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翌朝。
公爵邸の食堂で、シルヴィスは優雅にコーヒーを飲んでいた。
そこへ、イロハがドカドカと足音を立てて現れた。
「閣下、おはようございます。至急、馬車を出してください」
「……挨拶もなしに要求か。まあいい、どこへ行く?」
「実家(ローゼン侯爵家)です」
シルヴィスはカップを置いた。
「昨日、絶縁状が届いただろう? 『二度と敷居を跨ぐな』と」
「ええ。ですから『娘』として帰るつもりはありません。公爵家の管理官として『資産回収』に行くだけです」
イロハは朝食のトーストを齧りながら、リストを提示した。
「私の部屋には、私が開発した計算機の試作品、愛用の高反発枕、そして八歳の頃から貯め込んだ『裏金(へそくり)』があります。これらを回収せずに放置することは、重大な資産損失(ロス)です」
「……なるほど。強盗みたいな理屈だな」
「正当な所有権の行使です。それに、これからの業務に必要な資料もあそこにあります。いわばこれは『出張』です。もちろん、移動経費は請求します」
「くくっ、いいだろう。私も同行する」
「え? 閣下がですか? 暇なのですか?」
「お前がまた何か面白い騒動を起こすのを見届けるためだ。……いや、護衛だと思っておけ」
こうして、異色のカップルはローゼン侯爵家へと向かった。
***
ローゼン侯爵家。
門番が、王家の紋章が入った公爵家の馬車を見て慌てふためき、門を開けた。
玄関ホールには、知らせを聞いたイロハの父、ローゼン侯爵とその妻(継母)、そして腹違いの妹が青ざめた顔で待ち受けていた。
「よ、ようこそお越しくださいました、シルヴィス公爵閣下……! まさかこのようなむさ苦しい場所に……」
侯爵が脂汗を流しながら揉み手をする。
しかし、シルヴィスの背後からイロハがひょっこりと顔を出すと、侯爵の顔色が赤黒く変わった。
「イ、イロハ!? 貴様、どの面下げて戻ってきた! 絶縁だと言ったはずだぞ!」
「お久しぶりです、お父様。あ、今は侯爵様とお呼びすべきですね。本日はご挨拶に伺ったわけではありませんので、お気遣いなく」
イロハは父の怒声をスルーし、使用人たちに指示を出し始めた。
「そこの二人、私の部屋に行ってタンスの中身をすべて運び出しなさい。あと、机の引き出しの二段目にある隠し金庫もね。暗証番号は『4649(ヨロシク)』よ」
「なっ……勝手な真似を! 貴様の荷物などすべて処分するつもりだったのだ!」
侯爵が叫ぶ。
「この恥知らずめ! カイル殿下に婚約破棄されただけでなく、法外な慰謝料を請求したそうだな! おかげで我が家は王家の笑い者だ! 貴様のような守銭奴は、我が家にはいらん!」
「あら、奇遇ですね。私もあなたのような『経営センスのない家長』の下にはいたくありません」
イロハは冷ややかな目で見返した。
「領地経営の赤字を、私の発明した魔道具の特許料で埋め合わせていたのはどこの誰でしたっけ? 私が去れば、この家は半年で破産ですよ?」
「な、なにを……!」
「まあ、それももう関係ありませんが。……おい、そこ! その壺は置いていきなさい。それは私の所有物ではありません。価値のないガラクタです」
イロハは荷物を運ぶ使用人に的確に指示を飛ばす。
継母がキーキーと叫んだ。
「なんですって! それはお父様が百面金貨で買った高価な壺よ!」
「鑑定額は精々、銅貨三枚です。贋作ですよ」
「う、嘘よ!」
「底を見てみなさい。『MADE IN ウラロジ』と書いてあります」
継母が壺をひっくり返すと、確かに下手な文字で刻印があった。継母は白目を剥いて倒れそうになる。
「さあ、運び出しは完了ですね」
イロハはあっという間に荷物を馬車に積み込ませた。
最後に、呆然とする侯爵に向き直る。
「では、これにて失礼します。これまで育てていただいた養育費については、私が稼いだ特許料と相殺ということで手を打ちましょう。計算上、こちらの黒字ですが、お釣りは結構です」
「ま、待て! イロハ! 本当に行くのか!?」
侯爵が焦り始めた。
イロハの言葉通り、彼女の稼ぎがなくなれば家計が火の車になることに、今さら気づいたのだ。
