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「……重いです」
午後。公爵邸の応接間。
王都でも指折りのオートクチュール・メゾンから派遣されたお針子たちが、嵐のように去った後。
鏡の前に立つイロハは、心底うんざりした顔で呟いた。
「物理的に重いです。このドレス、総重量が5キロを超えています。これでは移動速度が低下し、業務効率が著しく悪化します」
彼女が身に纏っているのは、シルヴィスが選んだミッドナイトブルーのイブニングドレスだ。
最高級のシルクを惜しみなく使い、銀糸で繊細な刺繍が施されている。
その美しさは、彼女の艶やかな黒髪と白い肌を際立たせ、どこか神秘的な気品すら漂わせていた。
「文句を言うな。よく似合っている」
ソファに座り、足を組んで眺めていたシルヴィスが、満足げに頷く。
「お前は素材が良いのだから、磨けば光る。……いや、光りすぎだな。これでは他の男どもの目が釘付けになる」
「他人の視線などどうでもいいです。問題は、このコルセットの締め付けによる酸素供給量の低下です。脳への酸素が不足すると、計算速度が落ちます」
イロハは胸元をグイッと引っ張ろうとするが、ビクともしない。
「閣下。返品しましょう。あるいは袖を切り落として半袖に改造すれば、多少はマシに……」
「やめろ。鋏を出そうとするな」
シルヴィスが立ち上がり、イロハの前に歩み寄る。
彼はイロハの手を取り、強引に動きを封じた。
「イロハ。単刀直入に言おう」
「なんでしょう? ドレス代の分割払い交渉なら受け付けませんが」
「金の話ではない」
シルヴィスは真剣な眼差しで、イロハを真っ直ぐに見つめた。
その瞳の奥にある熱に、さすがのイロハも少しだけたじろぐ。
「お前の働きぶりを見て、確信した。お前は有能だ。この屋敷にはお前が必要だ」
「評価ありがとうございます。でしたら、来月の基本給アップをご検討ください」
「そうではない。……私は、お前を『妻』にしたいと言っている」
「……は?」
イロハの思考が一瞬、停止した。
室内に沈黙が流れる。
時計の秒針の音だけがチクタクと響く。
「……プロポーズ、ですか?」
「そうだ。公爵夫人になれば、この屋敷の全権はお前のものだ。資産も自由に使える。悪い話ではないだろう?」
シルヴィスは自信満々だった。
国一番の権力者からの求婚。断る令嬢など存在しない。
ましてや、彼女は実家を勘当された身。これ以上の「就職先」はないはずだ。
しかし。
イロハは眉間に深い皺を刻み、なにやらブツブツと呟き始めた。
「……公爵夫人の業務定義……社交界での付き合い……お茶会の主催……慈善事業への奉仕……夫の精神的ケア……跡継ぎの出産および教育……」
そして、カッと目を見開いた。
「お断りします」
「……なに?」
シルヴィスの顔から余裕が消えた。
「断る? 私が誰か分かって言っているのか?」
「分かっています。シルヴィス・グランディエ公爵閣下。超優良物件です。ですが、条件が悪すぎます」
「条件だと?」
「はい。公爵夫人という地位は、一見華やかに見えますが、実態は『無給の重労働』です」
イロハは指を折りながら解説を始めた。
「まず、社交。あの退屈で生産性のないお茶会に毎週出席し、愛想笑いを振りまく義務が発生します。これは精神的苦痛(ストレス)です」
「……」
「次に、家政。屋敷の管理権限を持つといっても、それは『責任』を負わされるだけで、給与は発生しません。夫人は『家族』扱いなので労働基準法の適用外。つまり、三百六十五日二十四時間、タダ働きさせられるということです」
「タダ働き……」
「極めつけは、『愛』という名の不確定要素です。もし閣下の心変わりで愛が冷めれば、私はまた『婚約破棄』され、路頭に迷うリスクがあります。カイル殿下の件で学びました。愛ほど信用のならない担保はありません」
イロハはキッパリと言い放った。
「よって、プロポーズは棄却します。私は『雇用契約』のほうが安心です。給与明細こそが私の信頼の証ですから」
「……は、ははは!」
シルヴィスが天を仰いで笑い出した。
今度は腹を抱えて、涙が出るほど笑っている。
「くくっ……そう来たか! 公爵夫人を『ブラック企業』呼ばわりして拒否するとは!」
「笑い事ではありません。キャリアプランの問題です」
「ああ、すまない。……だが、困ったな。私はどうしてもお前を手元に置いておきたい。単なる管理官としてではなく、な」
シルヴィスは笑いを収めると、再びイロハに迫った。
今度は、その顔に「狩人」の笑みが浮かんでいる。
彼はイロハの腰に手を回し、自分の方へ引き寄せた。
「イロハ。お前が『妻』という契約形態を嫌うなら、別の契約を結ぼう」
「……別の?」
「『愛人』契約だ」
「はい?」
イロハが素っ頓狂な声を上げる。
「待ってください。愛人こそ、法的保護のない不安定な……」
「条件を聞け。基本給は現在の二倍。公爵夫人の義務である社交や慈善事業は免除。ただし、私の『夜の相手』と『精神的ケア』、そして屋敷の管理を業務内容とする」
シルヴィスはイロハの耳元で囁いた。
「もちろん、業務時間外の拘束には『特別手当』を出す。深夜、休日、すべて割増だ。……どうだ?」
「……!」
イロハの脳内で、電卓が高速回転を始めた。
(基本給二倍……! さらに嫌な社交は免除……! 夜の相手というのは未知の業務ですが、残業代が出るなら……時給換算で……いや、待って、公爵家の資産規模から算出される特別手当のレートは……)
チーン!
