婚約破棄、清算しましょう。真実の愛は非効率!?

恋の箱庭

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「……困ります」

公爵邸の玄関ホール。

イロハは、門番を突破して――というより、門番が「あ、あの泣いている小動物を止めるのは可哀想だ」と躊躇した隙に侵入してきた来訪者を見下ろしていた。

「アポイントメントなしの訪問は、当家のセキュリティ規定違反です。お引き取りを」

「そ、そんなこと言わないでくださいぃぃ!」

玄関マットの上で土下座せんばかりの勢いで泣いているのは、マリア男爵令嬢だった。

彼女はボロボロの恰好をしていた。

髪はボサボサ、ドレスの裾はなぜか焦げており、頬にはインクの染みがついている。

「どうしたのですか、その恰好は。王城で爆発実験でも?」

「違いますぅ! お茶を淹れようとしたらポットが爆発して、書類を乾かそうとしたら暖炉に引火して……!」

マリアは涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔を上げた。

「もう無理なんです! イロハ様がいないと、私、息をするのも難しいんです!」

「……呼吸機能に異常はありませんよ」

イロハが冷たく突き放そうとすると、奥からシルヴィスが出てきた。

「なんだ、騒がしいな。……おや、王太子の愛しい恋人殿ではないか。スパイか?」

「違います公爵様! 私はただ、イロハ様に会いたくて……!」

マリアはイロハのスカートの裾をガシッと掴んだ。

「イロハ様! お願いです、私に『指示』をください!」

「は?」

イロハとシルヴィスが同時に声を上げた。

「指示?」

「はい! 私、どうしたらいいか分からないんです!」

マリアは必死に訴え始めた。

「イロハ様がいた頃は、毎日完璧でした! 『右へ3歩移動』『今すぐ屈みなさい』『そのカップには触るな』って、的確に指示してくれましたよね!?」

「ええ。貴女が動くと被害甚大なので、遠隔操作(リモートコントロール)していただけですが」

「そのおかげで、私はドジを踏まずに済んでいたんです! イロハ様の指示通りに動けば、世界は平和だったんです!」

マリアの瞳が、崇拝の色を帯びて輝き始めた。

「あの『廊下の真ん中を歩くな』という罵倒も、私にとっては神の啓示でした! 『ドレスが似合わない』という言葉も、ファッションチェックとして受け止めていました!」

「……」

「でも、カイル様は違うんです!」

マリアの声が悲痛な響きを帯びる。

「カイル様は『君はそのままでいい』って言うんです! 『何もしなくていい、君は座って微笑んでいればいい』って!」

「それは、一般的には優しい言葉では?」

シルヴィスが尋ねる。

「優しくありません! 拷問です!」

マリアが叫んだ。

「私は動きたいんです! 役に立ちたいんです! でも、動くと物が壊れるんです! カイル様は『大丈夫だよ』って笑って許してくれますけど、その裏で国庫が減っていくのを私は知っています!」

マリアは頭を抱えた。

「このままじゃ私、国を滅ぼす『傾国の美女(物理)』になってしまいます! お願いですイロハ様、私を管理してください! 私という不発弾の信管を抜いてくださいぃぃ!」

「……」

広間に沈黙が流れた。

シルヴィスが、プルプルと肩を震わせている。

「……くっ、くくく! そうか、カイルの奴、マリアにいじめられていたと信じ込んでいたが……実はマリアの方がイロハに依存していたのか!」

「笑い事ではありません、閣下」

イロハはため息をついた。

「どうやらカイル殿下は、マリア様という『制御不能な原子炉』の制御棒(わたし)を引き抜いてしまったようですね。メルトダウン寸前です」

「イロハ様ぁ……」

マリアがウルウルした瞳で見上げてくる。

「私、カイル様のこと好きですけど……イロハ様の方がもっと好きです!」

「やめてください。鳥肌が立ちました」

イロハは即座にスカートを引き剥がした。

「マリア様。貴女に必要なのは私ではありません。『注意深い観察眼』と『指差し確認』の習慣です」

「ゆ、指差し確認……?」

「はい。行動する前に、周囲を360度確認し、『よし!』と声に出すのです。これだけで事故率は80%低減します」

イロハは懐から、一枚の紙を取り出した。

「これをあげます。『マリア専用・一日一善チェックシート』です」

「チェックシート……!」

「『ポットを持つ前に取っ手の緩みを確認したか?』『歩く前に足元の障害物を見たか?』などの項目があります。これをすべてクリアしない限り、椅子から立ち上がることを禁じます」

「は、はい! やります! 私、一生懸命チェックします!」

マリアは紙を押しいただき、まるで聖典のように胸に抱いた。

「ありがとうございますイロハ様! やっぱりイロハ様は私の神様です!」

「神ではありません。元・管理者です」

「あの、これ、お礼です!」

マリアはポケットから、クシャクシャになった封筒を取り出した。

「カイル様が『イロハに渡せ』って書いていた手紙です。私が届ける途中で転んで、池に落としてしまったんですけど……乾かしたので読めると思います!」

「……」

イロハは泥と藻がついた封筒を指先で摘まみ上げた。

「……読めませんね。インクが滲んで解読不能です」

「ああっ! ごめんなさい! またやっちゃいました!」

「いいえ。むしろ好都合です。読む手間が省けました」

イロハは躊躇なく封筒をゴミ箱へシュートした。

「さあ、お帰りください。貴女が長居すると、うちの屋敷の備品まで壊れそうです」

「はい! 失礼しました! 私、指差し確認しながら帰ります!」

マリアは立ち上がり、キリッとした顔で玄関へ向かった。

「右よし! 左よし! 足元よし! ……あ、段差!」

彼女は慎重に足を上げ、見事に転ばずに玄関を出て行った。

「……嵐のような女だな」

シルヴィスが感心したように呟く。

「全くだな。カイルはあんな爆弾を抱えて、よく『真実の愛』などと言えるものだ」

「愛は盲目と言いますが、彼の場合は単に『危機管理能力の欠如』ですね」

イロハは疲れたように肩を回した。

「しかし、これでハッキリしました。カイル殿下は、マリア様からも愛想を尽かされかけている。……彼が孤立無援になる日は近いです」

「ふむ。そうなると、王位継承権の行方が面白くなってくるな」

シルヴィスは意味深に笑うと、イロハの背中をポンと叩いた。

「まあ、我々は高みの見物といこう。……それにしても、イロハ。お前、同性にもモテるんだな」

「勘弁してください。私に崇拝者は不要です。必要なのは、私の指示通りに動く『優秀な部下』か、私に金を払う『優良な顧客』だけです」

「私はどちらだ?」

「閣下は『手のかかる大型案件』です」

イロハは素っ気なく答えて執務室へ戻っていく。

シルヴィスはその後ろ姿を見ながら、楽しそうに独り言ちた。

「大型案件か。……なら、長期契約でじっくり攻略させてもらおうか」

その頃、王城では。

カイル王子が、空っぽのポストの前で立ち尽くしていた。

「おかしいな……。マリアに頼んだ手紙、まだ届かないのかな……。イロハ、君は今、僕のことを想って泣いているんだろうか……」

彼だけが、何も真実を知らないまま、幸せな妄想の中にいた。
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