婚約破棄、清算しましょう。真実の愛は非効率!?

恋の箱庭

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「……臭いますね」

数日後。王城の長い廊下を歩きながら、イロハは鼻をひくつかせた。

今日はシルヴィスの定例報告に合わせて、王城の経理部へ「未払い慰謝料の督促」に来ていたのだ。

「焦げ臭いような、薬品臭いような……。閣下、王城では最近、化学実験でも始めたのですか?」

「まさか。ここは政治の中枢だぞ。……だが、確かに騒がしいな」

シルヴィスが視線を向けた先、廊下の角を曲がったあたりから、悲鳴と怒号が飛び交っていた。

「ああっ! やめてくださいマリア様! それ以上は!」

「でも、綺麗にしないと! お客様が来るのよ!」

「それがダメなんですぅぅぅ!」

ドタン! バシャン!

派手な水音と、何かが倒れる音。

イロハとシルヴィスが顔を見合わせ、角を曲がると――そこは地獄絵図だった。

王城でも最も格式高いとされる『薔薇の間』。

その入り口で、カイル王子が頭を抱えてうずくまり、その横でマリアが巨大な桶とブラシを持って立ち尽くしていた。

そして、彼女の足元には、見るも無残に色落ちし、真っ白になった「ボロ布」が横たわっていた。

「あ、イロハ様! それに公爵様!」

マリアが二人を見つけて、パァッと顔を輝かせた。

「聞いてください! ひどいんです! 私が一生懸命お掃除をしたのに、皆さんが怒るんです!」

「……」

イロハは無言で近づき、床のボロ布を観察した。

そして、懐からルーペを取り出して繊維を確認する。

「……これ、まさか『建国の聖女が織ったタペストリー』ですか?」

「はい! すごく茶色く汚れていたので、私が特製の漂白剤で真っ白に洗ってあげたんです! 綺麗になったでしょう?」

マリアが得意げに胸を張る。

イロハはルーペをしまい、カイル王子の方を向いた。

「カイル殿下。損害額の概算が出ました」

「……き、聞きたくない……」

カイルが涙目で首を振る。

「聞いてください。現実逃避は利息を生むだけです」

イロハは冷酷に告げた。

「このタペストリーは国宝です。古美術的価値だけでなく、建国の歴史を証明する史料でもあります。市場価格をつけるなら推定五十億ゴールド。ですが、歴史的損失(プライスレス)を含めれば、国家予算が吹き飛ぶレベルです」

「ご、五十億……ッ!?」

マリアがブラシを取り落とした。

「う、嘘ですよね? ただの古い布ですよ? カビ臭かったし……」

「その『カビ臭さ』が千年の歴史なのです。貴女がやったことは、美術館のモナ・リザを『暗いから』といって蛍光ペンで塗り直したのと同じです」

「そ、そんなぁ……私、ただ皆に喜んでもらおうと……」

マリアの目から涙がこぼれ落ちる。

カイルがよろよろと立ち上がった。

「イ、イロハ……助けてくれ……」

「お断りします」

「頼む! このままではマリアが処刑されてしまう! 父上(国王)が知ったら激怒するどころか、卒倒してそのまま崩御しかねない!」

カイルはイロハの足元に縋り付いた。

「君なら何とかできるだろう!? 昔、僕が誤って隣国の国旗を燃やした時も、君が一瞬で同じもの縫って偽造してくれたじゃないか!」

「人聞きの悪いことを言わないでください。『修復』です」

イロハはため息をついた。

「それに、今回は物が違います。千年の経年劣化を再現するのは不可能です」

「そこをなんとか! 金なら払う! いや、払えないけど、将来必ず!」

「……」

イロハはチラリとシルヴィスを見た。

シルヴィスは「面白くなってきた」という顔で、壁に寄りかかって成り行きを見守っている。

(……ふむ。タペストリーはすでに死亡(全損)。これを蘇生するのは不可能。ですが、この騒動を鎮火し、かつ利益を得る方法はありますね)

