婚約破棄、清算しましょう。真実の愛は非効率!?

恋の箱庭

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「イロハ。話がある」

その日の夜、公爵邸のテラス。

月明かりの下、シルヴィスはかつてないほど真剣な面持ちでイロハを呼び出した。

夜風が心地よく吹き抜け、庭園の薔薇が甘い香りを放つ。

完璧なシチュエーションだ。

普通の令嬢なら、この雰囲気だけで頬を赤らめ、胸を高鳴らせるところだろう。

しかし、イロハの反応は違った。

「話とは何でしょう? 業務報告なら書面で提出済みですが。まさか、この時間から緊急の残業ですか? 深夜割増は35%増しになりますが」

彼女は警戒心丸出しで、懐の計算機に手をかけている。

「……金の話ではない」

シルヴィスは苦笑しながら、手すりにもたれかかった。

「お前が来てから、この屋敷は見違えるようになった。借金まみれだった財政は黒字に転じ、死んでいた使用人たちの目には光が宿った」

「当然です。無駄を省き、適正なリソース配分を行った結果(アウトプット)です」

「ああ、感謝している。だから今日は、その礼をしたいと思ってな」

シルヴィスは背後に隠していた手を出し、小さなベルベットの小箱を差し出した。

「受け取れ」

「……これは?」

「開けてみろ」

イロハは怪訝な顔で小箱を受け取り、パカリと蓋を開けた。

そこに入っていたのは――

月光を受けて眩いばかりに輝く、大粒のダイヤモンドのネックレスだった。

中心にある石は、鳩の卵ほどもある。

チェーン部分にも無数の小粒ダイヤが散りばめられ、その総カラット数は素人目にもとんでもない数値だと分かる代物だ。

「……」

イロハの目が点になった。

「どうだ? 王家の宝物庫にも引けを取らない逸品だ。『北の星屑』と呼ばれる、幻のダイヤだ」

シルヴィスは自信満々に微笑んだ。

「お前の瞳の色には似合わないかもしれないが、その冷徹な輝きはお前の魂に似ていると思ってな。……これを受け取って、俺の女になれ」

甘い言葉。

最高級の宝石。

国一番の権力者からの愛の告白。

これで落ちない女はいない。

シルヴィスは勝利を確信していた。

しかし。

「……ルーペ」

「はい?」

イロハは懐から愛用の鑑定用ルーペを取り出し、目に装着した。

そして、ネックレスを箱から取り出すと、ロマンチックのかけらもない姿勢で光源(月明かり)にかざし、舐め回すように観察を始めた。

「……カットはブリリアント。クラリティはFL(フローレス)クラス。カラーグレードはD。……ふむ、内包物(インクルージョン)なし。研磨状態も良好」

「おい、イロハ?」

「チェーンの留め具の強度が若干不安ですが、プラチナの純度は99%以上。……推定市場価格、八億ゴールド前後といったところですね」

イロハはルーペを外すと、真顔でシルヴィスに向き直った。

「閣下。鑑定終了しました。それで、これは『現物支給のボーナス』ということでよろしいですね?」

「……いや、ボーナスというか、贈り物だ。愛の証だ」

「愛の証……」

イロハは眉間に皺を寄せた。

「あの、閣下。大変申し上げにくいのですが」

「なんだ? 気に入らなかったか?」

「いえ、資産価値としては申し分ありません。ですが、実用性がゼロです」

イロハはネックレスを指先でぶら下げた。

「まず、重すぎます。推定三百グラム。これを首に下げてデスクワークをすれば、三十分で深刻な肩凝りを引き起こし、業務効率が40%低下します」

「……」

「次に、防犯コストです。こんな高価なものを身につけて街を歩けば、強盗ホイホイになるだけです。私の護衛費用が高騰します」

「俺が守ってやるから問題ない」

「さらに、流動性の問題です。宝石は換金する際に手数料がかかりますし、買い手を見つけるのに時間がかかります。急な資金需要に対応できません」

イロハはネックレスを箱に戻し、パタンと蓋を閉じて突き返した。

「よって、返品します。お気持ちだけ頂戴し、同額を『現金』で振り込んでください。キャッシュなら流動性100%、肩も凝りません」

「……」

シルヴィスの表情が固まった。

風が吹き抜け、気まずい沈黙が流れる。

「……お前、本気で言っているのか?」

「大真面目です。愛だの恋だのでお腹は膨れませんが、現金があればパン工場を買収できます」

イロハはキッパリと言い放つ。

「それに、こんな高価な石ころを首にぶら下げるより、その金で領地の治水工事を行ったほうが有益です。今の公爵領は水害リスクを抱えていますから」

「……は、ははは!」

シルヴィスが突然、噴き出した。

今度は堪えることなく、夜空に向かって高らかに笑い声を上げる。

「くくっ、はははは! 『石ころ』か! 国宝級のダイヤを石ころ呼ばわりして、治水工事を優先するとは!」

「事実です。ダイヤで堤防は作れません」

「違いない!」

シルヴィスは笑い涙を拭うと、ネックレスを無造作にポケットに突っ込んだ。

そして、イロハの肩をガシッと掴んだ。

「分かった。私の負けだ。このネックレスは売却して、治水工事の予算に回そう」

「賢明なご判断です。業者への売却交渉は私が行います。一割高く売ってみせます」

「だが、覚えておけ」

シルヴィスはイロハの顔を覗き込み、ニヤリと笑った。

その瞳は、宝石よりも怪しく、熱く輝いていた。

「私は諦めが悪い男だ。金や実益でなびかないお前だからこそ、征服欲が湧く。いつか必ず、お前が計算機を放り出して欲しがるような『何か』を見つけてやる」

「……それは、高機能な計算機以上の価値があるものですか?」

「ああ。お前の想定(計算)を遥かに超えるものだ」

シルヴィスはイロハの頭を乱暴に、しかし優しく撫でた。

「楽しみに待っていろ、私の愛しい守銭奴殿」

「髪が乱れます。セットし直す時間が無駄です」

イロハは文句を言いながらも、その手を振り払うことはしなかった。

シルヴィスの体温が、夜風に冷えた体に少しだけ心地よかったからだ。

(まあ、この方の『諦めの悪さ』は、ビジネスにおける粘り強さとして評価できますね。パトロンとしては優良です)

イロハはあくまでビジネスパートナーとしての評価を更新するに留まった。

しかし、彼女はまだ気づいていない。

シルヴィスがポケットの中で握りしめたネックレスよりも、彼が向けた「執着」のほうが、遥かに重く、逃れられないものであることに。

「……さて、閣下。感動的なシーンは終わりましたので、治水工事の見積もり作成に戻ります」

「お前なぁ……少しは余韻に浸れ」

「時は金なりです」

スタスタと部屋に戻っていくイロハの背中を見送りながら、シルヴィスは呟いた。

「……次は、もっと実用的な攻め手が必要だな。あいつの心の『帳簿』に、俺という項目をねじ込むには」

冷徹公爵の求愛作戦は、まだ始まったばかりだった。
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