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「……閣下。暖炉の薪が切れています」
早朝の公爵邸、執務室。
イロハは分厚い帳簿と格闘しながら、寒さに身を震わせた。
「昨日の夜、私が発注しておいた薪が届いていないようです。物流担当者の怠慢ですね。後で始末書を書かせます」
「そうか。寒いならこっちに来い」
ソファで優雅に書類を読んでいたシルヴィスが、自分の隣をポンポンと叩く。
「私の体温を使えばいい。暖房費の節約になるぞ?」
「……一理ありますが、閣下の体温を利用するために移動する時間と、その後の業務効率低下(ドキドキして集中できないリスク)を考慮すると、マイナスです」
イロハは即答で却下し、再びペンを走らせる。
そこへ、ノックの音が響いた。
「失礼します、閣下、イロハ様」
入ってきたのは、先日まで死んだ目をしていた執事のセバスだ。
今の彼は背筋が伸び、肌艶も良く、生き生きとしている。イロハの「業務改善」と「適正な残業代支給」のおかげだ。
「どうしました?」
「王城より使者が参っております。カイル王子殿下からの親書とのことです」
「親書?」
シルヴィスが眉をひそめる。
「あのバカ王子か。どうせ碌な内容ではないだろう。追い返せ」
「いえ、お待ちください」
イロハが手を挙げた。
「親書ということは、王室公認の正式な連絡手段です。受け取りを拒否すれば、外交儀礼上の問題(リスク)になります。中身だけ確認して、ゴミ箱に捨てるのが正解です」
「……お前、元婚約者に対して辛辣すぎないか?」
「債務不履行者(ブラックリスト入り)に対して優しくする理由がありません。セバス、持ってきなさい」
イロハは執事から豪奢な封筒を受け取った。
封蝋には王家の紋章。
紙は最高級の羊皮紙。
そして、そこから漂うほのかなバラの香り。
「無駄に高コストですね。この香水だけで、平民の食費一ヶ月分です」
イロハは容赦なくペーパーナイフで開封し、中身を取り出した。
そこには、涙の跡で滲んだような文字がびっしりと書き連ねられていた。
『愛しのイロハへ』
「冒頭から事実誤認があります。次」
イロハは読み飛ばす。
『君がいなくなってから、王城の空気はまるで止まってしまったようだ。いや、実際に止まっている。書類が』
「……」
『君がいつも片付けてくれていた、あの山のような書類たち。あれは一体どういう魔法で消えていたんだ? 僕がやろうとしたら、一日で山が二倍になったんだ』
『財務大臣からは「予算案はどうなっていますか」と怒られ、外務大臣からは「隣国への返信が遅れています」と詰められ、父上(国王)からは「最近、働きが悪いぞ」と叱責された』
『マリアは可愛いが、彼女に書類整理を頼んだら、インク壺をひっくり返して重要文化財の古文書を黒く染めてしまった。僕は泣きながらそれを隠蔽したよ』
『イロハ。僕は気づいたんだ。君が必要だ。君こそが僕の真のパートナーだったのだと』
『愛している。だから戻ってきてくれ。今なら、側室の地位を用意してもいい。正妻はマリアだが、君には「筆頭公務補佐官」という名誉ある称号を与えよう』
『追伸:至急、王城の東塔にある未決裁書類の山をなんとかしてくれ。明日の朝までに』
読み終わったイロハは、無表情のまま手紙を折りたたんだ。
「……」
「どうした? 感動して言葉も出ないか?」
シルヴィスがニヤニヤしながら尋ねる。
「感動? いいえ」
イロハは立ち上がり、暖炉の前へ歩み寄った。
そして、マッチで火をつけると、その高級な羊皮紙に火を放ち、暖炉の中に放り込んだ。
ボワッ!