「イロハ、待ちなさい! 何も絶縁とまで言わなくても……頭を冷やして謝罪すれば、また置いてやらんことも……」
「お断りします」
イロハは即答した。
「私は今、シルヴィス公爵閣下と『終身雇用契約(仮)』を結んでおります。待遇はホワイト、福利厚生は充実、上司(閣下)は顔が良い。こちらのブラック企業(実家)に戻るメリットが1ミクロンもありません」
「ブ、ブラック企業……!? 親に向かってなんてことを!」
「事実陳列罪で訴えますか? では」
イロハはスカートを翻し、馬車へと乗り込んだ。
侯爵が追いすがろうとするが、その前に漆黒の影が立ちはだかった。
シルヴィスだ。
彼は一言も発していなかったが、ただそこにいるだけで、周囲の空気を凍りつかせるほどの威圧感を放っていた。
「……ろ、ローゼン侯爵」
シルヴィスが低い声で囁く。
「ひっ……は、はい!」
「イロハは私が貰い受ける。今後、彼女に不当な接触を図ったり、金の無心をした場合……」
シルヴィスはニタリと笑った。
「その時は、この屋敷ごと『買い取って』、更地にしてやるから覚悟しておけ」
「ひぃぃぃッ!」
侯爵は腰を抜かしてへたり込んだ。
馬車の中で、イロハは窓の外も見ずに、回収した枕の弾力を確かめていた。
「ふぅ、これで今夜からは安眠できます。枕が変わると寝つきが悪くて生産性が落ちますから」
戻ってきたシルヴィスが、呆れたように笑う。
「実の親をあそこまで叩きのめして、気にするのは枕のことか?」
「睡眠は投資の基本です。……それに、閣下」
イロハはふと、計算機を置いた。
「先ほどの『更地にしてやる』という発言。威圧効果としては満点でしたが、不動産投資としてはリスクが高いですね。あの土地は地盤が緩いので、更地にしても買い手がつきにくいですよ」
「……そこまで考えての発言ではない」
「なら、今後は私が監修します。脅し文句のコンサルティングも、私の業務範囲に含めておきましょう」
「ふっ……。勝手にしろ」
馬車が走り出す。
遠ざかる実家を見送ることもなく、イロハは「さて、回収した資金をどう運用するか」と新たな計算を始めていた。
彼女にとって、過去(実家)はすでに償却済みの資産であり、興味の対象は未来(利益)にしかなかったのだ。
公爵邸の食堂で、シルヴィスは優雅にコーヒーを飲んでいた。
そこへ、イロハがドカドカと足音を立てて現れた。
「閣下、おはようございます。至急、馬車を出してください」
「……挨拶もなしに要求か。まあいい、どこへ行く?」
「実家(ローゼン侯爵家)です」
シルヴィスはカップを置いた。
「昨日、絶縁状が届いただろう? 『二度と敷居を跨ぐな』と」
「ええ。ですから『娘』として帰るつもりはありません。公爵家の管理官として『資産回収』に行くだけです」
イロハは朝食のトーストを齧りながら、リストを提示した。
「私の部屋には、私が開発した計算機の試作品、愛用の高反発枕、そして八歳の頃から貯め込んだ『裏金(へそくり)』があります。これらを回収せずに放置することは、重大な資産損失(ロス)です」
「……なるほど。強盗みたいな理屈だな」
「正当な所有権の行使です。それに、これからの業務に必要な資料もあそこにあります。いわばこれは『出張』です。もちろん、移動経費は請求します」
「くくっ、いいだろう。私も同行する」
「え? 閣下がですか? 暇なのですか?」
「お前がまた何か面白い騒動を起こすのを見届けるためだ。……いや、護衛だと思っておけ」
こうして、異色のカップルはローゼン侯爵家へと向かった。
***
ローゼン侯爵家。
門番が、王家の紋章が入った公爵家の馬車を見て慌てふためき、門を開けた。
玄関ホールには、知らせを聞いたイロハの父、ローゼン侯爵とその妻(継母)、そして腹違いの妹が青ざめた顔で待ち受けていた。
「よ、ようこそお越しくださいました、シルヴィス公爵閣下……! まさかこのようなむさ苦しい場所に……」
侯爵が脂汗を流しながら揉み手をする。
しかし、シルヴィスの背後からイロハがひょっこりと顔を出すと、侯爵の顔色が赤黒く変わった。
「イ、イロハ!? 貴様、どの面下げて戻ってきた! 絶縁だと言ったはずだぞ!」
「お久しぶりです、お父様。あ、今は侯爵様とお呼びすべきですね。本日はご挨拶に伺ったわけではありませんので、お気遣いなく」