彼女の瞳が「¥」マークに変わった。
「乗りました」
「早いな」
「その条件なら、リスクとリターンのバランスが取れています。愛人(ビジネスパートナー)として契約締結です」
イロハは右手を差し出した。
「では、握手を。契約書は明日までに作成しておきます」
「ああ。よろしく頼む、私の可愛い『共犯者』」
シルヴィスはその手を握り返し――そのままグイと引き寄せ、イロハの唇を奪った。
「んむっ!?」
不意打ちのキス。
軽く触れるだけでなく、所有権を主張するような、深く、濃厚な口づけ。
イロハの頭の中で、計算機がエラー音を上げてショートした。
(――ッ!? け、契約書には『キス』の単価がまだ記載されて……いや、これは手付金扱い……!?)
「ぷはっ……」
唇が離れると、シルヴィスは悪戯っぽく微笑んだ。
「契約成立だ。……ちなみに、今のキスはサービス(無料)にしておいてやる」
「……次は請求しますからね」
イロハは顔を真っ赤にしながら、それでも気丈に言い返した。
その反応を見て、シルヴィスは確信した。
この奇妙で計算高い女を、心底愛してしまったのだと。
そして、いつか必ず、金ではなく「愛」で彼女を陥落させてみせると。
こうして、悪役令嬢イロハと冷徹公爵シルヴィスの、奇妙な同居生活――もとい、壮大な「公爵家再建プロジェクト」が幕を開けたのである。
窓の外では、何も知らないカイル王子からの「戻ってきてくれ」という手紙を持った使者が、門前払いを食らって立ち尽くしていた。
午後。公爵邸の応接間。
王都でも指折りのオートクチュール・メゾンから派遣されたお針子たちが、嵐のように去った後。
鏡の前に立つイロハは、心底うんざりした顔で呟いた。
「物理的に重いです。このドレス、総重量が5キロを超えています。これでは移動速度が低下し、業務効率が著しく悪化します」
彼女が身に纏っているのは、シルヴィスが選んだミッドナイトブルーのイブニングドレスだ。
最高級のシルクを惜しみなく使い、銀糸で繊細な刺繍が施されている。
その美しさは、彼女の艶やかな黒髪と白い肌を際立たせ、どこか神秘的な気品すら漂わせていた。
「文句を言うな。よく似合っている」
ソファに座り、足を組んで眺めていたシルヴィスが、満足げに頷く。
「お前は素材が良いのだから、磨けば光る。……いや、光りすぎだな。これでは他の男どもの目が釘付けになる」
「他人の視線などどうでもいいです。問題は、このコルセットの締め付けによる酸素供給量の低下です。脳への酸素が不足すると、計算速度が落ちます」
イロハは胸元をグイッと引っ張ろうとするが、ビクともしない。
「閣下。返品しましょう。あるいは袖を切り落として半袖に改造すれば、多少はマシに……」
「やめろ。鋏を出そうとするな」
シルヴィスが立ち上がり、イロハの前に歩み寄る。
彼はイロハの手を取り、強引に動きを封じた。
「イロハ。単刀直入に言おう」
「なんでしょう? ドレス代の分割払い交渉なら受け付けませんが」
「金の話ではない」
シルヴィスは真剣な眼差しで、イロハを真っ直ぐに見つめた。
その瞳の奥にある熱に、さすがのイロハも少しだけたじろぐ。
「お前の働きぶりを見て、確信した。お前は有能だ。この屋敷にはお前が必要だ」
「評価ありがとうございます。でしたら、来月の基本給アップをご検討ください」
「そうではない。……私は、お前を『妻』にしたいと言っている」
「……は?」
イロハの思考が一瞬、停止した。
室内に沈黙が流れる。
時計の秒針の音だけがチクタクと響く。
「……プロポーズ、ですか?」
「そうだ。公爵夫人になれば、この屋敷の全権はお前のものだ。資産も自由に使える。悪い話ではないだろう?」
シルヴィスは自信満々だった。
国一番の権力者からの求婚。断る令嬢など存在しない。
ましてや、彼女は実家を勘当された身。これ以上の「就職先」はないはずだ。
しかし。
イロハは眉間に深い皺を刻み、なにやらブツブツと呟き始めた。
「……公爵夫人の業務定義……社交界での付き合い……お茶会の主催……慈善事業への奉仕……夫の精神的ケア……跡継ぎの出産および教育……」
そして、カッと目を見開いた。
「お断りします」
「……なに?」
