婚約破棄、清算しましょう。真実の愛は非効率!?

恋の箱庭

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「……おかしいですね」

公爵邸の執務室。

イロハは毎朝の日課である帳簿チェックの手を止め、怪訝な顔をした。

「公爵領特産の『銀葉ハーブ』の出荷量が、先週から急激に落ち込んでいます。天候不順の報告はありませんし、生産者のサボタージュでもない。……物流で何かが起きています」

「ほう、鼻が利くな」

シルヴィスが優雅に紅茶を啜りながら答える。

「報告によると、最近この辺りの流通網を牛耳ろうとしている新興の商会があるらしい。『ゴルド商会』とか言ったか」

「ゴルド商会……」

イロハは記憶のデータベースを検索する。

「ああ、あの『あくどい商売』で有名な。質の悪い小麦を高級品と偽ったり、橋の通行料を勝手に徴収して逮捕スレスレの行為を繰り返している、あの三流商会ですか」

「辛辣だな。だが、その三流商会が、うちのハーブを市場に出回らせないよう、街道で馬車を買い占めたり、倉庫を独占したりしているようだ」

シルヴィスは面白くなさそうに目を細めた。

「目障りだ。私兵団を送って、商会長の首を刎ねてこようか?」

「野蛮です、閣下。暴力は最終手段(ラストリゾート)です」

イロハはピシャリと制止した。

「それに、彼らのやり口は現行法スレスレですが『違法』ではありません。ここで武力行使に出れば、こちらの不当性が問われ、ブランドイメージが傷つきます。それは損失です」

「では、どうする? 指をくわえて見ているのか?」

「まさか」

イロハはニヤリと笑った。

その笑顔は、かつてカイル王子に請求書を突きつけた時と同じ、獲物をいたぶる捕食者のそれだった。

「商売の喧嘩は商売で買うのが礼儀です。……ちょうど、彼らから『業務提携』の申し入れが来ていましたね? お招きしましょう」

***

数時間後。公爵邸の応接間。

「いやあ、お初にお目にかかりますぅ! ゴルド商会の会長、ゴルドでございますぅ!」

現れたのは、脂ぎった禿頭に、成金趣味の金のネックレスをじゃらじゃらと下げた太った男だった。

彼はシルヴィスの前で卑屈に揉み手をしながらも、その目は欲にギラギラと光っている。

「公爵閣下におかれましては、領地のハーブ販売でお困りだとか? いやあ、最近は馬車不足やら倉庫不足やらで、なかなか思うように荷が運べないそうですなぁ?」

「……白々しい」

シルヴィスが不機嫌そうに呟くが、隣に控えたイロハがスッと前に出た。

「ようこそ、ゴルド会長。本日は『流通網の改善』についてのご提案だとか?」

「おや、そちらの可愛らしいお嬢さんは?」

「当家の財務管理官、イロハです。以後、お見知り置きを」

「へぇ、こんな若い娘さんが? 公爵様も趣味がおよろしい」

ゴルドはイロハを値踏みするように舐め回し、下卑た笑いを浮かべた。

「単刀直入に言いましょう。我々ゴルド商会が、公爵領の物流を一手に引き受けさせていただきたい。そうすれば、馬車の手配も倉庫の確保も、すべてスムーズに行きますよぉ」

ゴルドは分厚い契約書をテーブルに置いた。

「ただし、手数料として『売上の六割』を頂戴しますがね」

「六割!?」

控えていたセバスが思わず声を上げる。

「法外な! 通常の手数料は一割から二割だぞ!」

「嫌なら結構。ですが、他の業者はすべて私が……おっと、契約済みでしてねぇ。断れば、公爵領のハーブは一本たりとも外に出せませんよ? 腐らせて廃棄するしかありませんなぁ!」

