婚約破棄、清算しましょう。真実の愛は非効率!?

恋の箱庭

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「……帰りましょう、閣下」

王宮の大広間。

きらびやかなシャンデリア、生演奏のワルツ、着飾った貴族たちの笑い声。

国中から選りすぐりの貴族が集う「星祭りの夜会」の会場入り口で、イロハは踵を返そうとした。

「なぜだ。まだ入場もしていないぞ」

シルヴィスがイロハの腕を掴んで引き止める。

「空気中の成分分析の結果、ここには『面倒な案件(トラブル)』と『非生産的な会話』が充満しています。私の健康と精神衛生に悪影響です」

「逃げるな。今日は私のパートナーとして、周囲に『所有権』を見せつけるのが目的だと言っただろう」

シルヴィスは楽しそうに笑い、イロハの腰に手を回して強引にエスコートした。

今日のイロハは、前回のお仕着せではない、シルヴィスが特注した真紅のドレスを身に纏っていた。

背中が大きく開いた大胆なデザインだが、彼女の冷ややかな美貌がそれを気品あるものに変えている。

会場に入った瞬間、ざわめきが広がった。

「あれは……魔王公爵?」

「隣にいるのは……まさか、悪役令嬢イロハ?」

「なんて美しさだ……あんな雰囲気だったか?」

好奇と畏怖の視線が集まるが、イロハは全く意に介さない。

「視線線量(モニタリング・レベル)が高いですね。閣下、見世物料として一人あたり金貨一枚徴収しませんか?」

「お前のその、あらゆる事象をお金に変えようとする思考回路、嫌いじゃないぞ」

二人が会場の中央に進むと、人垣がモーゼの十戒のように割れていく。

その先で、またしてもあの男が待ち構えていた。

「イ、イロハ……!」

カイル王子だ。

彼はイロハの姿を見ると、グラスを持ったまま駆け寄ってきた。

その目は少し充血しており、明らかに疲労困憊の様子だ。

「探したぞ! 手紙の返事をくれないから……!」

「郵便事故でしょう。あるいは殿下の字が汚すぎて、仕分け係が読めなかったのでは?」

イロハは素っ気なく答える。

「そんなことより、聞いてくれ! 君がいなくなってから、僕は……僕は……!」

カイルはイロハの手を取ろうとするが、シルヴィスがすっと間に入り、その手を払った。

「気安く触るな、カイル。それは私のものだ」

「兄上! どいてください! これは国の存亡に関わる話なんです!」

カイルは必死だった。

「イロハ! 君がいないせいで、僕は毎日三時間の睡眠しか取れていない! マリアが淹れてくれるお茶はなぜか泥の味がするし、大臣たちは僕を見る目が冷たい! 戻ってきてくれ! 僕には君という『演算機能』が必要なんだ!」

「……」

イロハは扇子で口元を隠し、冷徹な目でカイルを見下ろした。

「殿下。それはプロポーズのつもりですか? それとも求人募集ですか?」

「り、両方だ! 愛している(業務的に)!」

「最低の告白ですね。録音しておけば『ダメ男語録』として出版できたのに」

イロハが呆れていると、周囲の貴族たちがヒソヒソと噂し始めた。

「まあ、王子殿下ったら、あんなに未練がましく……」

「やはりイロハ様がいないと何もできないのでは……」

カイルはその視線に耐えきれず、逆上したように叫んだ。

「だ、だいたい兄上も兄上だ! イロハのような可愛げのない女を囲ってどうするんですか! 彼女は計算機と結婚したような女ですよ!?」

「だからどうした?」

シルヴィスが低い声で応じた。

その瞬間、会場の温度が数度下がった気がした。

「計算高い? 可愛げがない? ……カイル、お前は何も分かっていないな」

シルヴィスは一歩、また一歩とカイルに詰め寄る。

その威圧感に、カイルはズルズルと後退し、壁際へと追い詰められていく。

「イロハの計算高さは芸術だ。その冷徹な論理の中にこそ、純粋な知性が宿っている。お前のような感情論でしか動けない凡人には、彼女の美しさは理解できまい」

「ひっ……あ、兄上……目が、目が怖いです……」

「それに、彼女は私の前では意外と表情豊かだぞ? 金貨を見た時の笑顔など、天使に見える」

「そ、それはただの守銭奴……」

「黙れ」

シルヴィスはカイルを壁際に追い詰めると、イロハを振り返った。

「イロハ、こいつに見せつけてやろう。お前が誰のものか」

「はい? 何を……」

シルヴィスはイロハの手を引き、自分とカイルの間に立たせた。

そして、イロハを壁に押し付ける体勢で――いや、イロハ越しに、カイルを威嚇するような体勢で、壁に手をついた。

いわゆる「壁ドン」だ。

だが、その勢いは尋常ではなかった。

「私の女に、二度と近づくな」

ドォォォォォン!!

轟音が響いた。

シルヴィスの掌が壁に触れた瞬間、壁面に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、パラパラと漆喰が崩れ落ちた。

「……ッ!?」

カイルは腰を抜かしてへたり込んだ。

イロハは、自分の顔の真横数センチの場所で壁が粉砕されるのを見て、瞬きを一つした。

「……閣下」

「なんだ?」

シルヴィスは涼しい顔で、至近距離からイロハを見つめる。

その瞳は熱く、独占欲に満ちている。

周囲の令嬢たちは「キャアアア!」「なんて情熱的!」「壁が! 壁が死んだわ!」と黄色い悲鳴を上げている。

だが、イロハは冷静に計算機を取り出した。

「壁の修繕費、請求書はどちらに回しますか? この壁は大理石張りですので、ざっと見積もって五十万ゴールドです」

「……」

「あと、今の衝撃で私の髪型が1ミリずれました。セット代の再請求も追加で」

シルヴィスの情熱的な表情が、ふっと崩れた。

彼は肩を震わせ、崩れた壁に手をついたまま笑い出した。

「くくっ……ははは! この状況で、まず金の心配か!」

「当然です。器物損壊は犯罪ですよ?」

「いいだろう。壁の修理代も、お前のセット代も、全額私が払う。……だから」

シルヴィスは顔を寄せ、イロハの耳元で囁いた。

「今は、私だけを見ろ」

その声色は、先ほどの威圧とは打って変わって甘く、溶けるような響きを持っていた。

イロハの心臓が、不覚にもトクンと跳ねた。

(……不整脈? いえ、これは『吊り橋効果』による一時的な興奮状態……)

彼女が自己分析しようとしている間に、シルヴィスは彼女の頬にキスを落とした。

「きゃああああ!」

会場のボルテージが最高潮に達する。

カイルは白目を剥いて気絶していた。

「……閣下。公衆の面前での過度な接触は、私の市場価値(お嫁に行ける確率)を低下させます」

「低下させているんだ。他に行けないようにな」

シルヴィスは悪びれもせずに笑うと、崩れた壁を背に、イロハの手を取って歩き出した。

「さあ、帰るぞ。目的は達した」

「……壁の弁償手続きがまだですが」

「後でセバスにやらせる。……それより、帰ったら『反省会』だ」

「反省会? 私が何かミスを?」

「いいや。私が、お前のその減らず口をどう塞ぐか、実地検証する」

シルヴィスの楽しげな横顔を見ながら、イロハは「口を塞ぐ=物理的な拘束?」と解釈し、脱出ルートの計算を始めた。

しかし、計算機が弾き出した答えは『逃亡成功率0%』。

背後の壁には、公爵の「愛(物理)」の痕跡が、生々しく刻まれていたのだった。
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