イロハの頭脳が高速回転する。

「……分かりました。コンサルティング契約を結びましょう」

「本当か!?」

「ただし、条件があります。今回の『解決策』の提示料として、王城の地下倉庫に眠る『ガラクタ』の自由処分権をいただきます」

「ガラクタ? そんなものでいいのか?」

「ええ。カイル殿下にとってはガラクタでも、私には資源ですので」

イロハはニヤリと笑うと、マリアに向き直った。

「マリア様。泣いている暇があったら動きなさい。貴女の特技は何でしたか?」

「えっ……と、お菓子作りと、お花を育てること……あと、刺繍が得意です……」

「刺繍?」

イロハが食いついた。

「どの程度の腕前ですか?」

「えと……お母様に教わって、レース編みとか……」

「見せなさい」

マリアがポケットからハンカチを取り出す。そこには、驚くほど精緻で可愛らしい小鳥の刺繍が施されていた。

「……ほう」

イロハは目を細めた。

「デザインセンスは壊滅的にメルヘンですが、技術(スキル)は一級品ですね。集中力が異常に高い」

「ほ、褒められているのでしょうか……?」

「活用可能です」

イロハはカイルに向き直った。

「殿下。このタペストリーの復元は諦めてください。代わりに『リニューアル』を宣言するのです」

「リニューアル?」

「はい。今年は建国千年祭。それを記念して、未来の王妃(予定)であるマリア様が、建国の精神を受け継ぎつつ、新たな時代への希望を込めて『新作タペストリー』を奉納する――というシナリオに変えます」

「な、なるほど……!?」

「マリア様の刺繍技術なら、一週間あればそれなりの大作が作れるでしょう。古いタペストリーは『劣化が進んだため、永久保存処理(という名の隠蔽)を施して宝物庫の奥へ封印』したことにします」

イロハは淡々と指示を出す。

「これなら、国宝を破壊した事実は隠せますし、マリア様の評価も『伝統を破壊した女』から『新時代を紡ぐ聖女』に上書きできます。一石二鳥です」

カイルの顔に色が戻っていく。

「す、すごい……! 完璧だ! ありがとうイロハ! やはり君は天才だ!」

「礼には及びません。ビジネスですので」

イロハは冷たく切り返すと、マリアに顔を近づけた。

「ただし、マリア様。これだけは覚えておきなさい」

「は、はい……!」

「貴女の『善意』は、時として悪意よりもタチが悪い『災害』になります」

イロハの瞳が、凍えるように冷たく光った。

「無知な善意は罪です。自分が何を触っているのか、その価値も理解せずに手を出すのはやめなさい。次からは、何かをする前に必ず『確認』をとること。分かりましたか?」

「は、はいぃぃぃ……ごめんなさいぃぃ……」

マリアが縮み上がる。

「よろしい。では、私は地下倉庫へ行って『報酬』を回収してきます。殿下、鍵を」

カイルから鍵を受け取ると、イロハはさっさとその場を後にした。

シルヴィスがその後を追いかけながら、楽しげに笑う。

「見事な采配だな。だが、本当にあのタペストリーの件、誤魔化せるのか?」

「誤魔化せませんよ」

イロハはあっさりと答えた。

「え?」

「専門家が見れば、すぐにバレます。ですが、国王陛下やカイル殿下が『これは新作だ』と言い張れば、周囲はそれに合わせざるを得ない。それが政治というものです」

「くくっ……お前、本当に性格が悪いな」

「褒め言葉として受け取っておきます。それより閣下、地下倉庫が楽しみです」

イロハは目を輝かせた。

「王家の倉庫には、過去数百年分の『使途不明品』が眠っています。中には、今の技術では再現不可能な古代魔道具(アーティファクト)のジャンク品もあるはず。あれを修理して転売すれば、五十億どころか百億の利益が出ますよ」

「……お前、最初からそれが狙いだったのか」

「当然です。タペストリー一枚の損害など、私の利益の前では誤差の範囲です」

イロハはカチャカチャと電卓を叩く。

「さあ、稼ぎますよ! 公爵家の赤字補填と、私のボーナスのために!」

その背中を見ながら、シルヴィスは確信した。

この国で一番の『災害』は、マリアでもカイルでもなく、この欲深き管理官(フィアンセ)かもしれない、と。
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