イロハは父の怒声をスルーし、使用人たちに指示を出し始めた。
「そこの二人、私の部屋に行ってタンスの中身をすべて運び出しなさい。あと、机の引き出しの二段目にある隠し金庫もね。暗証番号は『4649(ヨロシク)』よ」
「なっ……勝手な真似を! 貴様の荷物などすべて処分するつもりだったのだ!」
侯爵が叫ぶ。
「この恥知らずめ! カイル殿下に婚約破棄されただけでなく、法外な慰謝料を請求したそうだな! おかげで我が家は王家の笑い者だ! 貴様のような守銭奴は、我が家にはいらん!」
「あら、奇遇ですね。私もあなたのような『経営センスのない家長』の下にはいたくありません」
イロハは冷ややかな目で見返した。
「領地経営の赤字を、私の発明した魔道具の特許料で埋め合わせていたのはどこの誰でしたっけ? 私が去れば、この家は半年で破産ですよ?」
「な、なにを……!」
「まあ、それももう関係ありませんが。……おい、そこ! その壺は置いていきなさい。それは私の所有物ではありません。価値のないガラクタです」
イロハは荷物を運ぶ使用人に的確に指示を飛ばす。
継母がキーキーと叫んだ。
「なんですって! それはお父様が百面金貨で買った高価な壺よ!」
「鑑定額は精々、銅貨三枚です。贋作ですよ」
「う、嘘よ!」
「底を見てみなさい。『MADE IN ウラロジ』と書いてあります」
継母が壺をひっくり返すと、確かに下手な文字で刻印があった。継母は白目を剥いて倒れそうになる。
「さあ、運び出しは完了ですね」
イロハはあっという間に荷物を馬車に積み込ませた。
最後に、呆然とする侯爵に向き直る。
「では、これにて失礼します。これまで育てていただいた養育費については、私が稼いだ特許料と相殺ということで手を打ちましょう。計算上、こちらの黒字ですが、お釣りは結構です」
「ま、待て! イロハ! 本当に行くのか!?」
侯爵が焦り始めた。
イロハの言葉通り、彼女の稼ぎがなくなれば家計が火の車になることに、今さら気づいたのだ。
「イロハ、待ちなさい! 何も絶縁とまで言わなくても……頭を冷やして謝罪すれば、また置いてやらんことも……」
「お断りします」
イロハは即答した。
「私は今、シルヴィス公爵閣下と『終身雇用契約(仮)』を結んでおります。待遇はホワイト、福利厚生は充実、上司(閣下)は顔が良い。こちらのブラック企業(実家)に戻るメリットが1ミクロンもありません」
「ブ、ブラック企業……!? 親に向かってなんてことを!」
「事実陳列罪で訴えますか? では」
イロハはスカートを翻し、馬車へと乗り込んだ。
侯爵が追いすがろうとするが、その前に漆黒の影が立ちはだかった。
シルヴィスだ。
彼は一言も発していなかったが、ただそこにいるだけで、周囲の空気を凍りつかせるほどの威圧感を放っていた。
「……ろ、ローゼン侯爵」
シルヴィスが低い声で囁く。
「ひっ……は、はい!」
「イロハは私が貰い受ける。今後、彼女に不当な接触を図ったり、金の無心をした場合……」
シルヴィスはニタリと笑った。
「その時は、この屋敷ごと『買い取って』、更地にしてやるから覚悟しておけ」
「ひぃぃぃッ!」
侯爵は腰を抜かしてへたり込んだ。
馬車の中で、イロハは窓の外も見ずに、回収した枕の弾力を確かめていた。
「ふぅ、これで今夜からは安眠できます。枕が変わると寝つきが悪くて生産性が落ちますから」
戻ってきたシルヴィスが、呆れたように笑う。
「実の親をあそこまで叩きのめして、気にするのは枕のことか?」
「睡眠は投資の基本です。……それに、閣下」
イロハはふと、計算機を置いた。
「先ほどの『更地にしてやる』という発言。威圧効果としては満点でしたが、不動産投資としてはリスクが高いですね。あの土地は地盤が緩いので、更地にしても買い手がつきにくいですよ」
「……そこまで考えての発言ではない」
「なら、今後は私が監修します。脅し文句のコンサルティングも、私の業務範囲に含めておきましょう」
「ふっ……。勝手にしろ」
馬車が走り出す。
遠ざかる実家を見送ることもなく、イロハは「さて、回収した資金をどう運用するか」と新たな計算を始めていた。
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