よく乾燥した紙は、勢いよく燃え上がった。
「燃料としての品質は悪くないですね。おかげで部屋が少し暖まりました」
「……燃やしたな」
「はい。内容があまりに『無価値』でしたので。読むだけで視神経と脳細胞の無駄遣いでした」
イロハはパパン、と手を払う。
「自分たちの無能さを棚に上げて、私を『都合の良い労働力』として呼び戻そうとする。しかも『側室』という非正規雇用で。呆れて計算機を叩く気にもなれません」
「くくっ、全くだな」
シルヴィスも愉快そうに笑う。
「だが、王城が混乱しているのは事実らしいな。書類仕事が回っていないと」
「でしょうね。カイル殿下の事務処理能力は、チンパンジーと良い勝負でしたから。私がいない今、王国の行政機能が麻痺するのは時間の問題です」
イロハは暖炉の火を眺めながら、ふと何かを思いついたように目を細めた。
「……待ってください」
「ん?」
「行政機能が麻痺する……ということは、王家の判断力が低下しているということ」
イロハの脳内で、チャリンという音がした。
「閣下。これはビジネスチャンス(好機)です」
「ほう?」
「王城が混乱している今なら、通常は通らないような『有利な条件での取引』が可能になります。たとえば、公爵領への関税撤廃、あるいは新規事業の独占認可……」
イロハは燃え尽きた手紙の灰を見つめ、ニヤリと笑った。
「カイル殿下のSOSは無視しますが、この混乱を利用して、国からふんだくれるだけふんだくりましょう。……セバス! 至急、馬車の用意を!」
「お、王城へ行かれるのですか?」
「いいえ。王城に出入りしている『御用商人』たちを呼びつけます。王城のパニックに乗じて、物流価格を操作しますわよ」
「……お前、本当に悪役令嬢だな」
シルヴィスは呆れつつも、その逞しい背中を愛おしそうに見つめていた。
「だが、そういうところも嫌いではない」
こうして、カイル王子の悲痛な叫びは、イロハによって暖炉の燃料兼、新たな金儲けのネタとして消費されたのであった。
一方その頃、王城のカイル王子。
「くしゅんっ!」
「どうされました、カイル様? 風邪ですか?」
「いや……なんだか急に寒気が……。イロハからの返事はまだかな……」
カイルは積み上がった書類の山に埋もれながら、虚ろな目で窓の外を見つめ続けていた。
早朝の公爵邸、執務室。
イロハは分厚い帳簿と格闘しながら、寒さに身を震わせた。
「昨日の夜、私が発注しておいた薪が届いていないようです。物流担当者の怠慢ですね。後で始末書を書かせます」
「そうか。寒いならこっちに来い」
ソファで優雅に書類を読んでいたシルヴィスが、自分の隣をポンポンと叩く。
「私の体温を使えばいい。暖房費の節約になるぞ?」
「……一理ありますが、閣下の体温を利用するために移動する時間と、その後の業務効率低下(ドキドキして集中できないリスク)を考慮すると、マイナスです」
イロハは即答で却下し、再びペンを走らせる。
そこへ、ノックの音が響いた。
「失礼します、閣下、イロハ様」
入ってきたのは、先日まで死んだ目をしていた執事のセバスだ。
今の彼は背筋が伸び、肌艶も良く、生き生きとしている。イロハの「業務改善」と「適正な残業代支給」のおかげだ。
「どうしました?」
「王城より使者が参っております。カイル王子殿下からの親書とのことです」
「親書?」
シルヴィスが眉をひそめる。
「あのバカ王子か。どうせ碌な内容ではないだろう。追い返せ」
「いえ、お待ちください」
イロハが手を挙げた。
「親書ということは、王室公認の正式な連絡手段です。受け取りを拒否すれば、外交儀礼上の問題(リスク)になります。中身だけ確認して、ゴミ箱に捨てるのが正解です」
「……お前、元婚約者に対して辛辣すぎないか?」
「債務不履行者(ブラックリスト入り)に対して優しくする理由がありません。セバス、持ってきなさい」
イロハは執事から豪奢な封筒を受け取った。
封蝋には王家の紋章。
紙は最高級の羊皮紙。
そして、そこから漂うほのかなバラの香り。
