜですか? あと、この『不明金:いっぱい』という項目は何ですか?」
「さあな。前の会計係が、あまりの激務に発狂して逃げ出したからな」
シルヴィスは事もなげに言うが、イロハの眉間には深い皺が刻まれていた。
「……閣下。一つ提案があります」
「なんだ?」
「私の役職は『専属管理官』とのことでしたが、範囲を拡大させていただきます。本日より、私はこの公爵家の『最高財務責任者(CFO)』兼『人事部長』を兼任いたします」
イロハは計算機を高く掲げた。
「この屋敷に溜まった『無駄』という名の脂肪を、すべて削ぎ落として差し上げます。覚悟してください」
「おもしろい。やってみろ」
シルヴィスが不敵に微笑んだ、その時。
バタン! と大きな音を立てて、執務室の扉が開いた。
「シルヴィス兄様! 大変です! カイル様が、カイル様が大変なことに……!」
飛び込んできたのは、なぜか目を真っ赤に腫らしたマリアだった。
「マリア嬢? なぜここに。カイル殿下はどうされました?」
イロハが冷静に問いかけると、マリアはイロハにすがりつくように叫んだ。
「イロハ様! 助けてください! カイル様が、さっきの二十億ゴールドを工面するために……王家の家宝を勝手にオークションに出そうとして、国王陛下に捕まってしまったんです!」
「……」
イロハは、無言で計算機を叩いた。
「計算が出ました」
「な、何がですか?」
「カイル殿下の知能指数が、私の予想をさらに下回っていたことに対する、精神的損害の追加請求額です。……一億ゴールド追加ですね」
「お金の話じゃなくて、助けてあげてくださいっ!」
「お断りします。私はもう公爵家の人間ですので。他校の生徒の不祥事に関わる義理はありません」
冷たく言い放つイロハの背後で、シルヴィスが満足げに頷いていた。
「聞いたか、マリア。イロハは忙しいんだ。お前も、そのバカな王子を助けたいなら、自分の足で走れ。……ただし、この屋敷の床を汚したら、掃除代を請求されるから気をつけろよ」
「そんなあ……!」
泣きながら走り去るマリアを見送り、イロハは深くため息をついた。
「閣下、一つ忠告を。今後、あのような非効率なトラブルを持ち込む来客には、入場料を徴収すべきです」
「くはは! お前を雇って本当に正解だった。これからの生活が楽しみで仕方ない」
シルヴィスの熱い視線がイロハを射抜くが、彼女は全く気づかない。
「それより、この『不明金』の追及を始めます。全従業員をホールに集めてください。一人につき三秒で尋問を終わらせます」
イロハの戦いは、まだ始まったばかりだった。
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