ゴルドは勝ち誇った顔で笑う。

完全な脅迫だ。

シルヴィスのこめかみに青筋が浮かぶ。彼が腰の剣に手をかけようとした、その時。

「……なるほど。売上の六割、ですか」

イロハが冷静な声で割って入った。

彼女は契約書をパラパラとめくり、数秒で内容を把握した。

「悪くない条件ですね」

「い、イロハ様!?」

セバスが驚愕する。

「お嬢ちゃん、話が分かるじゃないか! そうだよ、損して得取れってね!」

ゴルドが満面の笑みを浮かべる。

「ええ。では、この契約書にサインしましょう。……ただし」

イロハは懐から一本のペンを取り出し、契約書の末尾にある「特記事項」の欄に、さらさらと何かを書き加えた。

「こちらの『品質保証条項』だけ、追加させていただいても? 御社のような一流商会にお任せする以上、品質管理には万全を期していただきたいので」

「ん? ああ、構わんよ。細かいことは気にしねぇ!」

ゴルドは中身も読まずに頷いた。どうせ小娘の書くことだ、せいぜい「丁寧に扱ってください」程度のことだろうとタカをくくっていたのだ。

「では、契約成立です」

イロハとゴルドがサインを交わす。

「ガハハ! これで公爵家の富は俺のものだ!」

ゴルドは高笑いをしながら屋敷を去っていった。

残された部屋で、シルヴィスが呆れたようにイロハを見た。

「……正気か? 六割も取られてどうする」

「閣下。契約書の『特記事項』、読みましたか?」

イロハは、ゴルドが持ち帰った契約書の写しをヒラヒラとさせた。

シルヴィスが目を通す。

『但し、輸送中に商品の鮮度低下、破損、あるいは市場価格の下落が発生した場合、その損害額の全額を、手数料の十倍の違約金としてゴルド商会が補填するものとする。尚、鮮度の基準は当社規定(イロハ基準)に準拠する』

「……なんだこれは」

「銀葉ハーブは非常に繊細です。温度管理を間違えれば一時間で変色します。ゴルド商会の粗悪な馬車と倉庫では、100%品質を維持できません」

イロハは邪悪な笑みを浮かべた。

「つまり、彼らが輸送したハーブはすべて『破損品』扱いとなります。その瞬間、彼らは売上の六割を得る権利を失うどころか、商品価値の全額×十倍の違約金を支払う義務が発生します」

「……」

「さらに、私は昨日、王都の主要な錬金術師ギルドに『銀葉ハーブの買い取り価格を一時的に暴落させる』よう裏工作を行いました。市場価格が下がれば、それも彼らの補填対象です」

イロハはパチンと指を鳴らした。

「計算上、ゴルド商会は三日で破産します。その後、彼らの持つ物流網と倉庫を、借金のカタとしてタダ同然で接収します。これをM&A(合併・買収)と言います」

シルヴィスは契約書を持ったまま、しばらく固まっていた。

やがて、肩を震わせて笑い出した。

「くくっ……はははは! 恐ろしい女だ! 相手を油断させておいて、骨の髄までしゃぶり尽くすとは!」

「ビジネスは戦場です。敵の武器(契約書)を利用して自滅させるのは定石です」

「お前を敵に回さなくて本当によかったよ。……で、ゴルド商会の会長は今頃どうしている?」

「さあ? シャンパンでも開けているのでは? ……それが『最後の晩餐』とも知らずに」

***

三日後。

公爵邸の門前に、やつれ果てたゴルド会長が土下座していた。

「お助けくださいぃぃ! 破産ですぅぅ! 違約金なんて払えませんんん!」

運んだハーブはすべて「変色」判定され、違約金が天文学的な数字になっていたのだ。

イロハは門の内側から、冷ややかに彼を見下ろした。

「契約は契約です。ゴルド会長、払えないなら担保をいただきます。あなたの商会の全資産、および構成員の身柄を」

「そ、そんなぁ……!」

「安心してください。当家はホワイト企業です。あなたには、今日から『馬車の車輪磨き係』としてのポストを用意しました。時給は最低賃金ですが、残業代は出しますよ?」

「うわぁぁぁぁん!」

泣き崩れる元・悪徳商会長。

イロハは満足げに頷き、シルヴィスに報告した。

「閣下。物流網の確保、完了しました。コストは紙代とインク代のみです」

「見事だ。……だが、イロハよ」

「はい?」

「お前の笑顔、最近どんどん悪役になっていないか?」

「心外ですね。私は領民のために悪を成敗した『正義の管理官』ですよ?」

イロハは澄ました顔で、回収したゴルド商会の帳簿(裏金たっぷり)をめくり始めた。

「さて、次はどの悪党の財布を管理してあげましょうか」

その姿は、間違いなくこの国で最も敵に回してはいけない存在として、裏社会のリストに刻まれることとなった。
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