シルヴィスの顔から余裕が消えた。
「断る? 私が誰か分かって言っているのか?」
「分かっています。シルヴィス・グランディエ公爵閣下。超優良物件です。ですが、条件が悪すぎます」
「条件だと?」
「はい。公爵夫人という地位は、一見華やかに見えますが、実態は『無給の重労働』です」
イロハは指を折りながら解説を始めた。
「まず、社交。あの退屈で生産性のないお茶会に毎週出席し、愛想笑いを振りまく義務が発生します。これは精神的苦痛(ストレス)です」
「……」
「次に、家政。屋敷の管理権限を持つといっても、それは『責任』を負わされるだけで、給与は発生しません。夫人は『家族』扱いなので労働基準法の適用外。つまり、三百六十五日二十四時間、タダ働きさせられるということです」
「タダ働き……」
「極めつけは、『愛』という名の不確定要素です。もし閣下の心変わりで愛が冷めれば、私はまた『婚約破棄』され、路頭に迷うリスクがあります。カイル殿下の件で学びました。愛ほど信用のならない担保はありません」
イロハはキッパリと言い放った。
「よって、プロポーズは棄却します。私は『雇用契約』のほうが安心です。給与明細こそが私の信頼の証ですから」
「……は、ははは!」
シルヴィスが天を仰いで笑い出した。
今度は腹を抱えて、涙が出るほど笑っている。
「くくっ……そう来たか! 公爵夫人を『ブラック企業』呼ばわりして拒否するとは!」
「笑い事ではありません。キャリアプランの問題です」
「ああ、すまない。……だが、困ったな。私はどうしてもお前を手元に置いておきたい。単なる管理官としてではなく、な」
シルヴィスは笑いを収めると、再びイロハに迫った。
今度は、その顔に「狩人」の笑みが浮かんでいる。
彼はイロハの腰に手を回し、自分の方へ引き寄せた。
「イロハ。お前が『妻』という契約形態を嫌うなら、別の契約を結ぼう」
「……別の?」
「『愛人』契約だ」
「はい?」
イロハが素っ頓狂な声を上げる。
「待ってください。愛人こそ、法的保護のない不安定な……」
「条件を聞け。基本給は現在の二倍。公爵夫人の義務である社交や慈善事業は免除。ただし、私の『夜の相手』と『精神的ケア』、そして屋敷の管理を業務内容とする」
シルヴィスはイロハの耳元で囁いた。
「もちろん、業務時間外の拘束には『特別手当』を出す。深夜、休日、すべて割増だ。……どうだ?」
「……!」
イロハの脳内で、電卓が高速回転を始めた。
(基本給二倍……! さらに嫌な社交は免除……! 夜の相手というのは未知の業務ですが、残業代が出るなら……時給換算で……いや、待って、公爵家の資産規模から算出される特別手当のレートは……)
チーン!
彼女の瞳が「¥」マークに変わった。
「乗りました」
「早いな」
「その条件なら、リスクとリターンのバランスが取れています。愛人(ビジネスパートナー)として契約締結です」
イロハは右手を差し出した。
「では、握手を。契約書は明日までに作成しておきます」
「ああ。よろしく頼む、私の可愛い『共犯者』」
シルヴィスはその手を握り返し――そのままグイと引き寄せ、イロハの唇を奪った。
「んむっ!?」
不意打ちのキス。
軽く触れるだけでなく、所有権を主張するような、深く、濃厚な口づけ。
イロハの頭の中で、計算機がエラー音を上げてショートした。
(――ッ!? け、契約書には『キス』の単価がまだ記載されて……いや、これは手付金扱い……!?)
「ぷはっ……」
唇が離れると、シルヴィスは悪戯っぽく微笑んだ。
「契約成立だ。……ちなみに、今のキスはサービス(無料)にしておいてやる」
「……次は請求しますからね」
イロハは顔を真っ赤にしながら、それでも気丈に言い返した。
その反応を見て、シルヴィスは確信した。
この奇妙で計算高い女を、心底愛してしまったのだと。
そして、いつか必ず、金ではなく「愛」で彼女を陥落させてみせると。
こうして、悪役令嬢イロハと冷徹公爵シルヴィスの、奇妙な同居生活――もとい、壮大な「公爵家再建プロジェクト」が幕を開けたのである。
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