「無駄に高コストですね。この香水だけで、平民の食費一ヶ月分です」
イロハは容赦なくペーパーナイフで開封し、中身を取り出した。
そこには、涙の跡で滲んだような文字がびっしりと書き連ねられていた。
『愛しのイロハへ』
「冒頭から事実誤認があります。次」
イロハは読み飛ばす。
『君がいなくなってから、王城の空気はまるで止まってしまったようだ。いや、実際に止まっている。書類が』
「……」
『君がいつも片付けてくれていた、あの山のような書類たち。あれは一体どういう魔法で消えていたんだ? 僕がやろうとしたら、一日で山が二倍になったんだ』
『財務大臣からは「予算案はどうなっていますか」と怒られ、外務大臣からは「隣国への返信が遅れています」と詰められ、父上(国王)からは「最近、働きが悪いぞ」と叱責された』
『マリアは可愛いが、彼女に書類整理を頼んだら、インク壺をひっくり返して重要文化財の古文書を黒く染めてしまった。僕は泣きながらそれを隠蔽したよ』
『イロハ。僕は気づいたんだ。君が必要だ。君こそが僕の真のパートナーだったのだと』
『愛している。だから戻ってきてくれ。今なら、側室の地位を用意してもいい。正妻はマリアだが、君には「筆頭公務補佐官」という名誉ある称号を与えよう』
『追伸:至急、王城の東塔にある未決裁書類の山をなんとかしてくれ。明日の朝までに』
読み終わったイロハは、無表情のまま手紙を折りたたんだ。
「……」
「どうした? 感動して言葉も出ないか?」
シルヴィスがニヤニヤしながら尋ねる。
「感動? いいえ」
イロハは立ち上がり、暖炉の前へ歩み寄った。
そして、マッチで火をつけると、その高級な羊皮紙に火を放ち、暖炉の中に放り込んだ。
ボワッ!
よく乾燥した紙は、勢いよく燃え上がった。
「燃料としての品質は悪くないですね。おかげで部屋が少し暖まりました」
「……燃やしたな」
「はい。内容があまりに『無価値』でしたので。読むだけで視神経と脳細胞の無駄遣いでした」
イロハはパパン、と手を払う。
「自分たちの無能さを棚に上げて、私を『都合の良い労働力』として呼び戻そうとする。しかも『側室』という非正規雇用で。呆れて計算機を叩く気にもなれません」
「くくっ、全くだな」
シルヴィスも愉快そうに笑う。
「だが、王城が混乱しているのは事実らしいな。書類仕事が回っていないと」
「でしょうね。カイル殿下の事務処理能力は、チンパンジーと良い勝負でしたから。私がいない今、王国の行政機能が麻痺するのは時間の問題です」
イロハは暖炉の火を眺めながら、ふと何かを思いついたように目を細めた。
「……待ってください」
「ん?」
「行政機能が麻痺する……ということは、王家の判断力が低下しているということ」
イロハの脳内で、チャリンという音がした。
「閣下。これはビジネスチャンス(好機)です」
「ほう?」
「王城が混乱している今なら、通常は通らないような『有利な条件での取引』が可能になります。たとえば、公爵領への関税撤廃、あるいは新規事業の独占認可……」
イロハは燃え尽きた手紙の灰を見つめ、ニヤリと笑った。
「カイル殿下のSOSは無視しますが、この混乱を利用して、国からふんだくれるだけふんだくりましょう。……セバス! 至急、馬車の用意を!」
「お、王城へ行かれるのですか?」
「いいえ。王城に出入りしている『御用商人』たちを呼びつけます。王城のパニックに乗じて、物流価格を操作しますわよ」
「……お前、本当に悪役令嬢だな」
シルヴィスは呆れつつも、その逞しい背中を愛おしそうに見つめていた。
「だが、そういうところも嫌いではない」
こうして、カイル王子の悲痛な叫びは、イロハによって暖炉の燃料兼、新たな金儲けのネタとして消費されたのであった。
一方その頃、王城のカイル王子。
「くしゅんっ!」
「どうされました、カイル様? 風邪ですか?」
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