婚約破棄、清算しましょう。真実の愛は非効率!?

恋の箱庭

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「イロハ。目を閉じろ」

公爵邸の書斎。

シルヴィスは机の上の何かを布で隠しながら、入室してきたイロハに命じた。

「……お断りします」

イロハは即答し、一歩後ずさりした。

「目を閉じた瞬間に視覚情報を遮断されると、不意打ちのキスや壁ドン(物理)に対する回避行動が0.2秒遅れます。リスク管理の観点から却下です」

「……信用がないな」

シルヴィスは苦笑したが、すぐに気を取り直して布に手をかけた。

「まあいい。見れば分かる。……これを受け取れ」

バッ!

シルヴィスが布を取り払う。

そこにあったのは、宝石でもドレスでも、花束でもなかった。

無骨な金属の塊――否。

黒曜石のような艶やかなボディに、ミスリル銀で刻まれた数字キー。

そして、中央には淡く光る魔石が埋め込まれた、奇妙な機械だった。

「……これは?」

イロハの目が釘付けになる。

「お前がいつも持ち歩いている計算機。あれは旧式だろう? 歯車がうるさいし、桁数も足りないと文句を言っていたのを思い出してな」

シルヴィスは得意げに説明を始めた。

「王立魔導研究所に特注で作らせた、世界に一台だけの『魔導演算機』だ。動力は最高純度の魔石。歯車を使わない魔力回路駆動だから静音性は完璧。そして、桁数は――」

「……三十桁!?」

イロハが悲鳴のような声を上げた。

彼女はふらふらと机に歩み寄り、震える手でその機械に触れた。

「う、嘘……三十桁表示……!? これなら国家予算の複利計算も一瞬で……!」

「それだけではない。右上のボタンを押してみろ」

イロハがおそるおそる押す。

ピロリーン♪

軽快な音と共に、空中に光のホログラムが投影された。

そこには、入力した数字がグラフ化され、3Dで回転していた。

「……!」

イロハは絶句した。

「グラフ自動生成機能付きだ。これがあれば、お前の好きな『プレゼン』とやらも捗るだろう?」

シルヴィスはニヤリと笑った。

「どうだ? 前回のネックレスよりは実用的だろう?」

イロハは答えなかった。

彼女は、まるで恋に落ちた乙女のような瞳で、魔導演算機を見つめていた。

頬は紅潮し、瞳は潤み、呼吸が荒くなっている。

「……美しい」

イロハが吐息混じりに漏らした。

「この無駄のないフォルム……指に吸い付くようなキータッチ……そして、この圧倒的な処理速度(スペック)……」

彼女は演算機を抱きしめ、頬ずりをした。

「好き……大好きです……ッ!」

「……!」

シルヴィスの心臓が跳ねた。

ついに言った。

あの鉄壁の守銭奴令嬢が、「好き」と口にしたのだ。

(やったぞ……! ついに落とした!)

シルヴィスはガッツポーズをとりたい衝動を抑え、優しくイロハの肩を抱いた。

「そうか。気に入ってくれたか」

「はい! こんなに素晴らしいもの、初めてです!」

イロハはうっとりと見上げる。

「私、一生大切にします! もうこれなしでは生きていけません!」

「イロハ……」

シルヴィスは感極まった。

高価な宝石も、権力も、甘い言葉も通じなかった彼女が、自分の贈り物にこれほど感動している。

彼はイロハの手を取り(その手には計算機が握られているが)、甘く囁いた。

「俺もだ。お前なしでは生きていけない。……愛しているぞ」

「はい! 私も愛しています!」

イロハは満面の笑みで叫んだ。

「この『ゼロ除算エラー回避機能』を!」

「……は?」

シルヴィスの動きが止まった。

「見てください閣下! 通常ならエラーが出る計算式でも、この子は近似値を出してくれるんです! なんて賢い子なんでしょう! 愛おしい! 結婚したい!」

イロハはシルヴィスのことなど視界に入っていなかった。

彼女が愛の言葉を囁いていた相手は、彼ではなく、彼が贈った『機械』だったのだ。

「……」

部屋に冷たい風が吹く。

シルヴィスは、イロハが計算機にキスをするのを見て、深い敗北感を味わった。

(……負けた。俺は、自分が作らせた機械に嫉妬しているのか?)

しかし。

「ありがとうございます、閣下!」

イロハが突然、シルヴィスに向き直った。

その笑顔は、今まで見た中で一番、曇りのない純粋なものだった。

「私、閣下のことを見直しました! 私のニーズを完璧に理解し、最適解(ソリューション)を提供してくださるとは! パトロンとしての評価ランクを『SSS』に格上げします!」

「……パトロンとして、か」

「はい! これなら、あと百年は公爵家のために働けます! さあ、早速この子を使って、過去十年の帳簿を再計算してきますね!」

イロハはスキップでもしそうな勢いで、計算機を抱えて部屋を飛び出していった。

バタン。

扉が閉まる。

残されたシルヴィスは、しばらく呆然としていたが、やがてフッと笑い出した。

「……まあいい」

彼は窓の外を見上げた。

「『あと百年は働く』か。つまり、生涯俺のそばにいるということだな」

言葉の意味は違っていても、結果(アウトプット)が同じなら良しとする。

ポジティブすぎる解釈で自分を納得させ、シルヴィスは満足げに頷いた。

「次は、その計算機よりも俺の方を見させてやる。……手強いライバル(計算機)が現れたものだ」

魔王公爵は、自らが生み出した最強の恋敵(魔道具)に対し、静かに対抗心を燃やすのであった。
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